河内

風早が河内の戦いに向かったその日から、忍人はずっと千尋についている。なんでも風早
から「自分がいない間、代わりに千尋についていてほしい」という依頼を受けたのだそう
だが、なんというか、…ついているというよりは…。
「……監視されてるって感じなのよね……」
自室に戻って千尋は寝台にぐったりもたれかかった。
ぴったり横につきまとわれているわけではないが、数歩で駆け寄れる位置にいつも彼がい
る。いないのは回廊や楼台で誰かと一緒にいるときくらいだ。しかも、そういうときでも
必ずその一緒にいる誰かに千尋のことを頼むと言い置いていく。
今、忍人は露台にいる。室内とは薄幕で遮られているだけなのだが、一応は外だ。女性の
部屋に入る無礼はできない、という忍人が、自説を曲げて(というか、詭弁で納得させて)
千尋の部屋に入り、露台に向かうのはわけがある。
「…監視しているんだ」
一人言が聞こえたらしい。千尋の言葉から少し時間が空いたのは、明らかな一人言に返答
するかどうか少し迷ったからだろう。
「……やっぱり、そうなんですか…」
「…本当ならば、君の部屋の扉の外で俺は待つべきなのだろうが、…君はうっかりすると、
この露台から外へ出かねないからな…」
「……無理ですよ……」
千尋はがっくり脱力して言う。
天鳥船は大きな船だ。船の全長も長いが、上下にも何階層かにわかれている。千尋の自室
は比較的高い階層にあるので、異世界の橿原のアパートで考えると5〜6階の高さに当た
ると思う。飛び降りたら、良くて両足骨折、普通なら死んでしまう高さだ。しかも、露台
はそこからせり出しているので、蜘蛛男か忍者でもない限り、壁を伝って降りるというこ
ともできない。
「君には無理でも、サザキたち日向の一族なら飛んで出て行ける高さだ。君が彼らに依頼
しないとも限らない」
「…でも、サザキたちにも私の言うことは聞くなって言ってあるんじゃないですか?」
「無論」
……じゃあやっぱり逃げられないし。千尋は額を押さえる。
最初は、夜も露台で見張りをしていたのだ。だが、季節的に戸外で夜を過ごすのはふさわ
しくない。将軍になにかあると軍に大きな影響が出る、と主張して、なんとか夜に露台で
見張るのだけはやめてもらった。それでも部屋の外にずっといるのは譲ってもらえなかっ
た。
「…忍人さんだって、兵の訓練とかいろいろ大変でしょう?」
彼が一番気にしていそうな件を持ち出しても、
「君が那岐や遠夜といる間に行っている。心配ない」
…とりつく島もない……。
「あのう。…本当に、…逃げたりしませんよ、私。…今、この場所にいなければいけない
立場だってことは、ちゃんとわかってます。勝手に一人で出歩いていい存在じゃなくなっ
てしまってることも。…だから」
必死でそう訴えると、露台で、いつでも剣を取り出せる姿で立っている忍人が少し困惑し
た声で言った。
「……二ノ姫。…露台に出てこないか。…でなければ、君の部屋に俺が入ってもかまわな
いだろうか。…どうも、話がしづらい」
……確かに、顔が見えない状態で話すのは少し話しにくい。
「私がそちらに行きます」
千尋は、なついていた寝台からがばと起き上がり、露台に出た。
風はもう、秋から冬のにおいに変わっている。熊野は中つ国の中でも暖かいほうだが、そ
れでも朝はしんしんと冷え込む。ついこの間までふかふかの枯れ葉のにおいを運んでいた
風も、今日は雪のにおいを運んできている気がする。
千尋がおそるおそる忍人の顔を伺うと、忍人は少し、…たぶんかなり努力して、顔の表情
を和らげた。少し照れたような笑みは、初めて見る忍人の表情のような気がする。
「…二ノ姫。俺は、君の責任感を疑っている訳じゃない。…君はよくやっている。風早の
こともさぞ心配だろうに、それを必要以上には周りに気取らせないようにしていることも
わかっている。だが、何事にももしもがないとは言い切れない」
詭弁だな。忍人は少し千尋から顔を背けてひとりごちた。
「…すまない。…正直、ほんの少しだけ君を疑っている」
…本当に正直だなあ、と千尋は吹き出したくなった。
「他のことでは、君は決して皆の期待を裏切ることはしないだろうと信じている。だが、
もしも風早に何かあったと連絡が届いたら、…連絡が届かないまでも、君と彼の仲だ、虫
の知らせのようなものもあるかもしれない。…そうしたら、君が飛び出していかないとま
では、俺は信じかねる。…君は、いざというときの行動力がありすぎる」
「…いいですよ、忍人さん、そんなに言葉を選ばなくても。…そうですね、わかってます。
私、風早に本当に何かあったら、きっと無茶してしまう。何が目の前にあっても、どんな
状況でも、助けに飛び出していってしまうと思う」
そういうと、珍しいことに忍人がふふふ、と笑った。
「…忍人さん?」
声に出して笑う忍人を、初めて見たかもしれない。…千尋は思わずあっけにとられる。忍
人はまだ少し喉声で笑いながら千尋を見た。
「すっかり立場が逆転しているな」
「…は?」
「俺が知っている限り、剣の鍛錬の最中だろうが、チャトランガの勝負の途中だろうが、
君に何かあったと言っては突然飛び出していくのは風早の方だった」
別に君の泣き声が聞こえるわけでもないのに、なぜだか風早にはいつも、君の状況が見え
ているようだった。
「でも今は、君が助けに行くんだな。……頼もしいことだ」
「…あ。…馬鹿にしていますか?忍人さん」
「馬鹿になどしていない。…まじめに、君は本当に成長したと思っている」
いや、絶対馬鹿にしてると思う。千尋がもっと言いつのろうとしたとき、遠慮がちに千尋
の部屋の扉が叩かれた。忍人はすぐにいつもの冷静な表情に戻って大股に部屋の入り口へ
向かう。
立っていたのは遠夜だった。
「…忍人。…道臣が、呼んでいる」
土蜘蛛の呪縛を解いた彼は、たどたどしいながらも人と会話できるようになっていた。
「ここは、俺が代わる」
「わかった。頼む」
では二ノ姫、御前を失礼する。
言い置くと、忍人はそのまま扉から出て行った。近頃、忍人と道臣はよく相談事をしてい
る。もともと兵站の管理を任されている道臣と、軍の実質的指導者にあたる忍人とでは相
談事が日々多々あるが、それにしても頻度が高いようだ。
「…ワギモ?」
遠夜が、それが癖の、少し背をまるめた姿勢で露台に出てきた。
「風が、冷たい。…部屋に、入らないか?」
「あ、…うん、そうだね」
そうなんだけど。
「…でも、もう少し」
空を見上げる。
「…河内って、どっちの方にあるのかなあ」
熊野からは、大きな山々が邪魔をして、見えないということだけはわかっているのだが。
「教えてやろうかあ?」
突然降ってきた声に千尋はびくりとした。遠夜も驚いて目を丸くしている。露台の手すり
にふわりと降りてきたのはサザキだった。
「うわ、びっくりした!サザキったら、突然どうしたの?」
「どうしたって、散歩だよ、さ、ん、ぽ。船が止まったまんまですることないからさ。…
どうだ?姫さんもちょっと散歩でも」
「さ、散歩って、…どこを?」
「空に決まってんじゃねえか。…ほら、行くぜ!」
行くぜ、のぜ、が発音されたときには、千尋の体は空に舞い上がっていた。露台でまだ遠
夜がぽかんとしているのが見える。が、急に何か思いついたという顔で、にっこり笑うと
二人に向かって手を振って、部屋の中に入っていった。
「さ、さ、サザキ、ちょっと、ちょっと待って!」
「なんだ?空を飛ぶのは怖いのか?」
「怖くないよ、怖くないけど…」
さっき、忍人とあんな話をしたばかりで、舌の根も乾かないうちに露台から抜け出してい
るのはいくらなんでもまずい、気が…。
「ははあん」
サザキはにやりと笑う。
「さては、将軍様のご機嫌を気にしてるな?」
…うわあ、図星さされた。
「……だってぇ…」
千尋は左手でサザキにつかまりながら、右手の爪を少しかむ。
忍人さん、怒ると怖いんだよ。知ってるくせに。
「心配すんな。…姫さんをちょっと連れ出してやってくれって頼みに来たのは忍人だ」
「……え?」
「風早がいなくて、煮詰まってるみたいだから、とかいってたけど、風早がいないのより
四六時中忍人に見張られてる方が煮詰まるんじゃねえの?」
「そ、そんなこと、…ないよ」
「そうかあ?」
別に俺しかいないんだから、無理して取り繕わなくていいんだぞ。告げ口もしないし。
サザキはそういって、でもまあ、と付け加えた。
「忍人もああ見えて、姫さんと風早のことはすごく気遣ってるから、…やり方はへたくそ
だけど、許してやれな」
「だから別に、忍人さんのこと怒ったりとかしてないってば」
「何とも思ってないか?」
「……そ、そりゃ、…ちょっとは困ってるけど…」
わはははは、とサザキが大爆笑した。それから、不意にまじめな顔になる。
「ほら、…あっちが河内だ」
「……!」
「ここからじゃあ、大峰や吉野の山が邪魔してどうしても見えやしねえ。…特に姫さんの
部屋の露台は全くの逆方向に向いてるからな。河内はどうあっても見えない。……が、…
俺の翼なら、飛んでいけないって距離でもない。………どうする?」
「……!」
はっとして千尋がサザキを見ると、サザキはひどくまじめな目をしていた。
「姫さんが望むなら、…河内まで飛んでやるぜ。連れ出していいって許可を出したのは忍
人だ。文句は言わせない。……飛ぶか飛ばないか、姫さんが決めな」
「…………」
千尋は、心が揺らぐのを感じた。…もう何日も、風早に会っていない。会いたくないと言
うのは嘘になる。
……けれど、それでも。
「ありがとう、サザキ。…でも、戻る」
風早にもしも何かあったら、きっと自分にはわかる。今はまだ、風早は大丈夫。だから。
「帰ろう、船へ」
自分に預けられた信頼を、裏切ることはできないから。
サザキも、ふっと表情をゆるめる。
「そうか。…わかった」
じゃあ、帰ろう。俺たちの船へ。
大きな翼が風を一かきすると、不意に体の向きが変わった。ずいぶん飛んだような気がし
ていたが、さほど天鳥船からは離れていなかったようだ。向きを変えただけで、船体がち
ゃんと視界に入る。
「追い風だ。楽でいいや」
サザキの言葉通り、ぐんぐん船に近づいていく。近くなると、千尋の部屋の露台に誰かが
立っているのが見えた。
「…忍人さん」
「びくびくすんなって、姫さん。言っただろ?忍人がそうしろって言ったんだ。怒られや
しないよ」
「うん、そうだね」
露台に降りると、忍人はいつもと変わらない冷静な顔で、
「少しは気分が晴れただろうか」
と聞いてきた。
「はい。…ありがとうございました。…サザキ、本当にありがとう」
「いやいや、何の何の」
「では気分が晴れたところで、…相談だ」
「はい?…な、なんですか?」
思わず千尋が後じさると、忍人は笑った。
「そう身構えないでくれ。…俺と道臣殿で練りに練った案だ。聞いてもらう価値はあると
思う」
そう言って、忍人は一枚の地図を広げた。
「風早を、迎えに行く」
「……!」
花が開くようにほころんだ千尋の顔を見て、サザキと忍人が苦笑を交わしあう。それから
忍人は、淡々と作戦の説明を始めた。