希望の糸

その日の朝、天鳥船は出立準備でざわついていた。
祭りが終われば、これ以上出雲には長逗留できない。青龍に会えるまでは動けないという
理由があったとはいえ、追われる身としては少々、一つ所に長くいすぎた。
それでなくてもここは敵地、しかも敵の皇子であるアシュヴィンは、中つ国の姫が出雲に
いることを知っている。表だっては何も手出しをしてこないが、逆にそれが無気味だ。出
来る限り早く所を移すに越したことはない。
こういうときの指図は道臣が上手い。物腰柔らかく、あくまで丁寧に、けれど意外と容赦
なく人を動かす。糧食の確認や人員の点呼などの声が船内を飛び交う。
柊は、自分の居場所と定めた書庫にひっそりとこもって、竹簡を一ついじりながらこきり
と首を鳴らした。
「…意外と、何も変わらないものですね」
忙しくて、誰も自分を捜しにこないのをいいことに、いつもならば心で思うだけで決して
口に出すことのない感想を、声に出してみたりする。
風早が忍人を異世界に連れて行くという暴挙に出たことを知ったとき柊は、既定伝承の不
変と恐ろしさを知っているはずの彼の横暴に眉をひそめ、憤りさえ覚えたのだったが、反
面、心の底ではかすかな望みを抱いてもいた。
ある意味、ありえないことが起きたのだ。行くはずのない場所へ、行くはずのない人物が
行った。そのことによって精密に織られた糸が狂い、何か既定伝承にも変化が生じるので
はないか、と。
だがその望みは儚く消えた。
アカシヤは無理矢理に変化を元に戻し、かすかないびつさは残したものの、いつも通りの
歴史を刻んでいく。レヴァンタは倒れ、朱雀と共に天鳥船が現れ、白虎を解放し、珊瑚は
砂浜で見つかり、青龍に拒絶され、……そしてあの刀は、忍人の命を削っている。
「…」
既定伝承は変えられないと言っておきながら、せめてそれだけでもないことにできないか
と望むのは、あまりにも虫が良すぎるか。
柊は手にした竹簡に目を落として、かたかたとそれをまた繰りたたんで閉じた。ゆっくり
と棚に戻す。……那岐が指摘した、彼がいつも立っている場所、…アカシヤの竹簡ばかり
が収められた棚に。
そのとき、まるで竹簡が棚に収まるのを待っていたかのように、ふわりと書庫の扉が開い
た。
「…ここにいたか」
薄暗い書庫の片隅から光が差し込む戸口を見ると、そこに立つ人物は逆光になってよく見
えない。が、声だけでもそれが誰かはすぐわかった。
「…忍人」
名を呼ぶと、彼は数歩中に入ってきた。その背後で扉が静かに閉まる。光が遮られ、彼の
顔がはっきりと見えた。
「…もう出立ですか?」
でなければ、軍の指揮で忙しい彼がわざわざ自分を捜しになど来るまい。
柊の問いに、忍人は軽く肩をすくめた。
「船はまだだが、姫がどうしても出雲領主に一言挨拶に行きたいそうだ」
「おやおや」
柊は左の人差し指を唇に当て、憂わしげに肩をすくめた。
「目的を果たした以上、さっさと移動すべきだと俺は思うんだが」
忍人も眉間にしわを寄せ、難しい顔をしている。
「同感ですね。…若雷が動かなくとも、他の常世軍が動く可能性がある。特に、黒雷アシ
ュヴィンは我らの存在を知っているわけですし。……まあもっとも、いざというときのた
めの策の一つや二つ、ちゃんと用意はしてありますが」
「…」
忍人は計るようにしばらく押し黙って柊の瞳をのぞきこんでから、ふいと視線をそらし、
目を伏せた。
「…ああ、…俺にも、ないわけではない」
「……」
その答えに今度沈黙するのは柊だった。
「…忍人」
思わずもれた自分の声のすがるような響きに、彼が気付かねばいいがと思う。
「あまり無茶をするものではありませんよ」
「……」
忍人の眉間にしわが二本増えた。
「…昨晩、何か悪いものでも食ったのか、柊」
「…?どういう意味です」
「お前が俺の心配をするなんて気味が悪い。不幸の前兆のような気がする」
「…ずいぶん失礼だ」
柊が顔をしかめると、珍しく忍人がふっと吹き出した。それから柊にくるりと背を向け、
「早く来い。俺は先に行く」
言うだけ言って、書庫を出て行く。
そのまっすぐな背中を見つめながら、柊もゆるりと身を起こした。
既定伝承通りなら、今日はずいぶんと歩かなければならない。昨日も山登りをしたばかり
だというのに、全く。
大きな伸びを一つ、それから猫のような欠伸を一つして、ふらふらと彼は書庫を出て行っ
た。

使わずにすめばいいと毎回思うのだが、毎回使うことになる火神岳の策。
千尋は逡巡を見せながらも、柊の策を了承した。どんな策か知らされないのは納得いかな
いが、この状況では別案も見当たらない。
姫の顔にありありとそう書いてあるのを見て、柊は薄く笑う。
千尋の決定を見定めた忍人が、直属の狗奴の兵達にこっそりと合図した。…彼も、彼の策
を動かすのだ。
柊は、忍人に火神岳の策については何も知らせていない。既定伝承を知らない忍人が、こ
の先何が起こるかをはっきりと知っているはずもない。
ただ、柊の策には兵の手助けが必要となる。もちろん、策が漏れることを避けるため、借
り受ける兵は口が固い人物を厳選し、かつ、それがたとえ姫であっても忍人であっても決
して口外しないようにと箝口令を敷いてはいたのだが、軍を把握している忍人は、柊に貸
し出した兵達が何をしているかは知らなくとも、遠方で作業していることには気付いたは
ずだ。そして、その策を実行した後、本隊がどうやって無事に船まで戻るかについて、自
分なりに戦術を練っていただろう。それが、朝の会話での含みだったはず。
こっそりと視線を向けると、忍人はわかっていると言いたげに目でうなずいて見せた。
そして、おもむろに本隊から身を翻す。
とたん、千尋が訝しむ声を上げた。
「…忍人さん?」
思いがけず、鋭い声だった。
「どこへ行くんですか?…火神岳なら向こうですよ?」
否、鋭いというよりは、すがるような。…怯えるような。
忍人はその声にも顔色一つ変えず、冷静に千尋を見下ろす。
「狗奴の者ならば気配を消し、山中を移動できる。何人か兵力が減るが、かまわないだろ
う?」
「かまわないだろうって、そんな…」
なおも引き留めようとした姫の言葉を聞かず、忍人は兵達に号令をかけてその場から山中
に踏み分けて行ってしまった。
いつもならそこで千尋は、唇をとがらせながらも仕方なさそうに肩をすくめて、火神岳へ
と歩き出す、…はずだった。
だが。
「…忍人さん!」
悲鳴のような声を上げて、千尋が忍人隊を追っていく。狗奴の兵達は藪をかきわけるよう
にして道なき道を行っているのに、気にも留めない様子で、必死に。
何事かと呆気にとられた面々、とりわけ、姫を追おうと走り出しかけた布都彦を制したの
は、風早だった。
「心配しないで、…きっとすぐに、戻りますから」
言いながら彼は優しい瞳で千尋を見送る。那岐と視線を合わせると、彼らは小さく苦笑し
た。
知らず、自分は物問いたげな顔になったのだろう。
近くにいた那岐がそっと自分に肩を寄せ、小さな声で教えてくれた。
「向こうにいた頃、似たようなことがあったんだ。…忍人がどこかへ行ってしまう気がし
たからって、千尋が学校を飛び出して追いかけていったことが。…もっとも、その状況を
知ってるのは当人達だけで、僕らは後から話を聞いただけなんだけど」
那岐はもう見えなくなった千尋の背中を見はるかすように、優しい目をした。
「きっと、そのときもあんな顔だったんだろうな、千尋」
その日からだったよ。
「千尋が忍人のこと、お兄ちゃんって呼び始めたのは。それまでは、あの、とか、その、
とか言うばっかりだった。どこか怖がってる様子で、呼びかけることすらしなかったのに、
急に」
数度のぞき見る機会があった、異世界での彼らの穏やかな暮らしが、柊の脳裏によみがえ
る。
お兄ちゃん、と忍人に甘える姫と、見たことのない、大人びた穏やかな忍人の笑顔。
「今にして思えば、そう呼ぶことで千尋は忍人をあの世界につなぎ止めていたんだな。い
るはずがない、いつアカシヤの手で豊葦原に引き戻されるかわからない彼を、少しでも自
分の傍にって」
あの暮らしが幻のようにあやうくはかない縁だと知るはずもない姫。その姫が起こした行
動に、柊はかすか、めまいのような感覚を覚える。
本能がそうさせたのだろうか。そうやって必死で彼女は、あの暮らしを保っていたのだろ
うか。あり得ないはずの暮らしを。
…そこではたと柊は気付く。

『こんなアカシヤは知らない』

姫が忍人を助けに行くアカシヤは確かにある。だが、それは火神岳での策が滞りなくすん
でからの話で、忍人が狗奴の兵を連れて離脱するこの瞬間、姫はいつも、少しぽかんとし
た顔で、ただ忍人隊を見送ることしかしなかったはずだ。

『今この時点で』姫が忍人を追っていくことなど『ありえない』。

だが事実、ことは起こった。
アカシヤが、何も変わっていないわけではないのだ。
…柊は、うっすら笑っている己に気付く。
それは確かにほんのわずかな変化。けれども変化に違いはない。蜘蛛の糸よりも細くはか
ないかもしれなくても、それは確かに希望の糸。
「…あ」
つぶやいたのは布都彦だったか。
思いにふけってうつむいていた柊は、顔を上げた。
姫が戻ってくる。頬を上気させ、どこか誇らしげに、自信を秘めて力強く。
……ああ、…少し変わられた。
「さあ」
風早が促す。
隊全体が、がちゃがちゃと鎧の音を立てて動き出す。
…さあ。
柊も心の中でつぶやいてみた。
動き出そう。…希望を守るために、まずはここで生き残らなければ。そのためには火神岳
へ。
この希望の糸は途切れさせない。……今度こそ、決して。