賭(君へと続く道・2)


それは、一つの賭だった。


土岐が東金に心を残して俺とつきあっていることは最初からわかっていた。俺にも当初は
律への思いが残っていた負い目があったから、土岐を自分に縛り付けようとはしなかった。
土岐が自分をあきらめないでくれればいい。99が東金のものでも1が俺にあればいい。
土岐が待てと言うなら待とう。そう思って、絹糸よりも細く頼りない糸でつながった恋を
続けてきた。
…けれど。関係が長く深くなるにつれ、俺は疲弊してきていたようだ。
十二月のある日、教授がしごく申し訳なさそうに、今回の実習は冬休み中の29日になる
と告げたとき、俺は心のどこかでほっとした。
……土岐が来てくれるかもしれない。…いや、来ないかもしれない。来たとしても、東金
から何か連絡が入れば、彼はすっ飛んで帰るだろう。…それがいつになるのか。今笑い合
っていても、この次の瞬間には、彼はいなくなってしまうのではないか。
……土岐との逢瀬は、喜びと失望が背中合わせだ。
失うかもしれない、失うかもしれないと思いながら続ける恋に、俺は疲れ切っていた。あ
の日からずっと、心はもう限界だと悲鳴を上げていた。俺はずっとその悲鳴に耳をふさぎ
続けていたけれど、…耳をふさぐことにも限界がきていて。
土岐に電話して、誕生日には会えないと告げ、土岐が何の気なしに快くそれを了承したと
きに、俺は決めた。

賭に、出よう。

…今年の大晦日、土岐には何も言わずに神戸を訪れよう。人々が集う日だ。彼にも何か予
定が入っているかもしれない。元旦も一緒にすごそうとねだれば、尻込みされるかもしれ
ない。
突然現れた俺に、土岐が戸惑い、拒むようなら、俺はもうこの恋をきっぱりあきらめる。
…けれど、彼が受け入れてくれるなら。
もしそうなら、たとえ東金が二人の目の前に立っても、もう決して土岐を譲るまい、と。


新幹線は、敢えて夜遅くに着く便をとった。自分の退路を断つつもりだった。神戸に着い
ても、もう横浜には引き返せない。そんな時間に駅に降りて、人々がざわめく構内から土
岐に電話をかけた。
「…もしもし」
土岐は驚いた様子だった。声にかすかな喜色を見て、俺の心はほころんだ。土岐はまるで
喜んだことをごまかすように、少し拗ねた声で、年末に電話をかけるのは非常識だとか何
とか、どうでもいいようなことを言いつのる。
照れ隠しのような繰り言を遮って、今自分が神戸にいることを告げた。…すると、聞いて
いる俺が驚くような声で、
「今、何て!?」
電話の向こうで土岐は叫んだ。
心底驚いた様子だったが構わず、俺は誕生日に会えなかったからだと予定通りの言い訳を
して、会いに来てくれないかとねだってみる。
「…そら、…かまへん、けど」
驚きの余韻が消えないのだろう、どこか呆然とした声で、土岐が了承してくれたとき、俺
は肩がふっと軽くなるのを感じた。…らしくもなく、俺はずいぶん緊張していたらしい。
けれど、戸惑いながらも受け入れてもらえるのだと、俺が呑気に構えたとき、その名前は
ぽんと、彼の口から飛び出てきた。
「…正月、やで?…元旦になったら、俺が千秋に呼び出されるやろって、想像せんかった
ん?」
…。
こらえたつもりだった。けれど、俺は情けなくも、やはり動揺してしまったようだ。苦い
ものを呑み込んだ喉がごくりと音を立てる。慌てて電話を遠ざけ、人々のざわめきの方へ
向ける。雑音の一つだと土岐が誤解してくれることを願った。
痛みよりも、やはり、という気持ちが強かった。土岐の気持ちが99%東金にあることを、
俺は知っていたのだから。分が悪いことは承知で賭に出た勝負だった。元々の予想通り、
賭に負けた。…それだけだ。
情けなくもうろたえたのは、我ながら予想外だった。…俺は唇だけで笑って立て直し、何
もなかったようにもう一度口を開いた。
「…東金が君を呼ぶまででいいよ」
浅ましいとは思う。けれどどうせ別れるのなら、せめて土岐の顔を見てから消えたいと願
った。
土岐は電話の向こうで鋭く息を呑んだ。
「彼からの電話が入れば、そこがタイムリミットだ。俺は、横浜へ帰る。君は東金のとこ
ろへ行けばいい。……それまででいい。…君といたい」
明らかに、電話の向こうで土岐は戸惑い、困惑していた。噛みしめるような沈黙の後、彼
は、押し殺すような声で言った。
「…何でいつも、そんなずるいことばっかり言うん。…何で、千秋放っといて、一緒に自
分とおれって言わんの」
俺は、ごく自然に微笑んでいた。困らせていることは申し訳なく思いながらも、俺のため
に戸惑ってくれている土岐が愛おしかった。ひとかけらでも、君の心は俺にあったのだと、
そう気付かせてくれたことがうれしかった。
「…困らせたくない」
しかし、そうつぶやいた俺に、
「今、もう充分困ってんねんけど」
言い返されて、少しひるむ。この電話を続ければ続けるだけ、俺は土岐を困惑させ、辛い
思いをさせるだけだ。
…会いたいと願う気持ちは、俺の心の中で静かに膝を抱え、縮こまった。
さすがに、鋭い痛みが胸を刺す。けれども息を整えた。いつもの声で、何でもないふりで、
君にさよならを言おうとした、そのとき。
「…あかん」
何を察したのか、鋭い悲鳴のような声で土岐は叫んだ。
「…待って、帰らんとって。……そこにおって。…今から行くから。…今すぐ、会いに行
くから」
「……土岐」
戸惑う俺に、土岐はなおも言いつのった。
「その代わり、千秋から俺に電話が入ったら、一言でいい、行くなって俺に言うて。…優
しい顔して見送られるんはもうたくさんや。……俺をつかまえにきたんやったら、手を放
さんといて」
そうしたい。…俺だって本当は、土岐に行ってほしくない。……けれど。
「…もし俺がそうしたら、君はどうするんだ」
問うた言葉に返った答えは、ずいぶんなもので。
「…それは、…そのとき考えるわ」
俺は思わず笑ってしまった。
「…ずるいのは土岐の方だ」
けれども。彼に会えると思うだけで、胸が躍った。
「………わかった。…このまま改札で待ってるよ。……早くおいで」
「…すぐ行く」
言うが早いか電話は切れた。俺はゆっくりと、柱にもたれた。聞いている彼の住所は、新
幹線の駅からはかなり遠い。ここまではずいぶんと時間がかかるだろう。まだ開いている
喫茶店にでも入って時間をつぶそうかとも思ったが、やめた。ここでこのまま待ちたかっ
た。ただ何もせずに待つ。その時間が楽しかった。


「…来たし」
息を切らせて俺の前に立った土岐を見て、俺は思わず口笛を吹きそうになった。
「聞いてた住所から想像していたより、ずいぶん早かったね。…もしかして、走ってきた?
…そんなに必死に」
「そんなに必死になって急いで来んでも良かったとか言うたら、殴る」
土岐は一睨みで悪魔でも殺せそうな目で俺を睨んだ。
「……」
「先刻俺が、どんな気持ちで電話しとったか知りもせんと。…いっつも余裕めかして平気
な顔して。…ええ加減にしいや、めっちゃむかつく」
「…悪かった」
俺は素直に謝った。そして、息を切らして膝に手をついている土岐を、じろじろと人が見
て通るのに気付いて、
「…行こう」
土岐を人目からかばう位置に立って、促す。
「このまま改札口で痴話げんかじゃ、いい見世物だ」
ふざけたのがいけなかったらしい。土岐の目にまた険が宿る。
「誰のせいや」
「…俺のせいだな、ごめん」
とりあえず、と歩き出す。駅を出たとたん、灯りの少なさに俺は一瞬道を見失ったが、さ
すがに地元の土岐は迷いもせずにすたすたと歩く。歩きながら、
「…大地」
俺の名を呼んだ。
「…榊くん、でいいよ」
触れたり、抱きしめたり、…そんな時でなければ、土岐は俺の名を呼ばない。いつものよ
うに、名字で呼んでくれればいい。…けれど。
「あかん。……大地」
土岐はきっぱりと言い返した。
「会いたかった。…遠いところまで来てくれて、ありがとう」
「……。…と」
「土岐って呼んだら、殴る」
すかさず釘を刺されて、そんな場合ではないと思いながらも俺は吹き出しそうになった。
「殴る、ばっかりだな」
「会いたいいうだけでこんな時間に横浜から神戸まで飛んできといて、他人行儀な口きこ
うとするからや。…それとも、俺の下の名前、忘れてしもたん?」
「まさか。…急に呼び出したのに、来てくれてありがとう、……蓬生。…会えてよかった」
肩を並べて歩いていて、俺はふと気付いた。触れあう蓬生のコートの中、…何かが震えて
いる。
「…蓬生。…そこで震えてるの、電話じゃないか?」
「……」
「…蓬生」
彼は頑なな横顔で前を見ている。
「…東金からだったら」
「千秋からやったら、どないなん」
「…」
「もし電話が千秋からやったら、…千秋が俺に来いって言うたら、大地は帰るんやろ。…
今日だけは、何があっても電話には出ん」
言って、乱暴にポケットに手を突っ込み、何か操作する。…震えが止まった。電源を切っ
たのかもしれない。
「…ほ」
「勝手に賭に出て、勝手に負けたような顔して、勝手におらんなるつもりやってんやろ。
…阿呆」
吐き捨てるように言って、噛みしめた唇が赤い。
「…ほうせ…」
「こんな日のこんな時間に呼び出されても、死ぬ気で走って飛んでくるくらいには、俺は
君のことが好きなんや。…勝手になかったことにせんといて」
「…蓬生」
人目よりも、抱きしめたいという衝動が勝った。引き寄せ、きつく腕を回すと、蓬生も抵
抗せずに俺の腕におさまった。そのくせ、腕の中でぶつぶつと文句を言う。
「会えてよかった、ちゃうやろ。会いたかった、やろ。…頭いいのに、時々言葉の使い方
がなってへん」
俺は笑ってしまった。
「そうだな、確かに。…会いたかったよ、蓬生。…ずっと会いたくて、たまらなかった」
俺は君を手に入れたのかな。それともまだこの恋は宙ぶらりんなのかな。
答えは見えない。
確かなのは、俺はもう、土岐の手を放さないだろうということ。土岐が自分で俺の手を振
り払い、俺から離れることを選ぶまでは。

俺はもう決して、この恋から逃げ出さない。