翳り


アンサンブルメンバーで菩提樹寮の一室を防音室に改造する!…という律の無茶振りを受
けて丸一日。
無事完成した簡易防音室のできばえに寮長の律も満足したところで、大地はさっさと後片
付けを開始した。寮の倉庫に手際よく大工道具を片付けていく。その背後で、少しずつ工
具を手渡しながら、かなではぺこりと頭を下げた。
「…今日はお疲れ様でした、大地先輩」
ゆるりと振り返った大地は微笑んでいる。
「ひなちゃんもお疲れ様。…女の子なのに、重いパネル板をたくさん運んで大変だったろ
う?今日はお風呂でよくマッサージしておくといいよ」
「はい、ありがとうございます。……大地先輩、…あ、ハルくんもですけど、…寮生じゃ
ないのに巻き込んじゃってごめんなさい」
大地は片眉を上げると、ふは、という感じに笑った。
「どういたしまして。…前にも言ったかもしれないけど、俺は結構こういうの、得意だか
らね。気にせず呼んでもらって構わないよ。…むしろ俺はひなちゃんに驚いたな。結構上
手だし、…律を止めなかった」
「…え?」
律くんを止めなかったって、どういうこと?とかなでは首をかしげているのに、大地は話
が通じていると思いこんでいるのか、言葉を続ける。
「プレイヤーとして特殊なのは律だけかと思ったら、君たちは皆そうなんだな」
「え?…え?…何がですか?」
ついていけなくてかなでがぽかんと目を見開くと、丸い目がかわいいね、とさらりと言っ
て、大地はかなでの頭をぽんぽんと撫でた。
「俺が知ってるヴァイオリニスト…まあほとんどが星奏の音楽科の生徒なんだけど、皆、
指を傷つける可能性のあることは嫌がるし、避けて通るよ。りんごの皮すらむいたことな
いって豪語して、恥じない奴だって多いんだ。…お前、留学でもして一人暮らしになった
らどうすんだよ、生きていけるのか?って思うことも多いんだけど、どうやらむしろその
意識が当たり前らしいんだよね。大げさかどうかの違いくらいはあるけれど」
大地はそこで一旦言葉を切って、肩をすくめた。
「だけど律は違う。…率先して自分から始めてしまうんだ。…何でもね。今回みたいな大
工仕事なんて、ヴァイオリニストには一番させたくない、したくない仕事だろうに、律は
自分で金槌を握るんだな」
あはは、と思わずかなでも笑ってしまった。ね、と大地も笑いかけてくる。
「そうですね、…指を大事にって、もちろん、心がけてないわけじゃないんですけど、…
…でも思いついてこうするって決めたら絶対迷わないし実行に移しちゃうんですよね。…
律くんって昔からそうなんです。ヴァイオリンを始めたときも、初めてのコンクールに出
たときも、横浜に行くって決めたときも、『うん、やるから』って、……なんて言えばい
いのかな、朝ごはんには納豆食べるから、っていうくらいの気負いのなさで言っちゃうん
です」
大地が目を細めた。その視線に何となく促されているような気がして、かなではもう少し
言葉を足す。
「私たちがどんなにびっくりしても、止めても、……決めたことはやっちゃう。…ずっと
そうです。響也はそれでもまだ抵抗してるけど」
「そうみたいだね」
大地はくすっと笑った。
「言っても無駄だってわかっていても、自分が言わなきゃって責任を感じるんだろうな。
兄弟だし、……それに、ひなちゃんも律と同じタイプだから」
「…へ」
間の抜けた声が出た。大地の眼が三日月の形に一層細くなる。
「星奏に転校してくることを決めたのも、今回のコンクールに出ようって決めたのも、ひ
なちゃんだろう?…決めたことは実行する。意志を曲げない。……君と律はよく似てるよ。
響也と律よりよっぽど兄妹みたいだ」
「……そう、……ですか?」
「そうだよ。…君を見ていると、何だか律を見ているみたいで、俺は放っておけないな」
かなでは思わずふるふると首を横に振った。
「私、律くんほど無茶はしませんよ」
「どうかなあ」
大地は、ははっと笑った。
「そのことに関しては、今はまだ評価しないでおくよ。もうちょっと、ひなちゃんのこと
をよく知ってから、改めて……ね?」
ぽんぽんぽん、とまた頭を撫でながらかなでを見下ろしてくる眼差しが、どこかいつもの
彼らしくない。…浮かんでいるのは不安の色だろうか。かなでがそっと首をかしげると、
少しだけ苦く笑って、
「……君が律ほど無茶でないことを、……俺は、心から願っているよ」
低く、痛みをこらえる声でつぶやく。
「……大地先輩?」
「何だい?」
さらりと笑う顔と声は、もういつもの大地だった。…今のは何だったんだろう、と、目を
ぱちぱちさせているかなでにウィンク一つして、
「さあ、さっさと片付けて戻ろう。でないとうるさいことになるよ」
「うるさいこと?」
「そう。俺と君が二人っきりだからね。きっと今頃響也もハルもはらはらして……」
言い終える前にどかどかと激しい足音が近づいてきた。
「いつまで道具片付けてるんだよ!!」
響也の声だ。
「噂をすれば影だね。……いや、足音かな?」
大地はくす、と笑う。かなでも思わずふふっと笑っていた。
「今戻るよー!」
かなでは口の側に手を当てて声を張って、……ふと、大地を振り返った。
先に行きなさい、と言いたげにひらひらと手を振って笑う、大地のいつもの笑顔。……そ
の下に隠れる暗いものが何なのか、いつか自分が知ることはあるだろうか。
今はただ、そっと微笑み返して、かなでは響也の声に向かって駆けていった。