寒昴


寝付けない。

千尋は、采女たちの目を盗むようにしてそっと自室を抜けだした。
ほとほとと回廊を歩いていると、執政のための表の宮と住まいのための後宮をつなぐ中庭
に、ぽつり佇む人影が見えた。
誰かはわからないが、こんな夜半に自分がほとほとと出歩いているのが見つかったらうる
さいことになるかもしれない。
そっと千尋は身を翻そうとしたときだった。
「……夜分に、逍遙であらせられますか?」
相手はとうに、千尋に気付いていたらしい。そむけた背中に向かって穏やかに話しかけら
れ、思わず千尋は首をすくめた。
「……道臣さん」
おずおずと振り返ると、彼は目元に苦笑をにじませて、はい、と応じた。
「別にとがめたつもりではございません。……私とて、明日も早暁よりいつもの業務にか
からねばならぬのに、こうしてぼんやりと星を見上げている身でございます」
……別に、何があるわけでもないのですが。今宵はどうにも、寝付けません。
ほとりと、彼はそう言った。
「…私もです」
うなずいて、千尋も空を見上げた。
降るような星だった。星月夜、と呼ぶにふさわしい美しさだ。
目を奪われていると、ふわりと肩に何かがかけられた。やわらかい布は、道臣が普段から
身につけている物だ。おずおずと微笑むと、応じるように、道臣も少し遠慮がちな微笑み
を浮かべた。
「秋とはいえ、夜は冷えます。……秋と言っても、もう冬隣と言っていい頃合いですしね」
ご覧になれますか。
言いながら、道臣は空の低いところを指さした。
「昴です。……冬の星です。もう、あの星が空に姿を見せる時期なのですね。冷えるはず
です」
そしてふと、何か思いついた顔で首をかしげ、彼は微笑んだ。
「陛下は、あの昴の星の群れの中に、星がいくつご覧になれますか?」
「……え?」
唐突な問いだったが、千尋は素直に目をこらした。
一つ。二つ。三つ……。
「……えーと、……六つ、ですか?」
いや、…まだ見えるような。
首をひねっていると、道臣が穏やかに笑いながらうなずいた。
「私には六つ見えます。…ですが、昴は元々、七人の姉妹なのだそうです。…中に一人、
我が身を恥じて、あるいは我が子を失った悲しみで、姿を隠している姉妹がいるのだとか。
……だから、通常、空には六つの星しか見えない」
……という逸話なのですがね。
言って、道臣は笑みを深くした。
「かつて、岩長姫の屋敷でこの話を私がしたら、幼い忍人にきょとんとされてしまいまし
た。……彼はこう言ったのです。『ですが、道臣殿。星はちゃんと、七つそろっているで
はありませんか』とね」
道臣は空を見上げた。千尋もつられるように見上げ、目をこらす。
四つ、五つ、六つ。……そのそばに、あとまだもう一つ、……ぼんやりとした輝きが、見
えるような、見えぬような。
「…忍人の言うとおり、星は確かに七つあるのです。その光が弱すぎて、見えにくいだけ
で。…彼は目が良かったから、最後の一つもちゃんと見えていたのでしょう。だから私の
話が今ひとつすとんと胸に落ちない、…そんな顔をしていましたっけ。顔の真ん中にぎゅ
っとしわをよせるような顔でした」
「……ふふ」
千尋は思わず笑ってしまった。納得がいかず難しい顔をしている幼い忍人と、困ったよう
にその前で身をかがめ、彼と視線を合わせようとしている道臣の姿が目に見えるようだっ
た。
千尋を見下ろし、道臣も笑む。…その笑みはしかし、かすかに苦かった。
「……陛下。…私はあの星を見るといつもこう思うのです」
「……?」
「昴は、欠けているように見えても、本当は星は欠けていない。見えにくいだけで、空に
はちゃんと星が七つ輝いているのです。……その昴のように、私の兄弟弟子たちも今は少
し隠れているけれど、この世のどこかでちゃんと生きていてくれるはずだと」
「……っ!」
千尋が鋭く息を飲む音に、道臣は目をそらした。
岩長姫の元で共に学んだ5人の青年は、千尋の元に集う前に既に一人欠け、戦いの後で二
人欠け、三人欠けして、……今は、道臣一人が残るのみだ。
「生きているならば、いつかまた、陛下の元に集ってほしいと。…星を見るたび、願うの
です」
五つ全てが、とは言わない。破魂刀に魂を削られ、千尋を狙った刺客の刃に倒れた忍人が
戻ることはもうない。…だが、柊は。風早は。きっとどこかで生きている。…もしかした
ら、羽張彦も、どこかで生きているかもしれない。
「いつか。…きっと」
空を見上げる道臣の眼差しは、深い悲しみをたたえてはいたけれど、星を映すかのように
澄んだ光を帯びていた。
「……ええ。…いつか、必ず」
道臣の眼差しの光を、どこかで風早は見ているだろうか。道臣の願いを伝える星の声を、
どこかで柊は聞いているだろうか。
…どうかそうであってほしいと。千尋も願って、見上げる。

……二人が同じ願いをかけるのは、きりりと輝く寒昴。