神渡しの風

一日の訓練を終え、橿原宮内の自室に帰った忍人は、扉を開けて、
「よう、忍人!」
閉めた。
「……閉めるなよー」
部屋の中でぐすぐすと大きな赤い髪の男が泣いている。…深い深いため息を部屋の外でつ
いてから、忍人は改めて部屋に入った。
「……なぜここにいる」
「葛城将軍に用事があると言ったら警護の兵が入れてくれた」
忍人は顔をしかめた。何か計るようにじっとサザキを見る。サザキはニコニコしている。
…結局、忍人はもう一度ため息を一つだけついた。
「………何の用だ」
「冷たい言い方すんなよー。せっかくいい情報持ってきてやったのに」
「いい情報?」
そ、と短く肯定して、サザキはにやりと笑った。
「姫さんに話すより、お前の耳にだけいれとく方がいいかと思ってな」
「……」
忍人の冷めた表情に熱が動いた。サザキは含み笑う風情で、どかりと忍人の寝台に腰を下
ろす。
「…この間、出雲に行った」
海賊をやめたサザキが、交易商人としてあちこち駆けめぐっていることは知っている。の
で、忍人はあごでうなずくだけだ。
「あそこじゃいい玉がとれる。が、炭はない。たたらで使い果たしてるからな。だからこ
っちの炭を持って行くといい稼ぎになる」
「お前の商売の話をしに来たのか」
「ちがう。こりゃ前置きだ。せっかちだな。…本題はここからだよ。…この間行ったとき
あそこの里長がな、俺の顔を見て、あの時の一行がまた来てるのかと問うわけさ」
「…は?」
「は?…だろう?…んな話は聞いてねぇ。姫さん達は中つ国の建て直しでいっぱいいっぱ
いだ。友好を取り結べていない高志ならともかく、今出雲に目を向けている暇はないはず
だ。だから、何故そんなことをと聞いてみた。…するってぇとな」
サザキはもったいぶった。
「……風早を見たって言うんだ」
「……!」
「青龍の磐座に続く道を昇っていく姿を見かけたと。気になったんで、山に入る許しをも
らって、子分達もつれて探しに行ったんだが、残念ながら何の痕跡もなかった。当然、あ
の青龍の磐座には渡れねぇしな。時期が違う」
「……」
腕を組み、考え込む忍人の前で、サザキは寝台からすっくと立ち上がり、ぱんと手を叩い
てみせた。
「さてお立ち会い。…里の者が見間違えたか、それとも本当に風早はそこにいたのか」
どこかからかうような色でのぞき込んでくるサザキの瞳を、忍人は恐ろしいほど黒く澄ん
だ瞳孔で見つめ返す。
「……どっちだと思う、忍人」
「………」
口元だけで笑ってから、ふわり、サザキは一歩すさった。
「ちなみにな、その時期、朱雀様はお留守だった」
「…?」
「うちの村の物知りが言うにゃ、一年のこの時期、神さんはみんな出雲に集まるんだとさ。
…集まって、いろいろと人間のことを相談するんだと。…だから俺たち船乗りは、この時
期の西風を神渡しの風って呼んでる。…神を出雲に送る風だ」
サザキも忍人も、風早の正体は知らない。……だが。共に過ごしてあやしむことがいくつ
かはある。…彼は真実、人か。…本当にただの人なのか。
サザキがどこか自分を嗤うような顔をして神渡しの風について告げるのは、自分の推論を
忍人と共有できるかどうかを計っているのだろう。
忍人は息を静かに吸い込んだ。
「…神々が出雲に集まるという話は、俺も子供の頃聞いたことがある。…だがもしそうで
も、今年はもうその時期を過ぎている」
「……そうなのか?」
サザキはぽかんとした顔になった。終わる時期については知らなかったらしい。
「そうだ。暦の上ではな」
……だが。
「来年、なら」
少ししらけた顔になっていたサザキが、忍人が続けた言葉にまたがばりと身を乗り出した。
…つくづく、わかりやすい男だ。
「陛下はもう捜さないでいいと言う。だが、俺はまだ納得していない。…それが仮に里人
の見間違いでもいい。何の手がかりもない場所を探すよりは、捜す価値はある」
サザキはまたぱんと手を叩いた。
「お前なら、そう言うと思ったぜ。…よしわかった、来年な?」
……は?
「……サザキ?」
「こんな私的な捜し物に、中つ国の軍を動かせるか、将軍サマ?…出来ねえだろ?宝探し
は専門家に任せろって話だよ。……俺を使え」
……。
忍人はゆっくりと目をすがめた。その片頬がゆるゆると、笑みを作って持ち上がる。
「出雲まで連れて行ってやる。一緒に捜してやる。…俺も、あんな別れ方は納得いかねえ
んだ。きっちりさせたい」
「……サザキ」
おうよ、と笑って、ばん、と忍人の肩を力一杯叩いた。痛みに顔をしかめる忍人を呵々と
笑い飛ばす。
「行こう、一緒に。…神渡しの風に乗って、風早を捕まえてやろう。…約束したぜ、忘れ
るなよ!」
そうと決まればもう用はない、とばかりにさっさとサザキは窓に向かう。忍人は一瞬呆気
にとられ、それから怒鳴った。
「…おい待て、どこから出る気だ!」
「だって宮って広いんだもんよー?わざわざ回廊歩くと遠いじゃねえか」
「さてはそうやって入ってきたな!?兵に案内されたというのは嘘か!…道理で、誰から
も報告された覚えがなくておかしいと思った!」
「はは、わりぃわりぃ。今度はちゃんと門から入ってくるからよ」
「嘘をつけ!!」
忍人が絶叫したときには既にサザキは空中高く舞い上がっている。じゃあなー、またなー、
とのんきな声を残して、彼は西の空目指して飛び立っていった。恐らく、少し離れた里で
はカリガネが待っていて、浪速の津へ二人して戻るのだろう。
「……まったく」
ため息を吐いて。今度会ったらこんこんと言って諭してやる、と思いながら。
ゆるゆると忍人は笑い出した。
風が吹く。西の風、東の風。
それは、神を運ぶ白い風。いつかきっと、捕まえる。