からむ糸 少年は、「僕の兄様は強くて優しい人だから」と胸を張った。 …私はそのとき、彼とこの場をどうごまかすかで頭がいっぱいになってしまっていて、彼 の言葉をじんわりと噛みしめる余裕などなかったのだけれど、何でもないときにふと思い 出して、…少し戸惑う。 強くて優しい兄を誇らしく思い、慕う気持ちを、……かつて自分も知っていた気がする、 と。 おかしな話だ。 私には姉様しかいなかったはずなのだから。 その浜は、砂漠や砂丘とまでは呼べないが、長く広く続いていた。この場所で、あるかな いかもわからない珊瑚を探すのは気が遠くなるような作業だが、ただ手をこまねいていて も事態は何も進まない。途方もないことは百も承知で、努力できることはやるしかなかっ た。 ただひたすらにざくざくと砂をかきわけていると、千尋は自分がずぶずぶと物思いの淵に 沈んでいってしまうような気がした。考えまい、考えまいと思うのだが、思えば思うほど 心が騒ぐ。 ……私は、昔、…誰かのことをお兄ちゃん、と呼んでいた。 あの橿原の家での話ではない、……と思う。あの家では、風早は風早、那岐は那岐だった。 時々那岐がふざけて風早のことを「パパ」なんて呼ぶこともあったけれど、千尋はそれに 乗じたことはないし、まして、兄と呼びかけたことはない。 千尋にとって、風早はずっと「風早」だった。記憶に残るかつての豊葦原でも、あの橿原 の家でも、ここでも。それは那岐も同じだ。あの家で、那岐は那岐だった。兄でも弟でも なかった。千尋は二人のことを家族だと思って暮らしていたけれど、二人に何らかの役割 を割り振ることはなかった。 千尋は一つため息をつく。 やはり、かつての豊葦原でのことだろうか。本当の家族は母と姉だけのはずで、それ以外 で身近な男性は風早しかいなかったはずなのだが、自分のその頃の記憶はまだ霞がかかっ たようで、あいまいなことも多い。自分が忘れてしまっている何かがあるのではないだろ うか。失った手がかりを、自分に教えてくれる人が、誰かいないだろうか。 千尋は砂浜を見はるかした。 少し離れたところで、サザキが何か大きな声で周りに指示を出している。布都彦はきびき びと、遠夜は黙々と、互いに間隔を少し開けて砂を掘っている。那岐は退屈そうにめんど くさそうにあたりをうろうろ見ていたが、そこをサザキに見とがめられて、襟首を掴まれ て、彼が指揮する捜索隊の中に連れて行かれてしまった。 それから、と千尋が首をめぐらせたときだった。 千尋が目で探す当の本人が、千尋に向かってつかつかとやってきて一言、 「疲れたのなら少し休むといい」 ぶっきらぼうに言った。 彼らしからぬ優しい言葉に、千尋がぽかんとしていると、こう続けた。 「漫然と探しても効率は上がらない。休んで気持ちを切り替え、新鮮な目で再び探した方 が結果を出せる」 千尋は吹き出しそうになって手で押さえた。 「…何か」 「…いいえ」 優しさで休めと言ってくれたのかと思ったのに、ぼーっとしてたら非効率だって言われた のでびっくりして、でも忍人さんらしくて笑っちゃった……と、正直なことを言ったら、 どういう反応をするんだろう。 試してみたい気もしたが、今はそれよりも彼に聞きたいことがあった。千尋は自分の余計 な感慨を頭の隅へ追いやる。 「まだそんなに疲れてないんですけど、…せっかくだから、話し相手になってくれません か、忍人さん」 千尋の言葉に忍人は虚を突かれた様子で、 「は?」 と言った。 「こういう単純作業をしていると、ついつい余計な考え事をしてしまって、頭の中で堂々 めぐりになって手が止まってしまうんです。話し相手がいてくれたら、そんなことないと 思うから」 お願いします、とにっこり笑うと、あからさまにしかたがないなという顔をしてため息を つきながら、それでも忍人は無言でその場に腰を落とした。 千尋が目をのぞき込むと、促すように一度まっすぐに目を合わせてからうつむき、目の前 の砂を探り始める。 少し前まで波が寄せていた場所はじっとりと濡れていて、千尋が名前も知らない貝や波に 洗われた小さな石が頭をのぞかせている。……珊瑚はあいにく見あたらない。 千尋は小さく息を吸ってから話し始めた。 「忍人さんは、中つ国が滅んでしまう前から、宮に出入りをされていたんですよね?」 「…?ああ」 「その頃の王家のことについても、ある程度はご存じですか?」 「ある程度、とは、…たとえば?」 「……その、たとえば、…私に兄がいたかどうか、とか……」 思いきって千尋がそう言うと、忍人は顔を上げてまじまじと千尋を見た。千尋もまっすぐ に見返した。 「…この間、常世の皇子達と会って、シャニがアシュヴィンのことを兄様と呼んでいるの を聞いたときにふと、思い出したんです。…私も昔、誰かのことを兄と呼んでいたと」 忍人は眉を寄せた。千尋は慌てて言葉を足す。 「自分の家族のこと、忍人さんに聞くなんて変ですよね。ただ、風早から聞いてるかもし れませんけど、…私、異世界に行く前の豊葦原での記憶がひどく曖昧なんです。こちらに 戻ってからはかなり思い出してきたけど、それでもまだ完全とは言えない。ところどころ 頭の中に霞がかかったみたいで」 母様と姉様のことはちゃんと思い出した。でも父親のことは何も記憶にない。いなかった はずはないのだから、接する機会が少なくて思い出になるような記憶が何もないか、自分 が物心つく前に死別したかなのだろう。…同じ理屈で、 「兄もいたんじゃないかと、ふと思ったんです。接する機会が少なくて思い出せないだけ で…」 忍人は千尋の言葉の途中から軽く腕を組み、思い出すそぶりで緩く握った右手の人差し指 の第二関節を唇に当てていた。千尋が語尾を濁して話し終えた後も、じっと黙って考え込 む風だったが、ややあって、首をゆっくり横に振った。 「俺の知る限り、君には姉上お一人しか兄弟がない、はずだ」 それからまた記憶を探るように空を見て、 「近しい従兄殿もないだろう。君の母上は一人子であらせられた。だからこそ、師君が姉 妹のように寄り添われていたのだそうだから。……ただ、先王の叔父君、叔母君…つまり 君の大叔父君大叔母君に当たる方はたくさんいらして、御子や孫君も多かったから、ある いはその中のどなたかかもしれないな。あいにく、俺はあまり詳しくは知らないし、あの 戦の中でほとんどの方が行方知れずになられたそうだが」 最後はまっすぐ千尋を見ながら彼はそうくくった。 千尋は曖昧に微笑む。 …大叔父、大叔母の子や孫、と言われても、あまりぴんとこなかった。そもそも、大叔父 大叔母の存在すら思い出せない。もともと千尋は腫れ物に触るように育てられてきた子供 で、公の場に姿を現すことが極端に少なかった。当然彼女を訪なう人間も少ない。それは 血縁であっても同じだった。 忍人は、どうにもすっきりしないという様子の千尋を、自分の責でもないのに、少し申し 訳なさそうな顔で見ていたが、ややあって、ぽそりと口を開いた。 「…俺の話は、あまり君の参考にも気分転換にもならなかったようだな」 千尋ははっと我に返り、慌てて首を横に大きく何度も振った。 「いえ、そんなことは」 そのおおげさな千尋の仕草がおかしかったのか、珍しく忍人は小さくだがはっきりと笑っ た。 「わびに、というのもなんだが、…君の話を聞いて思いだしたことが一つある。…話そう か」 彼には珍しい申し出に、千尋は思わず目を見開いた。 「…はい!」 ついで、力一杯うなずく。その熱の入りように忍人がまた少し笑って、それからゆっくり と話し出した。 「…俺には兄弟がいない。道臣殿のように、同父や同母の兄弟はなくとも異父母兄弟がた くさんいる、というわけでもない。……だから、子供の頃は、兄弟が多い幼なじみを少し うらやましく思ったりもした」 昔を懐かしむような瞳は穏やかで、千尋はどきりとした。自分に向けられる彼の瞳はいつ も冷静で厳しかったから、…こんな表情もするのかと、意外さが千尋の胸を震わせる。 「師君の門下に入ってからは、兄気取りの兄弟子達にさんざんかまってもらって、兄はも うたくさんだという気持ちになったが、弟妹を持ったことはない。俺は比較的幼い頃に師 君のところにお世話になったので、俺の後から師君のところに入門した弟弟子達は皆俺よ りも年長で、弟弟子と言いながらも弟扱いは出来ないような方ばかりだった。…それなの に」 忍人が少し眉を寄せた。 「おかしな話だが、俺は時々、誰かにお兄ちゃんと呼ばれる夢を見る」 ふうっと、千尋は産毛が総毛立つような感触を覚えた。 寒さや気持ち悪さからではなく、何か、とてつもない予感のようなものが彼女を撫でてい った、そんな感覚。 「…それは、俺よりもいくつか年下の女の子で、いつも必死な顔で俺をお兄ちゃんと呼ぶ んだ。…いや」 ふと、彼はあごに手を当てて考え込んだ。 「顔はわからない。…ただ、必死な表情をしていると感じるだけだ。…まるで、呼ばない と俺を見失ってしまうとでも言いたげに、必死に俺を呼んでいる。俺は彼女の思いに応え たくて、ここにいると告げるために声を出そうとして、…いつもそこで目が覚める」 千尋は鼓動が早鐘のように鳴り続けるのを必死にこらえていた。何か、ひっかかる。忍人 の話の何かが違和感となって、かさこそと千尋の心をくすぐる。 「ただそれだけの夢だ。…夢は、現実でないことも起こり得る。君が誰かを兄と呼んだと いうのも、あるいは俺のように夢の中でのことかもしれない」 兄。 そうだ。 千尋ははっとした。 違和感を感じたのは呼び方だ。忍人のように厳格に育てられた人ならば、その弟妹もおそ らくは同じように礼儀正しく育てられているだろう。ならば、兄上、あるいは兄様と呼び そうなものなのに、彼は夢の中でお兄ちゃんと呼ばれたのだと言っている。 「………」 私も。 私が誰かを兄と呼ぶとしたら、この豊葦原でなら、きっと兄上とか兄様と呼ぶだろう。現 に姉のことは姉様と呼んでいたのだから。 なのに、おぼろげな記憶の中の自分は、誰かを「お兄ちゃん」と呼んでいる。 忍人の夢の中に出てくる誰かのように、必死に「お兄ちゃん」と呼んでいる。 ……あの記憶は、やはり豊葦原でのものではなく、異世界の橿原でのことなのではないだ ろうか。 「………」 ううん、でも、ちょっと待って。 千尋は転がり続ける自分の思考の石にストップをかけた。 そんなはずはない。異世界での記憶に抜けはないはず。記憶が曖昧なら、やはりそれは豊 葦原でのことなのだ、……そうでなくてはならない。 「…姫?」 呼びかけられて、千尋ははっと我に返った。 忍人が不審げな顔で自分を見ている。千尋が焦点のあった目で自分を見たことにほっとし たのか、軽く肩をすくめた。 「……奇妙な符号だろう。…いもしない妹を夢に見る俺と、いないはずの兄を捜す君と。 それが少しおもしろくて、つまらない話をしてしまった」 「いえ、おもしろかったです。……本当に、偶然ですね」 千尋の胸はまだどきどきと鳴っている。震える唇に気付かれないようにと願いながら、千 尋はそっとつぶやいてみた。 「お兄ちゃん、って呼ばれるんですね」 「……?」 忍人は千尋のつぶやきをちゃんと拾って、不思議そうな顔をした。 「…なんとなく、忍人さんなら兄上とか兄様とか呼ばれそうな気がして、…お兄ちゃんっ て呼ばれる忍人さんて、なんだか不思議だな、って」 千尋の言葉が忍人の腑に落ちるまでに少し時間がかかった。…ややあって、彼は遠くを見 るような眼差しで目をすがめる。 「……言われてみれば」 考えてもみなかった、というそぶりだった。 「確かに、……そうだな」 お兄ちゃん、か。 噛みしめるように忍人がつぶやく。 お兄ちゃん。 心の中だけで、千尋もつぶやいてみる。 ほどくのに失敗した毛糸のように、胸の中で何かがもつれてからまっている。きっかけを みつければその糸はほぐせるはずなのに、もやもやと絡んだ糸はぼんやりと輪郭が曖昧で、 どこから手をつければいいのか、その糸口を見せてくれない。 ひたひたと、遠くで波が寄せる音がした。