かはたれとき

離れて久しかった豊葦原の中つ国。仕えるレヴァンタの赴任に伴って戻ってきた柊がまず
感じたのは、言い様のない違和感だった。
何かが違う。何かが意図的に既定伝承からねじ曲げられている。
それが何であるか、気付くのにさほどの時間は必要なかった。

忍人がいない。

現世に既に現れているべき破魂刀の気配はなく、兵士の口の端にも昇らない。忍人の下に
組織されていたはずの狗奴の兵は、高千穂ではなく筑紫にいるという。すべては忍人の不
在故だった。
なぜか、はわからない。
だが、誰が、かはわかる。
既定伝承をねじ伏せるようなことが出来る力を持つ者で、忍人の身近にいたはずの者とい
えば、一人しか思い当たらない。時空の狭間の限られた時間しか行き来できぬ自分と違い、
時間と場所を選んで自由に飛べる者。二ノ姫と鬼道使いの少年を、その力で異世界に隠し
ているはずの者。
「…風早」
つぶやいて、柊は拳をゆるく握った。
彼が二ノ姫を隠している世界。
そこに忍人もいるはずだと思った。
そう気付いたら、いてもたってもいられなくなった。レヴァンタに仕えるふりをする傍ら、
彼は必死で異世界への道を探した。風早のような力を持たない柊には、自由自在に時空を
超えることは出来ない。目的の場所へつながる道を、ただ闇雲に探すことしかできないの
だ。
探し始めて何ヶ月が過ぎたろう。あるいは何年か。
柊はようやく、目的の場所へつながる道を見つけた。

道を抜けた先は、鬱蒼と下草と灌木が茂る小山につながっていた。異世界の耳成山だと後
で知った。風早が選んで姫たちを隠している世界は、穏やかにやわらかい風が吹く、血の
においのしない場所だった。精霊の気はあまり強くない。が、鳥は啼き、花が開き、風で
木々が笑う。たゆたう時間は心地よかった。
色づいた木々に、季節を知る。たどり着いた時間は黄昏時のようで、山の底からじわじわ
と闇が濃くなりつつあった。あまり異世界の人間に姿を見られたくない身としては、非常
にありがたい時間帯だ。
柊はゆっくりと山を下りた。登山道はごく普通の町の中につながっている。降りたところ
は駅からのバスが通る道に面しており、バス停も登山道の入口のそばに一つあるが、あま
り便は頻繁ではないようで、人通りはさほどない。夕方だということもあるのだろう。家
々からは炊事の音と優しい匂いがこぼれてくる。子供も大人も、いったん家に引き揚げる
時間だ。
気配を探しながら、柊は歩き出した。曲がり角を曲がろうとして、はっとする。
とっさに電信柱の陰に隠れ、鬼道で気配を消した柊の見守る向こう、角を曲がった先にあ
る道を、笑いながら歩いてくる少年と少女。その後ろから落ち着いた足取りでついて行く
青年が一人。
「だいたい、何だって四パックも牛乳買うんだよ」
さらりとした柔らかそうな金色の髪を振って、少年が口をとがらせた。手に持った袋が重
たそうだ。
「4人家族なんだから、一回に二パックも買えば十分じゃないか。それを四パックって。
今日は米も買ったのにさ」
「いいじゃない、那岐が持ってるのはその牛乳だけなんだから。一番重いお米を持ってる
のはお兄ちゃんだよ」
少女がたしなめるように言うと、間髪入れずに言い返す。
「牛乳ほとんど一人で飲むのは忍人だから、いいんだ」
「じゃあ俺がその牛乳を持つから、米を持ってくれるか、那岐」
真面目な顔をして黒髪の青年が言ったが、
「い、や、だ」
べええ。少年に思い切り舌を出されて、彼は苦笑する。
その笑顔に、柊は胸をつかれた。
師君の屋敷にいたときとは違う、大人びた笑顔。けれどもまだ大人にはなりきっていない、
どこかに稚気がのぞく顔。
どこかで、と思って、柊ははっとした。
忍人と初めて出会った頃の、羽張彦や風早だ。あちらの世界では十分大人扱いされる年齢
だったが、まだまだ稚気の方が勝っていた自分たち。
忍人はその自分たちと同等に扱われたくて、いつも背伸びをしていた。あの頃、彼の笑顔
はたくさん見たけれど、年相応の、というよりはやはりどこか大人ぶった、背伸びした笑
顔が多かったように思う。
そして。中つ国の滅亡を経験した彼は、子供を一気に卒業してしまって、再会しても、も
う子供らしい稚気が勝った顔など一度も見せなかった。年相応の笑顔など、自分は見たこ
とがなかった。
「…ん、あれ?」
那岐と呼ばれた金の髪の少年が、ふと不思議そうに眉をひそめたので、忍人と姫がのぞき
込む。
「どうした?」
「なあに?」
柊ははっとして、意識して気を消した。那岐は曲がり角からこちらを透かし見る様子だっ
たが、ん、何でもない、と首をすくめた。
姫に気取られまいと思うからだろうか、忍人は無言で那岐へ視線だけを流し、那岐はそれ
に応じるようにそっと目配せだけを返す。
「何か光が目に入ったなと思ったんだけど、ただの街灯だった。いつのまにこんなに暗く
なったんだろう」
「…千尋がホームセンターによるからだ」
「……あー、そうだねえ。…何を見せたいのかと思ったら今度は黒柴の子犬だったっけ」
「…似ていると言われても困るんだが」
まるであらかじめ決めてあったかのような応酬だった。案の定、姫はあわあわしながら、
その直前の那岐のそぶりを忘れて、自己弁護に必死になる。
「な、え、だってそっくりだったじゃない、お兄ちゃんに!」
がくりと忍人が肩を落とした。
「……………俺は子犬にそっくりか……」
「まあ、似てるのがチワワとかシーズーじゃなくてよかったんじゃない?」
「………」
無言だが、そういう問題じゃない、という空気がありありと忍人から出ている。姫がまた
あわあわした。
「いや、そりゃ、成犬がいれば成犬の方がお兄ちゃんに似てると思うよ?でもペットショ
ップには子犬しか売ってないし、私だって白とか茶色の柴だったらお兄ちゃんに似てるな
んて思わないけど、あの子、真っ黒の柴で、ぴんと耳をたてて、とてもきれいな目をして
て、他の子がきゃんきゃん走り回っててもじっと伏せでこっち見てて、ああもう絶対お兄
ちゃんだって思ったんだもん!!」
「………」
「………あのさ、千尋。…いろんな意味で今、忍人にとどめ刺したけど」
「ええっ?なんで?どうして?ほめたのにー!!」
「……犬をだろ」
「あ、や、そ、それは、あの」
あわあわあわ。
パニックしてしまった姫の声に、がっくりしていたはずの忍人がくっくっと喉をふるわせ
て笑い出した。ああもう、ずるい、わざと落ち込んだふりしたんでしょ、と姫が口をとが
らせると、いや、落ち込んだのは落ち込んだが、と真面目な顔で言って、それからふわり
と。目を細めて、本当に幸せそうに姫を見て、微笑んだ。
もうこれ以上見ていられなくて、柊は彼らから背を向けた。
胸が痛い。
忍人を異世界へ連れてきたのが誰が、かはわかるが、何故か、はわからない。ずっとそう
思っていた。
だが今わかった。
風早は、この笑顔を見たかったのだ。忍人が失う5年分の笑顔を、この場所で得ようと思
ったのだ。そのためだけに、既定伝承をねじ曲げ、忍人自身の意志もねじ曲げて、無理矢
理にこの世界へ跳んだのだ。
笑いさざめき合いながら3人の気配は行ってしまった。見送ることもならず、柊はゆるゆ
ると足を元来た方へ向けた。

ひどいことをする、と柊は思った。
既定伝承はこの変更を決して許さない。必ず、何らかの形で手ひどい修正をかけるだろう。
その修正をその身に受けるのは忍人だ。どんな形になるかはわからないが、彼は必ず何か
を失う。思い出をか、時間をか、経験をか。…あるいはそれら全てをか。
風早はそれを知っているはずだ。知っていて、…あの笑顔のためにだけ、この無理を通す
のか。
……あの笑顔のためにだけ。
…………。
登山道を登り、時空の狭間につながる空間を目指していた柊は、ふと視界が開けた場所で
はっとして立ち止まった。
先ほどはまだ夕日の残照があって気付かなかったが、すっかり夕闇に覆われた今、見下ろ
した場所は一面、星のような灯りに彩られていた。
まるで満天の星空のような、家々の灯り。
あの灯り一つ一つに、人々の笑顔が息づいている。
……あの灯りの一つに、忍人と姫たちがいて、きっと今も笑っている。
やるせなさともどかしさと身を切るような切なさがこみ上げてきて、柊は手袋に覆われた
片手で顔を覆った。
それがどんなにひどいことであるか知っていて、それでも彼をこの世界にと望んだ風早の
思いが、痛いほどにわかる。
そして、痛いほどにわかるからこそ、自分だけは風早の所業を許してはならないとも思う。
彼がしたことを知るのは自分だけだから。
忍人のあの笑顔を見たいと望んだ気持ちは理解する。しかし、それと引き替えに忍人は必
ず何か代償を払う。自分が望んだわけではない行動の結果として。そして彼はそのことに
気付かないだろう。彼は既定伝承の枠に縛られたただの人間にすぎないから。
だから、自分だけは風早を許してはならない。
柊自身が、あの忍人の笑顔をどんなにか愛おしく思ったとしても。
ゆらり、柊の髪が揺れる。
時空の狭間から吹く風が、彼をこちらへと誘っている。
柊は、ほんの少しだけ自嘲めいた笑みをこぼした。
自分は、またこの世界へ来ようと思っている。
姫を目覚めさせるためではなく、忍人のあの笑顔を見るために。風早を責めながら、だが
自分もあの笑顔に惹かれ、愛おしいと思うのだ。
「風早は、こんな私には自分を責める資格はないと言うでしょうかね」
その姿はゆうわりと闇に薄れて、やがて溶けるように消えた。