木イチゴ

岩長姫は、意外と読書家だ。弟子たちに読ませるため、という理由もあるのだろうが、彼
女の屋敷の一室にはいつも、竹簡があふれている。ことある事に、岩長姫本人や、弟子た
ちの誰か彼かが持ち込むからだ。放っておくと、無理矢理詰め込まれた竹簡が雪崩を起こ
すので、当番制で、週に一度ほど整理することになっている。
今日の当番は、風早と忍人だった。
整理の当番を風早とするのは、比較的楽だ、と忍人は思う。
一番楽なのは道臣とすることだ。彼は無駄話をすることなく、かつほどほどに、忍人が根
を詰めないよう気遣って休息を取りつつ、淡々と一緒に片付けてくれる。
逆に羽張彦と組むのは一番負担だ。もともと彼は何かしら理由をつけて整理当番から逃げ
だそうとするが、逃げてくれた方が一緒にやるよりはましだった。一緒にやると、羽張彦
が間違えたところに整理したものを整理し直すことになって、二度手間だからだ。逃げて
くれて一人で整理した方が楽だ。
柊も面倒くさい。元々どちらかというと書庫にこもりっきりなので、当番から逃げ出すこ
とはないが、当番の最中に自分がまだ読んだことのない竹簡を見つけると読みふけってし
まうのだ。読み始めると忍人が怒っても揺さぶっても無反応で、結局忍人一人で片付ける
ことになる。もっとも、読み終われば謝りつつ一緒に片付けてくれるし、片付け場所は熟
知しているので、そこは楽。
そして風早。風早は、無駄話をしつつも淡々と片付ける。手際もいいし、忍人の疲れ具合
を見て休息を入れてくれるところも道臣と同じだ。
…だが、彼が道臣と違うのは、突如として「二ノ姫が!」…と叫んで、どこかに行ってし
まうことがあることだ……。…そうなってしまうと、彼はおいそれとは戻ってこない。翌
朝戻りだの、翌日の夕方戻りだのになることもしばしばで、結局呆然としながら一人片付
けることになる。…が、まあ、それはそれで、慣れてしまえばなんということもないのだ
が。
今日も、それだった。
「……姫!?」
誰かが持ち込んだ常世の歴史書を片付けている最中に、突如風早が叫んだ。そして
「ごめん!」
と言う間もあればこそ、走っていってしまった。
「…………」
またか、と思いつつ、忍人はその姿を見送る。…走り去る足音が聞こえなくなったところ
で書庫の入口まで立っていき、彼が開けっぱなしにした扉を閉めて、元の場所に戻る。
…今日はこのまま戻ってこないだろうな。
ふう、と忍人は小さな肩でため息を一つついて、整理を再開した。

が。
意外なことに、今日は忍人が整理をし終える前に、風早が戻ってきた。
日はすっかり傾いてしまっていたが、まだ没してはいない。燃えやすいものがたくさんあ
る書庫で灯りをともすのはあまりいいことではないと思うので、なんとか日が没しきる前
に片付けてしまおうと忍人が躍起になっている、ところへ、ばたばたと走ってくる足音が
聞こえて。
「ごめん、忍人!」
風早が駆け込んできた。
「……え」
まさか戻ってくるとは思っていなかったので、忍人は間抜けな声を出してしまう。
「うわあ、こんなに片付いてる。あんなにたくさんあったのに。…ああでも、まだ終わっ
てはいないね、よかった」
おっとりした口調の彼にしては珍しく、矢継ぎ早に話して、にっこり笑う。
「後は俺がやるよ。…ごめんね、一人でやらせて」
もう休んでおいで。ここまで片付けるのは大変だったろう。
「……いや、それほどでも」
ほんとは結構大変だったけど、ここで素直に大変だったといえないところが忍人だ。
「俺も当番だから。…最後までやる」
「いいよ。だって、俺が君を一人にして出て行ったんだし」
「いい。もう少しだから」
そういって、竹簡をまき直し始めると、風早が少し申し訳なさそうに、
「それじゃ、お願いしようかな。二人の方が早く終わるから、助かるよ」
優しい声で言った。
「終わったら、木イチゴを食べよう」
「……?…木イチゴを採りに行っていたのか?」
「いや、…ちがうんだけど」
風早は後頭部をかきつつ、分類されていない竹簡をぱらりと開いた。ああ、これは軍法の
方だね、と小さくつぶやく。
「姫に何かあったんじゃなかったのか?」
「うん、怪我したのかなと思って行ったんだけどね。…木イチゴのとげで指を突いただけ
だった。血が出てびっくりして泣いてたけど」
で、その罪深い木イチゴをごっそり摘んできて、おみやげに持って帰ってきたわけ。
「…………前から、聞きたかったんだが」
忍人は、小さな眉間に深く深くしわを刻んで、口を開く。
「…風早は、二ノ姫に何かあったって、どうしてわかるんだ?」
「……うーん、どうしてかなあ」
風早は申し訳なさそうな顔をしてまた後頭部をかく。
「俺にも説明はできないなあ。…でも、姫に何かあったときは、ぴんとくるだよ。特に泣
いてるときとか。姫がつらいときは必ず」
虫の知らせ、とかいうんだよね。これって、たぶん。
その返答に、今度は忍人が後頭部をかいた。
「……風早のは、虫の知らせの域を超えている気がするが」
あれは、誰かが亡くなったとか、重大な事故にあったとか、本当に大変なときにだけ発揮
されるものではないだろうか。
「指を木イチゴのとげで突いたくらいで、発揮されるとは思えない」
「うん、俺も今日のはびっくりした。…あれ、それだけ?って」
………だから、そういうことではなくて。
忍人の眉間に二つめのしわが入ったのを見て、風早がごめんね、と笑い出した。
「何となくわかるんだよ。…二ノ姫のことなら、なんでもわかる。…そうとしか言いよう
がない」
………。
「納得してくれない?」
「だって」
思わず子供のように、だって、と言ってしまって、思わず忍人は口を押さえた。
いつも、大人のように扱われたいと思っていて、口調には気をつけているのに、風早と話
していると調子が狂う。
「…何?」
だが、風早はさりげなくその接続詞を聞き流して、先を促してくる。ので、忍人は今の一
言はなかったことにして、続きを話した。
「羽張彦はいつも、…一ノ姫のことをもっとわかりたいと言ってる。…姫と話して、わか
らないと思っていたことがわかるようになって、…でもその新しい話の中でまたわからな
いことが出てきて、…一ノ姫のこと、知っても知ってももっと知りたくなる、理解したく
なるんだって」
……うーん、…聞いてるこっちが恥ずかしいねえ、と風早はこっそりつぶやいた。忍人に
までのろけているのか、とも、ぼそりと言ったようだ。
「……風早は、ちがう」
どこが?と風早は忍人に優しく笑いかける。
「姫のことなら何でも知ってて、わからないことなんてないって顔をしている」
「……うーん、あのね」
君なら、こういうことをちゃんと理解してくれるだろうと思うから、言うけど。君が大人
だから話すけど。
「羽張彦は、一ノ姫の恋人だ。…でも俺は、二ノ姫の世話役なんだよ」
女性はね、恋人には見せない部分、見せたくない部分があるものだ。秘密にしておきたい
こととかね。多いか少ないかは別にしてね。でも、世話係に見せない部分はない。特に、
子供の頃から一緒にいるとね。
「だから、俺は、二ノ姫のことがわかる。羽張彦は一ノ姫のことがわからない。それだけ」
「………うん」
忍人は、風早をじっと見てうなずく。
眉間からは、しわが一本消えている。
……でも、一つ刻まれたしわは残ったまま。
「………」
彼は竹簡を巻き直す手を止めたまま、じっと風早を見つめる。
「…忍人?」
「…なぜだろう」
やがて小さくぽつりと呟いた。
「風早の言うことはもっともだし、風早は嘘をついていないと感じるのに、…本当のこと
を言われている気がしないんだ。……いつも」
「………」
風早も、竹簡を巻く手を止めた。書棚に向いていた体を、傍らの忍人に向け直す。
「…忍人の目に、俺の顔はどんな風に見えているのかな」
「……?」
「…どう?」
にっこり笑ってうながされる。
「…どうって…、目が二つに、鼻が一つ、口も一つだ。きれいな琥珀色の目をしてる」
ぼそぼそと忍人が答えると、
「……そう?……角が生えていたりしないかい?……尻尾とか」
うっすら風早は笑った。……いつもの笑顔とはどこか違う。……どこが違うのかは忍人に
は言えない。見た目にはただ優しい風早の笑顔。でもどこかが違う。
「……はえて、いるのか?」
「……さわってみる?」
促されて、忍人はおそるおそる、風早の頭をなでた。やわらかい髪の手触り。地肌。肌の
下の温もり。……………それだけ、だ。
「…………ない」
「あるわけないじゃないか」
けろりと言われて、かーっと忍人の頭に血が上った。
「子供扱いしてからかったのか!?」
「子供扱いしたわけじゃないよ」
風早はあわてて弁明するが、からかったことは否定しない。
「でも、まさか本気で信じると思わなくて」
「………!…!…!」
もうなんだか、怒りが言葉にならない。だん!だん!だん!と書庫の床を三回けりつけて、
「もう風早なんか知るもんか!後の片付けは一人でやれ!!」
忍人は書庫から走り出ようとした、その背中からのんびり声がかかる。
「…忍人」
気が抜けてしまって止まった体に、風早は一足で追いついて、忍人の手にぽとんと布で包
んだ包みを落とした。
「木イチゴ。…持っておいで」
「……こんなもので、ごまかっ、ごまかされないからなっ」
「ごまかしてるんじゃないよ。…一人で片付けさせて悪かった」
お詫びだよ。持って行って。
「………」
怒っているのに、それでももらったものにはぺこ、と礼をするところが忍人らしい。その
まま彼は無言で書庫を出て行ってしまった。
「………」
残された風早は、…忍人がいるときには見せない速さで竹簡を片付け始めた。竹簡を解い
たり巻き直したりはしない。まるで触れただけで中身がなんだかわかるとでも言いたげに、
巻かれたままの竹簡を次々と整理していく。
その琥珀色の目が、光も受けないのにきらりと光る。
「……本当に、…君の目に、俺はどう映っているのかな」
風早はひとりごちる。
「…化け物、…かもしれないね」
ゆっくりと日が落ちていく。北向きの窓からあかね色の日が差して、風早の琥珀色の瞳を
燃える炎の色に変えた。