片腕 そのときなぜそんなことを言ってしまったのか、後になって思い出そうとしてもどうして も思い出せない。…ただ、大地にしてみれば、ほんの冗談のつもりだった。それだけは間 違いない。 「律の左手を、貸してくれないか?」 その日は定期考査中で、律と大地は、寮の律の部屋で一緒に試験勉強をしていた。教科の 復習を一通り終えた律は、実技課題の譜読みに黙々と没頭していたが、大地は英単語にも 数式にもすっかり倦んで、現国の教科書をめくるふりをしながら、真剣な律の横顔をぼん やりと眺めていた。 律の白い指が楽譜をめくる。日焼けも傷もない指先が、まるで人形のそれのようだと思っ たとき、その言葉はぽろりと大地の口からこぼれていたのだ。 律は最初、大地の言葉が耳に入らない様子だったのだが、ふと大地に顔を向けて、 「何だって?」 静かに問い返した。 …そのとき、そこで、何でもないよ、と大地は言うべきだった。だが、問われるがまま、 大地は真正直に同じ言葉を繰り返した。 「律の左手を、俺に貸してほしいんだ」 普通ならそこで「何をわけのわからないことを」という冷ややかな反応が返るか、ぽかん とされるかだと思うが、律の反応はそのどちらでもなかった。 律は、不思議なほど透明な眼差しでじっと大地を見つめ、 「一晩でいいなら、貸しても構わないが」 と言ったのだ。 「……え?」 結果、ぽかんとしたのは大地の方だった。 律が大地の戯言を額面通りまともに受け取るのはともかくとして、まさか承諾するとは思 ってもみなかったのだ。 しかも律は、 「左手でいいのか?」 と問いながら、肩のあたりを持って、ごとりと腕を外してみせたのだ。 「……!」 いつもきっちり着ている長袖シャツのカフスをゆるめ、腕を取り出す。そのままその腕を 大地の目の前に横たえて、 「明日の朝には返してくれ」 律は真顔でそう言った。 「……っ、あ、の」 大地はとっさにどうしていいかわからず、しかししっかりと腕は受け取る。 「…いい、のか」 つぶやく声が喉に絡まる。 「左、…利き腕だろう?」 本当はそれよりももっと他に聞くべきことがあるはずだが、言葉にならなかった。律は大 地の言葉を冷静に聞いて、冷静に返答する。 「俺はたいていのことは両手利きだ。右手で箸も使えるし字も書ける。…ヴァイオリンの 練習があるから、明日の朝には返してもらわないと困るが、夜間は寮では練習が出来ない から、朝までなら好きに使ってもらって構わない」 「…持って、帰っても?」 「ああ」 言って、律はまた譜読みに戻った。大地は何が起こったのかわからないまま、ただ大切に 律の腕を抱いていた。 結局大地は、そのまま律の腕を持ち帰ってしまった。 身体から外されたというのに、腕は生ぬるい温かさを保ったままだ。さすがに、血の通っ た大地の指先よりは少しひいやりとしているが、触れてぎょっとするほど冷たいわけでは ない。不思議と、マネキンのように固いわけでもなかった。さすがに勝手に動くことはし ないが、大地が手でもって動かすと指の一本一本は容易に動く。 柔らかなベッドの上にそっと律の腕を横たえて観察しながら、大地は奇妙な誘惑と戦って いた。 それは、律の腕を自分の左肩にはめてみたい、という欲求だった。 いつもの大地なら、欲望よりも理性が勝っただろう。しかし今夜は、律が既に常識を飛び 越えている。 大地はごくりと唾を呑み、恐る恐る己の左肩に手をかけた。 関節を外す方法は心得ている。軽く力を込めただけで、ごとりと鈍い音と共に想像以上に たやすく腕は外れた。 「……!」 見るのが恐ろしくてそちらに顔を向けることは出来ないが、触れた指の感触でそこにぽか りと穴のようなものが開いているのがわかる。 大地は自分の腕をローテーブルに置き、律の腕に手をかけた。 両手で持って、慎重にゆっくりと、今度は脱臼を治すときの要領で律の左腕を自分の左肩 の穴にはめ込む。さして暑い日でもないのに、律の腕が肩にはまったときには大地の額に 汗が浮いていた。 腕をはめてしばらく、大地は左腕を動かさなかった。いや、動かせなかった。 だが、しびれが元に戻るときのようにじわじわと、左肩から腕、肘から手首、指先までの 感覚が戻ってくる。 大地はおずおずと、左手で何度かグーパーを作ってみた。最初はぎこちなく、しかし徐々 に指は大地の求めに応じてなめらかに動くようになってきた。 −…この手でヴァイオリンを奏でるのか、律は。 気付けば、左手は自然と弦を押さえる形になっている。 −…俺がこの律の手でヴィオラを奏でたらどうなるんだろう。 考えたときには、身体は動いていた。ケースに手を伸ばし、ヴィオラを取り出す。大地の 家は防音が効いているので、夜中にヴィオラを奏でても周りに迷惑をかけることはない。 もしかすると、自分にも律のあの音が出せるのかもしれない。そう考えると気分は昂揚す るのに、頭のどこかに「本当にこんなことをしてもいいのか」という逡巡もある。 …もしかすると、そんな迷いやためらいのせいだろうか。 誘惑に負けた大地がヴィオラを肩に載せ、弦に指を滑らせてみたときだ。 「……つっ」 小さな熱さと共に指先に痛みが走った。 弦で指を切ったのだ。 人差し指の腹から側面にかけて細く赤い筋が走る。小さな赤い血の玉がぷっくりと盛り上 がる。 練習を始めたばかりの時でさえ、こんな風に指を傷つけたことはなかった。…まるで何か に戒められたような気がして、大地は思わずヴィオラをケースに戻した。 血はどんどん盛り上がってくる。止血するほどの傷ではないはずだが、指の側面は細い血 管がたくさん集まっているところだ。血はたくさん出る。 じくじくした痛みとこぼれそうな血に焦って、反射的に大地は指先を口に含んだ。 鉄臭い血の味が口に広がり、つきん、と鋭く響くような痛みを指先に感じる。 「……!」 この指は律の指だ。なぜならば、大地の腕は取り外されたまま、ごろんとローテーブルに 転がっているし、整えられた爪の形、長くヴァイオリンを奏で続けて固くなってしまった 指先のタコ。そのどちらもが、大地の物とは違うからだ。 だが指の痛みを感じているのは大地だ。 つきん、ずくん、とうずくように痛む指先。これが誰か他人のものであるはずはない。 ならばいったい、この傷は誰のものなのか。 律の指についた律のものか、大地が感じている大地のものか。 大地は指の傷を確かめるようにもう一度舌先でねぶってみた。 舌でなぞると傷口はじくじくと痛みを訴えてくる。だが、痛みとはちがう感覚もそこには あった。 「……っ」 それは浅ましく、それでいて甘美なむずがゆさだった。 …血を止めるために指先を口に含む。ただそれだけのことなのに、なぜか卑しい一人遊び に律の手を借りているような背徳感が、大地を苛んだ。 脊髄を下から突き上げるように走る快感。一気に熱を帯びた体の芯の浅ましさに大地は頭 を抱え、逃げ出すようにベッドに身体を投げ出して丸くなった。 そのまま、いつしか眠ってしまったようだ。 朝の光に目をこすりこすり起き上がり、はっと我に返ってローテーブルを見たが、昨夜置 いたはずの自分の片腕はそこにはなく、身を起こすためにベッドについている左手は既に 律のものではなかった。見慣れた指、爪の形。 試みに肩に手をかけてみたが、昨夜のように外れることはない。 −…夢だったか。 大地はぼんやりとそう思った。 −……それはそうだ。夢に決まっている。…あんな、突拍子もないこと。 安堵と落胆がじわじわと波のように押し寄せてくる。ずしりと肩が重いのは疲労か。それ とも。 「……」 大地は頭を振り、立ち上がった。愛犬がきっと朝の散歩を待っている。昨夜のことは全て 夢だった。朝の空気を吸って忘れればいい。律の腕のことも、自分の浅ましさも、何もか も。 モモを連れて、いつも一回りする公園の近くまで行くと、ヴァイオリンの音色が聞こえて きた。美しく、高く澄んで、耳に残る音。 …誰の音か、すぐに気付いた。 −…律だ。 …果たして、公園の滑り台の傍らに立って、静かにブラームスの子守歌を奏でていたのは 律だった。 声をかけていいものかどうかと公園の入口でためらう大地に、モモが焦れたように地面を かく。その音が耳に入ったのか、律は弓を動かす手を止めて、ふとこちらを透かし見た。 「…大地」 穏やかに低く、柔らかい声が、いつもと変わらず大地を呼ぶ。 「おはよう。…早いな、散歩か?」 「おはよう、律。…そうだよ、いつものね」 律は静かに笑っている。そのヴァイオリンを持つ手を、大地は凝視した。 …見つめるまでもないはずだった。先刻、自分は聞いたばかりではないか。律にしか出せ ない、あの音色を。自分は、自分だけは聞き間違えるはずがない、ただ一度聞いただけで 人生を変えるほど魅了されてしまった律の音を。 ……だが。 「……その手、……その、指」 律の左手の人差し指に巻かれた、真新しい絆創膏。 「ああ、これか?」 律は言って、首をすくめた。 「昨夜、いつの間にか切っていたようなんだ。…いつ切ったのか覚えがないんだが」 「……っ!」 大地は思わず息を飲んだ。 「…大地?」 律は怪訝そうだ。 「どうかしたのか?」 問いかけるようにのばされる左手。 「…いや、何でもないよ」 …その指先から目をそらしながら。 「……何でもない」 大地は静かに笑った。 −…昨夜のことは本当にあったことなのか、…それとも? 大地の内心の問いに答えるものはなく、ただ、あの甘くうずくような感覚だけが、大地を 嘲うようにずくりずくりと彼を苛むばかりだった。