刀

「アシュヴィン殿、これを」
声をかけてきたのは闇と溶け合うような色合いの髪を持つ青年だった。
「明日の布陣図です。常世の兵は主にここで。アシュヴィン殿は、この陣にいていただい
ても、姫と同じ本陣にいていただいても。本陣にいていただく方が、話が早くて助かりま
すが」
忍人が指し示した常世の兵の布陣場所はずいぶん後方だった。
「……これは」
一言つぶやいてリブを振り返ろうとしたアシュヴィンを、忍人の声が押しとどめた。
「ご心境を勝手にご想像申し上げて失礼しますが、姫のご配慮だけではありません。確か
に、常世の兵を後方にとおっしゃったのは姫ですが、私もその意見には同意いたします」
「俺に、自国と戦う覚悟がないとでも?」
「違いますよ」
忍人は少しくだけた口調になった。
「そうおっしゃると思った」
むっとして、何となくアシュヴィンはリブを振り返った。リブは、無言で微笑んでいる。
…眉を上げてみせると、彼が無言で忍人をうながす気配がした。どうやら、この二人はな
んとなく意識のすりあいが済んでいるようだ。アシュヴィンがまた忍人に向き直ると、そ
れを待って忍人が口を開いた。
「あなたに覚悟がないとは思いません。それはあなたの側近や、軍の将校たちも同じでし
ょう。ですから、できればアシュヴィン殿には本陣にいていただきたい」
忍人の口調は淡々としている。
「ただ、私たちはあなたの率いる軍の兵卒たちが一人残らず自国と戦う覚悟ができている
とは思えない。…おそらく、リブ殿も同じ考えではないかと思います。…どうです、アシ
ュヴィン殿。あなたに言い切れますか?自分の兵は、一人残らず、常世の兵に対して躊躇
しないと」
それは、と言おうとして、アシュヴィンはあごにこぶしをあてた。
自陣から放たれた光で多くの仲間を失ったことで、兵たちの常世への帰属意識が薄れたこ
とは間違いない。アシュヴィンに対する忠誠も確かな者たちばかりだ。だが、だからとい
って、国の全てを切りすてられる者ばかりとは言い切れないのも事実だ。
「あなたの兵が、寝返ったり裏切ったりするとは思いません。ですが、つい昨日まで味方
だった相手に対して、攻撃が鈍ることはあるでしょう。そして、敵はあなたたちに対して
容赦しない。相手から見れば、あなたたちは裏切り者ですからね。…結果、あなたの兵た
ちの被害が大きくなるのではないかと、姫は憂いている。……その配慮故のご指示です。
従っていただけるとありがたい」
アシュヴィンはあごにあてたこぶしで二、三度唇に触れ、やがて肩をすくめた。
「わかった、この布陣を了解した。…リブ」
「はい」
アシュヴィンの背後でおっとりと笑うこの男は、自分がうっかりと見落としていたこの事
実にとうに気づいていただろう。裏切り者と呼ばれ、切りすてられるのが当たり前の人生
を生きてきたから。その彼をそばに置いて、この事実をうっかり見落とすとは、自分も少
しいつもの自分ではないようだ。……自国と戦うというのは、こういうことか。
「…将校たちに、この布陣について説明を頼む」
「わかりました」
立ち去るリブを見送って、アシュヴィンは忍人に向き直った。忍人は礼儀正しく、同じよ
うにリブを見送っていたが、向き直ったアシュヴィンに向かって軽く眉をひそめてみせる。
「…私に何か?」
「ああ。…いや、その前に、敬語と丁寧語を何とかしてくれ。いらん」
「…俺に何か?」
まじめな顔で、忍人は言い直した。吹き出しそうになって、アシュヴィンはこらえる。
「いやならいやと言ってくれ。……その刀を、見せてもらえないか?」
「……」
忍人が躊躇する気配がした。
やはり駄目か。そう思ったとき、忍人の両手が、美しく弧を描いた。
アシュヴィンの目前に、神々しいような金色に輝く刀身が示される。
「……これで、いいか」
忍人は静かに言った。
「……ああ」
やはりすごい。すぐ近くに現れたその刀を、アシュヴィンはまじまじと見た。
いったい何の金属でできているのか、見ただけではわからない。普通、金色に輝くなら、
金か、銅の合金だが、その二つはどちらも柔らかくて剣としては使い物にならないはずだ。
だが、そばで戦っていると、忍人のこの刀の切れ味は尋常ではない。並の鎧では何の防御
にもならないし、普通の刀では歯が立たぬはずのものでもやすやすと断ち割ってみせる。
それは、一つには忍人の剣の技量もあるだろう。過酷な戦地ばかりを駆け抜けた彼の経験
値もあるだろう。……だが、刀本体の威力あればこそ、出しうる切れ味であるはずなのだ。
「…いったい、どうやって作ったんだ…」
思わず思いが口に出てしまった。ふ、と忍人が笑う。
「珍しいものを見たときの子供みたいだな」
アシュヴィンはむっとしたが、言われたことは事実なので言い返せない。が、忍人の雰囲
気が柔らかくなったので、ここぞとばかりに問いかけてみる。
「どこで手に入れたんだ」
すっと彼の表情が硬くなった。
「…それは言えない」
顔を背けられる。性急すぎたか、とアシュヴィンは心の中で舌打ちした。
「…この刀を、手に入れたいのか」
「そりゃそうだろう。…この刀の威力を見れば、誰だってほしくなる。…手に入れた場所
が言えないなら、何でできているかだけでも教えてもらえないか」
「…いや、それは、俺は知らない」
こちらには当惑したような返事が返ってきた。
アシュヴィンは子供の頃から、珍しいもので欲しいものがあれば、材料を調べて作ること
を考えるたちだったが(少し大きくなってからは、人に作らせる、という方法を覚えたが)、
皆が皆、同じように考えるわけではないらしい。
「きれいな刀身だ。何でできているか、知りたいと思ったことはないのか?」
「……別に」
また困ったような声。本当に、一度も気になったことはないらしい。変わり者なのは、己
か、彼か。
「こんな金色の刀は初めて見た。いや、装飾刀なら、本物の金で作ったものもあるかもし
れないが、切れ味からして金ではないだろう。俺が今まで見てきた装飾刀よりよほど美し
いのに、これが真剣とは、驚くばかりだ。……まるで、お前の主君の髪の色のようだ」
「…………」
忍人が低い声で何事かを呟いた。刀に夢中になっていたアシュヴィンは、その言葉を聞き
逃したが、「姫の髪はこんなに、……ではない」と言ったようだった。
「…もう、いいか」
先ほどのように美しい弧を描いて、金色の刀身は鞘へ収まる。
「……常世の王子。俺も、君に一つ聞きたい」
「なんだ?」
「君がもし、この刀を手に入れたら、…君なら何をする?」
「何をといって…」
唐突な問いに、一瞬ぽかんと口を開けたアシュヴィンだが、ふと、腕を組んで視線を上に
投げた。
そうだな。
「…刀は戦いの道具だ。だからその刀を持つのは、戦に勝つためだ。……ただ、そうだな、
…その刀があれば、死なずに済む味方の兵も多いかもしれん。…俺はそう思うが」
「…そうか」
背後から聞き慣れた足音が聞こえる。リブの足音だ。将への説明が終わったらしい。思っ
たよりも長く、自分は忍人と話し込んでいたようだ。
「リブ」
側近に声をかけるため、アシュヴィンは忍人に背を向けた。その背中に、静かな声がかか
る。
「…アシュヴィン。俺は、……刀は、国の命をつなぎとめることはあっても、人の命は救
わない。…そう、思う」
「……?」
その言葉の意味を聞き返そうと、もう一度アシュヴィンは忍人を振り返ったが、すでにそ
こに彼の姿はなかった。ただ、静かに閉まる回廊の扉だけが、彼の行方を示していた。