郭公の鳴く頃

「…そうしていると、あなたはあなたの伯父様にそっくりだこと」
通り過ぎていくだけだろうと思っていた人物に思いがけず話しかけられて、忍人は竹簡か
ら顔を上げた。
狭井君が静かな顔で忍人を見ている。忍人と目が合うと、穏やかに笑った。
「将軍のあなたまで、内政の竹簡の整理をなさるとは」
「道臣殿と風早だけでは手が回りません」
もちろん、彼らの部下の官人たちも働いているが、いかんせん人が足りない。
「柊は早々に逃げたそうですし」
そう付け加えると、狭井君の笑顔が苦いものに変わった。
「…困った子。…昔からそうでした」
柊はどんな言語でも読みこなす。その能力で一時期狭井君の仕事を手伝っていた。狭井君
が柊に手厳しいのは、彼が一度は国を裏切った人間だということだけでなく、目をかけ育
てた人間だという意識があるからではないか、と忍人は思う。そして、忍人の見るところ、
彼女は口で言うほど柊を忌避してはいないのだ。…あれだ。馬鹿な子ほどかわいいという
やつだ。
…そして柊も。…他人の言うことを右から左へと聞き流す彼も、狭井君と師君のお小言だ
けは、面倒くさそうな顔をしながらも一応は拝聴している。もちろん、逃げたり避けたり
はするけれど、捕まってしまえばおとなしい。
「あなたは昔からそうね。兄弟子たちの尻ぬぐい。…特に、柊と羽張彦の」
「…なつかしいことをおっしゃいますね」
今度苦笑いするのは忍人の番だった。その苦笑いに狭井君は苦笑で応じたが、その笑みが
ふと遠くなった。
「…なつかしい名前を出したら、…少し昔話をしたくなったわ」
視線が忍人に戻ってくる。
「…お忙しいあなたに悪いけれど、…少しだけ、つきあってくださる?」
忍人は少し目を見開いたが、国の重鎮にそう請われて、否やを唱える彼ではない。
「謹んで」
そう言うと、狭井君は袖で口元を隠してころころと笑った。
「そんなに畏まった返事をしていただかなくて結構よ。…本当に、ただの昔話なの。…あ
なたの伯父様と、先王陛下の」
てっきり名前が出た羽張彦の話だと思った忍人は、少し虚を突かれて応じる言葉を失った。
…だがそういえば確かに、最初に彼女は、自分が伯父に似ていると話しかけてきたのだっ
た。
「…あなたの伯父様は元々、先王陛下の一番最初の夫君だった。…そのことは、ご存じ?」
「存じております」
驚きを持続させたまま、忍人は折り目正しく答えた。彼が生まれる前の話だったが、一族
でそれを知らぬ者はない。
「子が生らなかった故、宮を退がったと」
「…ええ、そう」
そして忍人の伯父は今の伯母と結婚した。が、彼女との間にも子は出来なかった。……お
そらくはそういう体質だったのだろう。
だが続く狭井君の言葉は、忍人には初耳だった。
「では、あなたの伯父様と先王陛下の婚姻も、元々龍神の許しが得られていなかったこと
は?」
忍人はまた目を見開くこととなった。
「…それは、…存じません」
「…そう。…でしょうね。…このことは、当時からずっと秘められていましたから」
狭井君は忍人の反応は予想していたと、静かに目を伏せた。
「本当なら、先王陛下はそこで別の夫君をお選びになるべきでした。…けれど、彼女はそ
うしなかった。あなたの伯父様のことを、誰よりも愛していらしたから」
龍神の神託を知る者は少なかった。その者たちに口止めして、先王はあなたの伯父様と結
婚された。…けれど。
「二年たち、三年たち、…五年たっても御子はお生まれにならなかった。元々、あなたの
伯父様と先王陛下の婚姻で、あなたの一族の力が強まることを是としなかった他の族の長
たちは、婚姻のやり直しを求めた。最初はもちろん、陛下もあなたの伯父様もそれを受け
入れようとはしなかったけれど、……とうとう、周りの声に屈されたの」
狭井君の、静かに重ねられていた両の手が、一瞬きつく握りしめられた。
「一ノ姫の父君と娶されたときも、その方と死別なさってまた二ノ姫の父君と娶されたと
きも、先王陛下は何もおっしゃらなかった。何もおっしゃらず、ただ言われるがままに従
っておられたけれど、……あの方が愛されたのは、生涯あなたの伯父様ただお一人だった
のではないかと、私は思います。龍神の神子の血を絶やさぬため、敢えてその思いをあき
らめ、押し殺していらっしゃいましたが、あなたの伯父様がただの臣下の一人として宮に
お見えになったあとはいつも、ひどく寂しそうにしておられましたから」
伏せられていた瞳が開く。彼女は何もない天井の一隅を見上げた。
「一ノ姫様への羽張彦の妻問いが、龍神の神託によって許されなかったとき、先王陛下は
龍神の許しがなければならぬと、強く反対なさった。それは決して、決まり事には従わね
ばならぬという四角四面なお考えではなく、自分と同じつらさを、一ノ姫様には味あわせ
たくないという親心でいらした。……それを周りの者にお漏らしになることはなかったけ
れど、私はそう思います」
「…」
「……無器用な方でした」
狭井君の優しい眼差しは、主君のことを見る眼差しではなく、年若い妹を見守る姉のそれ
だった。
「王らしくあらねばならぬ、龍神の神子としての威厳を保たねばならぬと、いつも厳しく
自分を律して、あまり周りに本心をつまびらかにされることはなかった。私たち臣下も、
王として強い彼女を欲した。国力のため、傲慢とすらとれる態度を取らせ続けた。……本
当はとても内気で、臆病な方でいらしたのに。……臆病な優しい、あの方のままでいさせ
てあげたかったのに」
狭井君はまた目を伏せて、ゆるゆると首を横に振った。
忍人はまっすぐに狭井君を見る。
…彼女の語る先王陛下は、彼の知る先王とはまるで別人のようだった。国の力を背景に、
諸国の族やまつろわぬ民たちを次々に中つ国に従わせ、自らにも、自らの家臣にも、自ら
の娘たちにすら、厳しい女性だと思っていたのに。
……ああ、だが。
ふと、師君の顔が忍人の脳裏をよぎった。
いつだったか彼女も、こう言っていた。
…子供の頃の女王陛下とはよく遊んだ。優しい子だったよ、と。…優しくておとなしい子
だったんだよと。
優しいおとなしい少女を変えてしまうほど、国というものは、女王の立場というものは、
人に優しくないものなのだろうか。……二ノ姫は、今の二ノ姫のまま、それに耐えていけ
るだろうか。
…そのとき、まるで忍人の内心の思いを見抜いたかのように、狭井君がこう言った。
「…大丈夫ですよ、二ノ姫は。……あなたたちが、…あなたや風早や柊がついているもの。
…そうでしょう?」
そしてゆっくり忍人の方へ顔を向け、微笑む。
「…私たちは間違えてしまったけれど、…あなたたちはどうか、二ノ姫を間違わせないで。
…二ノ姫が今の二ノ姫のまま、王として国を治めてゆけるように」
まるで祖母のようなその笑みを見て、無性に忍人はあることを聞きたくなった。
…ずっと、気になっていたことを。
「…一つ、…うかがってもよろしいですか」
「…あら、何かしら」
一瞬狭井君は警戒するように瞳をすがめた。その表情を見て、ああやはりこの方はこうい
う方だと忍人は内心で苦笑する。
こういう方だから、…はっきり聞ける。
「先王陛下は二ノ姫のことも、一ノ姫同様に愛おしく思っておられたでしょうか?」
彼女は余り、母親から顧みられることがなかったと聞いている。そのせいだろうか、彼女
には母親の記憶が乏しい。のみならず、風早を慕う姿が兄や恋人を慕うそれではなく、母
を請うそれのように思えることすらある。自分が父母に慈しまれて育ったのとはまるでち
がう環境に置かれていたのだと、時々忍人は実感する。
狭井君はすがめた瞳をそのまま苦笑に変えた。口元の笑みは、そっと袖で隠して。
「…あなたがおっしゃりたいことは、わからないでもありませんけれど、外に表している
感情はどうあれ、我が子がかわいくない母親はいませんよ」
言って、彼女は少し自嘲気味に目を伏せる。
「子のない私が言っても説得力はないかしらね」
「…それは」
忍人がそんなことは、と言おうとしたとき、部屋にふらりと人影が入ってきた。
「…忍人はここですか?」
のんきな声の主は、狭井君と顔を合わせて一瞬しまった、という顔をした。一方狭井君は、
忍人に向けていたさびしげな笑みを一変させ、厳格な教師の顔になる。
「柊」
ぴしり、と狭井君が名を呼んだ。呼ばれて、はい、とおとなしく直立不動の姿勢を取った
彼はしかし、こっそり逃げ出す道を捜すように、一歩後ろへ下がる。…が、その足を止め
たのは、またも狭井君の一声だった。
「…柊」
名を呼ばれただけなのに、柊が首をすくめて足を止めるのがおかしくて、しかし笑うと柊
に逃がす隙を与えそうで、忍人は必死でこらえた。
「観念して、おとなしくここで忍人殿の手伝いをなさい。…まったく、あなたという人は」
額を押さえ、はあ、と大きくため息をつく。大きな袖で、柊からは狭井君の表情が見えな
くなっただろう。…だが、忍人からは見えた。
「あなたが真面目に仕事を始めて、それが軌道に乗るまでは、私はここで見張っています
よ」
「お忙しい狭井君にそのようなお手を煩わせるわけには…」
「そうしないとまた逃げるのはどこの誰です!」
「……」
柊はその長身を折るようにして狭井君に叱られている。ご指示に従います、としおらしく
言って忍人の隣にかけ、彼の竹簡を半分引き寄せて読み始めた。
その傍らで、狭井君は厳しい顔つきで、柊の手つきを見つめている。いっそ、にらみつけ
ていると言ってもいい表情をしている。
……けれど、忍人はちゃんと見た。
…さっき柊にため息をついて見せたときの彼女の顔を。…仕方のない子ね、と呆れながら
も、こっそり微笑んだ彼女の顔を。
……子供がかわいくない母親はいないように、手塩にかけた弟子がかわいくない師匠もい
ない、らしい。
苦笑をこらえながら、忍人も竹簡を読む作業を再開した。
窓の外では郭公が鳴いている。柊が開け放したままの扉から、風が夏の匂いを運んできた。