影法師

街を歩いていると、どこからかヴァイオリンの音が聞こえてきた。だが、大地が聞き慣れ
た音ではなく、どこかぴりぴりと肌に響くような音だ。アンプで増幅されている音なのだ。
「…」
大地は一瞬逡巡したが、思い立ってそちらへ足を向けた。
サイレントヴァイオリンを使っている人間は、他にも横浜にいるだろうが、この暑い日に
路上で演奏をしているような人間が他にいるとは思えない。
「…」
角を曲がると、そこにいたのはやはり東金千秋だった。
彼はちょうど、一曲終えたところだったようだ。いつもどこか人を食ったような顔をして
いる男だが、何か考え事をしているのか、真剣に楽器を見つめているその横顔には少し声
がかけづらい。
…が、視線に気付いたのか、千秋が顔を上げて首をめぐらせ、大地を見た。まるで仮面劇
で早変わりするかのようにいつものにやにや笑いがわいて出る。
…チェシャ猫みたいな奴だな、とふと大地は思った。
「榊か。そんなところでどうした?」
「ヴァイオリンの音がしたからね。君かと思って。…俺こそ聞きたいな、そんなところで
どうした?」
「このそばのスタジオを借りてるんだが、少し早く着きすぎた。…無為に時間をつぶすの
ももったいないし、ちょっとヴァイオリンを慣らしてやろうかと思ってな」
大地はまじまじと千秋のヴァイオリンを見つめた。
まるで骨と皮のようだ。
これでどうやって音が出るのか、と、時々思う。…楽器店で見かけたことはあるが、手に
取ったことはない。もともと、ギターを始めるときもあえてエレキギターでなくアコース
ティックギターを選んだ大地だ。音を出すなら、自然のままの音がいい。もちろん、エレ
クトリックな音の可能性を否定するわけではないのだが。
「なんだ、榊、じろじろと」
そう声をかけられて、はっと我に返る。思いがけず、長く見入ってしまったようだ。声を
かけた千秋はしかし、どこかぽかんとした大地の顔を見返してくっと笑い、
「…ああ、…そうか」
とつぶやいた。そして、
「いいぜ」
そうつぶやくと、ヴァイオリンをケースに収めて、大地の方へ突き出した。
「俺の大事な相棒だ、弾くなよ?…だが、見て、少しさわるくらいならかまわん」
「…いいのか」
このプライドの高い男がそんなことを許すとは思ってもみなかったので、大地は少したじ
ろいだ。だが千秋は大地のそんな反応も楽しいようで、ふっと笑って肩をすくめる。
…様になっている。
「いいさ。たまにあるんだ。演奏者じゃない奴に多いけどな。機械が好きで、ヴァイオリ
ンという楽器を一応は知っている、アコースティックじゃないヴァイオリンは初めて見る、
仕組みが知りたい、…てな。ヴァイオリンを弾かない奴にはさわらせたくもないが、お前
は一応弾く奴だから。…どうせ蓬生は、お前には絶対拒否するだろうし」
「ははは」
大地は思わず苦笑いをした。
「…何をしたつもりもないんだけどね」
ケースの中のヴァイオリンにそっと触れ、おそるおそるに裏返しながら大地は肩をすくめ
た。
「だが、不快にさせているのは事実だ。本人が不快になるのは勝手だが、それで回りに迷
惑が及ぶようなら、申し訳ないと一応謝っておくよ」
「別に」
ネックの裏を確認している大地をのぞき込みながら、千秋は素っ気なく言った。
「俺は気にしてないし、あれで蓬生も、同族嫌悪やとかなんとか言いながら実際は楽しん
でるんだからいいんじゃないか?」
「楽しんでる?…あれで?」
思わず大地はヴァイオリンから顔を上げて声をひっくり返した。
「ああ。たっのしそーにつっかかってるじゃないか。このくそ暑いときにあんなにしゃべ
るなんて、何事かと思ったぜ、最初は」
応じながら、千秋はコントロールボックスを取り上げて大地に手渡した。音色や音量をこ
こでいじれるらしい。エレキギターで言うエフェクターのようなものなのだろうか。
「…暑さと口数って関係あるのか」
「あるんじゃないか?…少なくとも蓬生に関してはある。暑くなってくるときれいに反比
例して口数が減る。…まあ、もともとそう多い方でもないけどな」
話しながら一通りヴァイオリンの仕組みを確認した大地は、満足してケースを千秋に返し
た。受け取った千秋がふと動きを止める。
「…東金?」
まじまじと見つめられて、大地は眉を寄せた。
「…いや。…ついしみじみ考えちまってな。実際、お前の何にそんなにひっかかってるん
だろうな、蓬生は」
「……東金は、土岐とは長いつきあいなんだろう?…そのお前にもわからないのか」
「蓬生がこういう反応をするのは、俺が知る限り、お前が初めてだからな」
言って、千秋はざかざかと自分の後頭部をかき乱した。
「蓬生にとって、他人はみんな、水のようなもんだろうと思ってた。さらさらさらさら、
蓬生の中を流れて通り過ぎて、いってしもたらそれっきり。流れてる間はひんやりして気
持ちよくて、気にかけるふりもしてみせるけど、なくなってしもたらいっつもさっぱり、
元から何にもなかったような顔しとるわ」
珍しく、千秋の言葉に関西の響きが混じる。心の内を吐き出すときは、よそいきを忘れる
のだろうか。
「せやけど、お前のことだけは、心の中に澱みたいにして残っとったんやな。全国大会は
横浜やから、星奏に宿を貸してもらおって言うたら、榊のところかと蓬生は言った。……
そこは普通、如月のところかと聞くところやろう。昨年も一昨年も、星奏は如月のチーム
やった。……ちがうか?」
「ちがわないね」
ソロでもアンサンブルでも、星奏学院といえば如月律のいる学校だと、コンクール出場者
は認識するはずだ。それが当然だと思う。
一気に吐露して、少し落ち着いたのだろうか。…千秋の言葉に、いつものよそいきが戻っ
てきた。
「何があいつの中に残ってるのか、俺にはわからんし興味もない。…ただ、そういう反応
をするのは蓬生だけじゃないんだよな、これが」
「…は?」
大地はぽかんと口を開けた。…あんなふうにつっかかってくる相手は土岐だけだ。他に覚
えはない。
…いやまて、…ハルもつっかかってはくるか。……そのことだろうか。
千秋は、ぐるぐると考えをめぐらせる大地の顔を見てくっと笑った。
「気付いてないのか。…お前のところの大将もそうだろ」
…大将?……うちの?
「…律も、…そうだと言いたいのか?」
律につっかかられた記憶のない大地が確認するように名を挙げると、
「ああ」
不得要領な顔をしている大地を逆にいぶかしむように、あっさりと同意して千秋は首をす
くめる。
「如月は、ライバルがほしいと宣言する割に、誰にも執着しない」
そう続けた千秋の言葉に、大地はようやく少し納得した。土岐が大地につっかかってくる
というよりは、大地に執着を見せているというふうに千秋には見えるらしい。
「生まれる音楽には執着があるようだが、それを弾いている誰かに特別にこだわってみせ
たことは、俺が知る限り一度もない。コンクールで顔を合わせたのは一度や二度じゃない
のにだ」
大地がコンクールに出場するのは全国学生音楽コンクールくらいだが、律は一般を対象と
したそれ以外のコンクールにもいくつか出場している。千秋とはそういった場で何度も顔
を合わせているようだ。そのことを言っているのだろう。
「それが、お前には執着する。…たいした音楽を生み出すわけでもないのにな」
あけすけな千秋の批評を甘んじて大地は受ける。…自分単独では、彼に認められる音楽は
生み出せない。それは大地自身が一番わかっている。…だが。
「律が俺を気にかけるのは、…たぶん、俺が、律に夢を依存しているからだよ」
初めて会ったときからずっとそうだった。大地は、律の途方もない夢に焦がれている。…
たぶんその思いは律にも伝わっているのだ。
だが、その大地の言葉を、けっ、という一言で千秋はうっちゃった。
「本気で一方通行やと思てんか?…真面目にそう思うんやったら、そのにやけた顔はなん
とかせえ」
大地が思わず顔を押さえると、かまかけただけや、素直やなあお前、と笑って、千秋はぐ
いと大地の肩を抱き、その耳元にささやいた。
「…なあ、榊。楽しいなあ?…人に何かを残すのは楽しい」
一瞬言葉を切って、……声をひそめて。
「………それが感動でも、……傷でもや」
「…っ」
思わず大地が後じさる。
「…物騒なことを言うなよ」
「自分だけ綺麗なふりするなよ。…楽しいだろう?……傷をつけるのも」
「東金」
「もっとも、今はがんばってこらえてるようだけどな。…どこまで我慢できるかなあ?…
…たとえば、もし、如月がお前に何の執着も依存もしなくなったら?」
「とう…!」
胸ぐらをつかみかけて、大地ははっと我に返った。
にやり、と千秋は笑う。
「ほらみぃ」
「……」
無言で前髪をかき乱した大地は、そのまま額に手を当て、うつむいて、低く呻いた。
「…ああ。…否定しないよ」
「……」
千秋は無言でその告白を受け止めたが、やがてくっくっくっと喉の奥で転がすような笑い
声をたてはじめた。
「…ああ、榊は素直やなあ。すっとしたわ」
「…東金……」
「すまん。いじりたくなった」
大地に向けられた笑顔は、謝っているわりには傲慢で強くて、魅力的だった。
…東金は、光に似ている、と大地は思った。律の姿が凍てつく真冬の月なら、この男は燃
えさかる真夏の太陽だ。
光の強さにつり込まれるように、大地がふと、なあ、と呼びかけたとき、ピーッ、ピーッ、
と携帯電話が甲高い音を立てた。
「…電話か?」
「いや、アラーム。スタジオの予約時間が来た」
千秋はそそくさと荷物をまとめながら大地に視線を投げ、
「お前、今何か言いかけなかったか?」
と聞いた。
「いや別に、何も。…早く行けよ。一秒も無駄に出来ないんだろ」
「まあ、それがあきんどの心意気、いうもんやな」
わざとらしい関西弁で応じて、軽く片手を挙げると、千秋は行ってしまった。
……その、立ち去る背中でさえ、光にあふれている。
「…お前の光は強すぎるよ、東金」
ぽつりと大地は言った。
「…俺たちみたいな、影法師にはさ」
なぜ、大地をからかおうと思ったのか。…誰と比べて、素直だと思ったのか。
聞いたら東金は答えただろうか。それとも。
……だが、問わずとも大地はその答えを知っていたし、口に出して確認したところで、単
に自分の中の好奇心が満足するだけだったろう。
「……」
光の色が変わった気がして、大地はふと空を見上げる。
日は少し西に傾き始めていた。傾いてもなお強い光が、大地の影を歩道に長く灼きつける。
その細長く、少しねじれたような自分の影は、どこかあの男に似ている気がして、大地は
薄く笑った。