十七の夏

初めて会ったのは一年生の時のコンクール、ソロ部門の決勝会場だった。
楽屋口の廊下で、あいつが優勝候補らしいぜと千秋が指さした先にいた青年は、すらりと
迷いのない澄んだ目をしている。
透徹した眼差しというのはああいう瞳のことをいうのかと、ぼんやり見ていると、彼の知
り合いらしい学生が人の間をすり抜けるようにして近寄っていった。
その姿を目にしたときの瞳の変化を、俺は今も忘れない。
ゆるりと凪いで、ふわりとゆるんで。氷がとろけるように、まろくなって。
……ああ、彼は、この世で誰よりもあの男を信頼しているのだと。…胸に迫るほど。
二言三言、彼と言葉をかわしてぽんと肩を叩くと、楽屋を出て観客席に向かうらしい青年
は、つかつかとこちらへやってきた。
やわらかそうな癖のある髪。それなりに人目を引く身長。けれどそれ以外はこれといって
特徴もなさそうな、と思いながら見ていると、通り過ぎざま、ちらりと彼が俺を見た。
その眼差しはほんの一瞬。けれどその一瞬で俺は気付いた。
…この男は同類だ。俺と同じ匂いがする。
そしてそれはたぶん、向こうも同じだったのだろう。顔を元に戻すその刹那、にやりと笑
った口元が語っていた。自分と同じ匂いの奴がいると、そう気付いた笑いだった。

舞台袖に向かう千秋と別れてロビーに向かうと、先刻の男がぽつねんと外を見て、ロビー
のソファに座っていた。
…何故そうしたのかわからない。…俺は何気なく、一人分空けてその隣に腰をかけた。
沈んだソファの動きで気付いたのか、彼が俺を見る。…俺も彼を見る。
「…やあ」
声をかけたのは彼からだった。
「先刻、神南の東金といたよな。…えっと」
「…土岐。…土岐蓬生」
「…ほうせい?」
名前が少し耳慣れないからだろう。彼は小さな声で復唱した。
「よもぎが生えると書くんよ。土岐は、地名と同じ字」
「…ああ…岐阜かどこかにそんな地名があったな」
さらりと博識を披露してうなずく彼に、今度は俺が問う。
「楽屋口で星奏の如月に話しかけとったやろ」
「ああ。…俺は、榊大地。…木偏に神で榊。…律とは同級生でね」
「同級生?…同じ学校なん?」
「そうだけど。…なぜ?」
「いや、…制服やろ、それ。コンクールは制服出場が義務やから、如月くんも制服のはず
やのに、えらい形がちがうなと」
「ああ」
よく見てるなあ、と笑ってから、大地は言った。
「律は音楽科だけど、俺は普通科だからね。学科で制服の形が違うんだ」
「…へえ」
普通科。…ならば。
「君は、楽器はやらんのん」
「いや。…一応ヴィオラ」
「…一応?」
その曖昧な言い方はなんだ。
大地は肩をすくめる。
「この春から始めたばかりだから」
…ふうん?
「ほなら、俺が君の演奏を聴く機会はなさそうやね、残念ながら」
含みをもってちらりと眺めると、彼はしかし、にやりと笑った。
「そんなことないさ。夢は全国優勝だ。…俺も来年か再来年には、この舞台に立つつもり
だよ」
「…全国優勝?」
思わず眼鏡がずれそうになって、ブリッジを押し上げる。
「始めたばかりで、よう言うわ」
「ソロでとは言ってないよ」
俺の指摘に、大地はさすがに苦笑で首をすくめた。
「目指しているのはアンサンブル部門の出場だ。…いつか、律とね」
……ふうん。
その名を呼ぶときのやわらかさが、あの凪いだ瞳に重なる。少し意地悪い気持ちがじわり
と俺の腹をくすぐる。
「…なあ」
「何?」
「如月くんのこと、好き?」
「…っ」
顔色も変えないかと思ったが、不意を突かれたのか、一瞬彼は息を呑んだ。
「…それは、まあ」
短い答えで平静を装ったつもりだろう。けれどみるみるうちに耳が赤くなって、うなじま
でも少し染める。…どんなに素直にまっすぐに彼のことが好きなのかと、こちらまでつら
れて恥ずかしくなる。
……俺も、こんな風に素直に千秋のことを好きやったら、何か変わるやろか。変われるや
ろか。
らちもない考えに沈み込みそうになったとき、開演10分前を告げるアナウンスが流れて、
我に返った俺も彼も立ち上がった。
「ほなら。…邪魔してごめんな」
「いや。…じゃあまた、いつか」
まっすぐ俺を見る強い瞳のかげりのなさが、少しうらやましく、少し妬ましく。

今も胸に残る、十七の夏。