上巳の節句

風早は中庭で一心不乱に木ぎれを彫っていた。
冷たい風も少しぬるみはじめ、岩長姫の屋敷でも梅の花がちらほらと咲いている。空もぼ
んやりと春の色に霞んでいた。
中庭につながる回廊を、誰かがこつこつと歩いてくる。規則正しく、かつ身軽な足音は耳
になじんだものだ。中庭に入ってきたところでふと足音がやんだので、風早は手に持った
小刀を置いて振り返った。
忍人が庭の入口で立っている。少し首をかしげているのは、自分を見かけたものの、何か
しているその様子に、声をかけたものかどうかと悩んだかららしい。風早は苦笑して、お
いでおいでと弟弟子を手招いた。その手振りにほっとした顔をして、忍人がたたっと近づ
いてくる。
「…何をしているんだ、風早?」
問われて、風早は少々情けない気持ちで手にした木ぎれを振ってみせた。
「………?」
忍人がまじまじとその木ぎれを見て、ゆっくりと首をかしげる。それが何なのか、わから
なかったらしい。苦笑いを添えて、風早は説明した。
「その、…人形を彫ろうと思ったんだけどね」
「姫のために?」
忍人は印象の強い瞳を細めるようにして笑う。どこか大人びた笑いだ。
「それはきっと、姫も喜ぶだろう」
「…うまくいけばね」
はあ、と風早はため息を一つついてみせる。
「…どうもうまくいかない」
忍人は再び、まじまじと木ぎれを見た。
「風早はいつもとても器用じゃないか」
「木彫りとは相性が悪いみたいだね」
風早は苦笑した。忍人はゆるりと首をかしげる。
「では、…土人形を作ったら?」
風早の土器作りの腕前を知る弟弟子としては、当然の言葉だと言えた。風早自身、土人形
を作るのなら、ここまで苦労しないですむ自信はある、が。
「こればかりは、そういうわけにもいかなくてね。…これは、厄流しの形代なんですよ」
忍人はぱちくりと目を見開いてから、ああ、と小さくつぶやいた。
「そうか、もう上巳か」
上巳の日の厄流しはまだ宮中くらいでしか行われていない行事のはずだが、宮に近い一族
の子息である忍人にとっては、既になじみの儀式らしい。するりと行事名を口にして、な
るほど、としみじみ木ぎれを見た。
「土人形では、流す途中で沈みそうだな」
「でしょう。それでは厄流しの意味がありませんからね」
はあ、と風早はまたため息をついた。
流すためのわらの船は上手くできたのだが、どうも形代がうまくいかない。どのみち、流
すことが目的だから、頭部と胴体があって、おおよそ人と認識できればそれでいいのだが、
…せっかくだから少しでも上手くと思ってしまう。
千尋のために作るのだから。
忍人がまた首をかしげた。
「どうして、風早が?」
「なんです?」
「形代は、従者が用意しなければいけないものなのか?」
「そういうわけではないんですがね」
おっとり笑う風早の笑みに、少し苦いものが混じった。
「宮中の本当の行事に参加するのは、陛下と一ノ姫だけなんですよ」
二ノ姫は行事に参加しない。髪の色や目の色が常の人と少しちがう姿をしている姫を外に
出すことを、主立った官人たちは是としていない雰囲気があって、こうした公式行事から
は彼女は外されるのが常だった。表向きには、陛下と後嗣である一ノ姫が参加するだけで
正当性は保たれるのだから、なおさらだ。
「だから、姫の分はないんです。…でも姫も真似事でいいから厄流しをやってみたいとい
うので、じゃあ二人だけでこっそりやりましょうね、と約束したんですよ」
公式にやるわけではないから、こういった備品を用意する官にものを請求するわけにはい
かない。そこで風早が自分で作っているのだが。
「簡単にできると思ったんですがねえ」
風早は二度ほど首を横に振った。
忍人は、さっきとは逆の方向に首をかしげていたが、…やがて首をまっすぐに戻し、おず
おずと手をさしのべた。
「…忍人?」
「もし、どうしても風早が自分で作りたいというなら別だけど、…もしよければ、少し俺
にその木ぎれを貸してくれないか」
「…かまいませんが」
はい、と渡すと、忍人は懐から自分の小刀を取りだした。そしてためつすがめつしてにこ
りと笑い、素早い手つきでしゃっしゃっと木ぎれを削り出す。手慣れた手つきだった。
風早は、弟弟子が刀を扱い慣れていることは知っていたが、こういう才能があるとは知ら
なかった。
「…うまいですね」
「形代を作るのは初めてではないから」
短く答えてふと小刀を置き、またためつすがめつする。少し彫っただけなのに、木ぎれは
もう立派に形代の形をしている。そこへもう一度忍人が手を入れると、あっという間に、
宮の式で使っても遜色のないような形代が出来上がった。
「あとは風早が好きなように、…二ノ姫が喜ぶような飾りでもいれてあげればいい」
そう言って手渡してくれる形代を受け取りながら、風早は苦笑した。
「そんな器用なことが出来るようなら、こんなに苦労はしてないよ。…ありがとう、忍人。
助かったよ。これで厄流しがちゃんと出来る」
お礼に、というわけでもないけれど。
「もしよかったら、君も一緒に行かないか?」
忍人はくるんと目を丸くした。
「厄流しに?」
「うん」
だがしかし、彼は笑って首を横に振った。
「いや、…残念だけれど。上巳の日には、里に帰る予定があるから」
今度目を丸くしたのは風早だった。忍人の里は、羽張彦や風早のそれに比べれば近いので
一日で行って帰ってこられるが、彼が岩長姫の屋敷に来てから、里に帰ると言って出かけ
ていく姿を見たことはほとんどない。
風早の不思議そうな顔に、忍人は照れたように少し首をすくめた。
「うちの家でも、毎年厄流しの真似事をするんだ。母が毎年、これだけはと」
父のと母のと自分のと。形代は三つ流すけれど。
「父と母は自分たちのことは願っていないみたいだ。二人が見送るのはいつも、俺の形代
の行方なんだ。俺に災厄がかからないようにと」
武門の家に生まれて、岩長姫の屋敷へ勉強に来て。たぶん自分は当然のように、戦うため
に宮に仕えるのだろう。
「そのことに疑いを持ったことはないし、嫌だと思うこともない。自分にはそれがふさわ
しいと思う。だが、当たり前のようにそういう道に身を投じる俺を、母が心配する気持ち
もわかるから」
彼はいつもの年不相応に大人びた顔で、淡々と語る。
「だから師君にお願いして、この日だけ里に帰らせてもらうことにした。俺の形代が無事
に流れていくのを見て母が安堵する顔を見たいなどと、…子供のようだが」
いや、君はまだ子供だから、と混ぜ返したい気持ちになったが、風早はこらえた。川縁で
小さなわらの船を見送る幸せそうな家族の図が目に見えるようだった。
忍人の母親がそこまで厄流しにこだわるのは、彼女が星の一族の出で、少し先見が出来る
からかもしれない。息子が宮の武官となることを恐れてなんとか回避する道を探っていた
という彼女には、一歩一歩自分の先見した姿に近づいていく息子の未来がどれほど恐ろし
く感じられるだろう。気休めとわかっていても、毎年の厄流しにどれほどの思いを抱いて
いることだろう。
人とは。人の親とは。…本来こうあるべきではないか。
同じ場所に暮らしながら、ほとんど接触のない女王と二ノ姫の姿と、離れて暮らしている
のに母を思い子を思う忍人とその両親の姿を、風早は引き比べずにはいられない。
そして、そこまで慈しまれている彼の未来に待つものを知っている自分に、愕然とするの
だ。
自分が全能の神であればこの愛しい者を助けられるのに、と思う心を、風早の中の人でな
い部分が嗤う。そうやって一個の人に荷担し気持ちを寄せている時点で、お前はもう全能
の神たり得ないのだと。人を愛するお前は、既に神ですらないかもしれぬと。
「すまない、つまらない話をした」
はっと気付くと、忍人が風早をのぞき込んでいた。
「子供っぽくてあきれるだろう。忘れてくれ」
うっかり自分の物思いにふけってしまっていた風早の顔を見て、呆れられたかと感じたら
しい。風早は慌てて首を横に振った。
「いや、ちょっと別の考え事をしてしまっただけだよ。俺の方こそすまない、ぼうっとし
て。…君の厄流しがいいものになるといいね」
風早の言葉に、忍人の表情がふわっとほころぶ。久しぶりに見る、年相応の彼の笑顔だっ
た。
「うん。…風早と姫の厄流しも、いい結果が出るといい」
ふわり、風に乗って花びらが一枚飛んできた。紅梅よりも薄く、白梅よりも赤みがあるそ
の花びらは、気の早い桃がどこかで咲いたものかもしれない。