四つの鍵


その日風早は、まるで小さな子供を相手にしているかのように忍人の前で膝をつき、下か
らすくい上げるように両手で忍人の手を受け止めた。
深夜の狭い廊下にいたのは、風早と忍人の二人きりだった。風早が抱きくるみ、抱え込む
ようにして連れてきた子供二人は、扉一つ隔てた部屋の中で、布団にくるまれてぐっすり
と眠っている。
豊葦原とよく似ているようでいて、見慣れないものもたくさんある邸内。……いや、邸、
と呼んでいいものか。宮や、岩長姫の屋敷はおろか、里長でさえここまで狭苦しい家には
住んでいない。
…だが、忍人がそういうことを冷静に考えられたのは、もっとずっと後になってからだっ
た。廊下で風早と相対していたその一時、忍人の頭の中にあったのは、炎の色と、倒れゆ
く部下達の姿。彼らを残して自分だけ、こんなにも静かで安全そうな場所に逃げてきてい
ることが信じられなくて、いたたまれなくて。
風早は、自分の言葉が忍人に伝わっていないと思うのだろう。静かに辛抱強く同じ言葉を
繰り返す。
「二ノ姫は、中つ国の最後の希望だ。姫が強く、人として大きく成長されるまで、俺たち
は何としても姫を隠し通し、守り抜かなければならない。それには、俺一人の力ではとて
も足りない。…君の力を貸して欲しい、忍人」

−…何度も、聞いた。

忍人の中の冷静な部分が、風早の言葉に心の中だけでそう答える。だが、そんな冷静なの
は心の中のほんの一部だ。忍人の心の中はほとんど真っ白で、…いや真っ黒で。何も見え
ない。何も感じられない。
「……」
風早はやがて言葉を繰り返すことを止め、小さくため息をついて、銀色に光る小さな板状
のものを忍人の両手の上にそっと置いた。
ずっと手の中に握りこんでいたのだろう。金属の冷たい感触を伝えるべきそれは、ほんの
りとあたたかかった。
「……?」
そのぬくもりが、ほんのかすか、真っ黒だった忍人の心を動かした。
ぼんやりと首をかしげる。
覚束ない動きだったのに、風早は目に見えて安堵した顔になった。忍人が初めて、反応ら
しい反応を見せたからだろう。
「それはね、鍵だよ」
「…カ、ギ」
復唱する声はかすれ、低く、声と呼ぶにはほど遠く。ただの息づかいにすぎないような代
物だったが、風早の顔には明らかな喜色が広がった。
「そう、鍵。…この家の鍵だ。…この世界ではね、家を空けるとき、鍵で家を閉ざしてい
くんだよ」
忍人はゆっくりと首をかしげる。
豊葦原でも、錠を下ろすことはある。が、それは宮殿の宝物庫や神のいます座など、非常
に大切な場所に限られる。個人の家など、開けっぴろげなのが普通だ。
思考するそぶりを見せ始めた忍人に、風早の目はなおも和らぐ。
「豊葦原の里では、住む人は皆顔見知りだったけれど、この世界には人が多くて、おまけ
に移動手段が発達しているから、見知らぬ人の往来も多い。おそらくそのために、この世
界の人達は家を閉ざすんだと思う」
そんなふうに他人に対して常に警戒しているというのは、寂しいことのような気もするけ
れどね、と風早はひっそりと目を伏せた。
「でも、今の俺たちには好都合だ。…姫を怪しい者たちから守らなければならないからね」
ひらり。風早の手の中にも小さな銀色の板がひらめく。
「同じ鍵を持っているのは家族だけ。鍵を開けて中に入ってこられるのは家族の証だ」
「……かぞく」
「そう。…今日から俺たちは、この世でたった四人きりの家族だ」
風早は両手を広げ、そっと忍人を抱きしめた。
「……無理矢理君をこんなところへ連れてきた俺のことは、どんなに恨んでも憎んでも構
わない。…だけどあの子達のことは、どうか大切に守ってやってくれ。きみにもし弟妹が
いたらそうするように、兄として慈しんでやってくれないか」
「……弟妹。……兄」
ゆっくり、ぼんやり、忍人は復唱する。その言葉が忍人に呼び覚ました面差しは、あたた
かく、つらいもので。
「はばりひこ、と、…ふつひこの、ように?」
人を愛し、友を愛し、離れて暮らす弟を、周りが見ていて気恥ずかしいほど誇り慈しみ愛
していた羽張彦。
一ノ姫と共に姿を消し、咎人とそしられ、貶められてなお、忍人にとって羽張彦は光その
もので、太陽で。……自分からはほど遠いような気がしてならない。
「……そうだね。羽張彦が布都彦にそうしたように、と言いたいところだけれど、……同
じでなくていいんだよ。君が君なりのやり方で、あの子達を大切に思ってくれればそれで
いい」
忍人の言葉で友を思い出したのだろう。風早の瞳も少し痛みをこらえていた。けれど忍人
に向けられる眼差しは、ただひたすら優しく、辛抱強く、いたわりのこもったもので。
……ああ、と、かすかに残る冷静さで思う。

−…そうすればいいんだな、風早。……少し、わかった。

掌の上の鍵をのろのろと手の中に握りこむ。徐々に力を込め、最後には鍵の形が掌に食い
込むほど強く、手を握った。
「……っ、…忍人?」
様子に気付いた風早が、少し慌てた声を出す。
「……この鍵は、家族のしるしなんだな、風早」
自分でもわかる。声に、力がわいてきた。
「…そうだよ」
風早は泣きそうな目で応えた。
「俺も持ってる。姫にも那岐にも渡すよ。…俺たちを一つにつなぐものだ」
「……。……わかっ、た」
「……忍人」
安堵する風早の声は正気の中で聞いたか、それとも夢うつつの幻か。…忍人が覚えている
のはそこまでで、後のことはすべて、重く深い眠りの中に呑み込まれてしまった。


「おはよう、お兄ちゃん!」
「おはよ、忍人。…なんだ、のんびりだね」
風早が教師として勤める高校に通う千尋と那岐が連れ立って食堂に顔を覗かせた。忍人は
朝食を終え、身支度を整え、のんびりと新聞を読んでいる。
「今日は一限がないんだ。戸締まりは俺が確認するから、鍵は閉めずに行っていい」
「了解」
「風早は?」
うなずく那岐の横で千尋が首をかしげる。
「とっくに行った。今日は校門当番だとかで」
「えー?……ここに鍵あるよ」
千尋が指さす場所を、思わず那岐も忍人も見た。冷蔵庫の側板につけられた四つのフック
は、四人の鍵の指定位置だ。右から、千尋、那岐、忍人の鍵があるのはいいとして、既に
出かけているはずの左端の風早の鍵も、かわいいキリンのキーホルダーとともにぶらさが
っている。
「…気付かなかった。持って出たとばかり」
「気を抜いてるなあ、風早。…忘れても、僕か千尋がいるから持ってきてもらえるって高
をくくってるんだよ」
「お兄ちゃんが一限ないって風早知ってるの?」
「ああ、今朝伝えた」
「だからだね」
千尋が笑うので、忍人は首をかしげた。
「…何故だ」
「あたしと那岐が最後なら、くれぐれも戸締まり用心してってメモ残して、自分でも細か
く窓の戸締まり確認するもん。そのついでに鍵も絶対忘れず持って行くよ。でもお兄ちゃ
んが最後なら、任せて安心って油断するんじゃないかな」
「かもね」
那岐も同意して首をすくめた。
「だからって、鍵を忘れていくのはどうかと思うけど」
「うーん、それは確かに」
「せいぜいいやみったらしく渡してやろうかな」
「……素直に渡してあげようよ、那岐…」
千尋と那岐のやりとりを目を細めて眺めつつ、忍人は冷蔵庫のフックにもう一度目を向け
た。
並んだ四つの、同じ形の鍵。

−…家族のしるし。

それは、本当にちっぽけなものにすぎないけれど、何の血のつながりもない四人を確かに
つなぐ、しるし。