帰還 宮についた輿を、二つの人影が待っていた。 遠夜と道臣だ。 二人とも、泣いていいのか笑っていいのかわからない、という顔をしている。 千尋が輿の御簾をはねあげて、道臣に声をかけようとしたとき、道臣は輿の後ろに付き従 う背の高い人影に笑いかけた。 「…ああ、…やはり、あなたも」 も、という言葉に、千尋も、那岐も忍人もはっと肩をこわばらせた。風早はすまなそうに 頭をかいて、ゆっくりと兄弟子に近寄る。 「久しぶりですね、道臣」 言って、手を取り、固く握った。その上からもう片方の手で包み込むように握って、道臣 は力強く言う。 「…ええ、…本当に」 「…柊は」 こわばっている三人の代わりというわけでもないだろうが、聞いたのは結局風早だった。 「戻るなり書庫にこもってしまいましたよ。…狭井君と師君が滝のようなお説教を始めら れたのでね。…あなたも、覚悟が必要だと思いますよ、風早」 「…覚悟はしてきたつもりですが、…ちょっと今その覚悟が萎えそうです」 かつん、という音に、皆が一斉にはっとして音した方を振り返ると、忍人が無言で足早に 書庫へ向かうところだった。千尋がまろぶように輿から降りてその後を追い、那岐も千尋 が体勢を整えるのを助けてから忍人を追う。 「……おやおや」 そう言う風早も彼らの後を追おうとするので、呆れた声で道臣が言った。 「あなたまで、帰還報告もせずに出歯亀ですか?」 「師君の顔はいつでも見られますから。…あなただって行くでしょう?道臣」 遠夜が笑って、先に一歩回廊へ踏み出した。 「…あなたもですか」 やれやれ、と肩をすくめつつ、結局は道臣も彼らの後を追った。 忍人の足取りは軽かった。本来の彼の体力に戻っているのだから当たり前なのかもしれな いが、それ以上のものが何かあるような気がした。 「…猛烈に怒ってると思う、私」 「千尋じゃなくてもそう思ってるよ」 怒りが忍人の速度の原動力だと言い合いながら、二人必死で後を追う。が、奮闘むなしく、 彼らが書庫にたどり着いたのは、忍人が書庫の扉を音を立てて開け、 「柊!」 と一言怒鳴った後だった。 とはいえ、千尋と那岐は最大の見せ場には間に合った。なぜなら、柊が忍人の呼びかけに 答えて姿を現すのに少し時間がかかったからだ。 柊は、まるでバリケードを組むかのように積み上げられた竹簡の向こう側にいた。いや実 際バリケードを作って、岩長姫や狭井君から逃げていたのかもしれない。 忍人の声を聞いてひょこりと立ち上がったものの、またその姿が隠れる。むっとした忍人 がつかつかとその竹簡の山に近づくと、彼は別に忍人からは逃げようとしたわけではない らしく、一生懸命に出て行くための通路を竹簡の山の中に開けているのだった。 何とか崩れないように隙間を空けると、柊はのっそりとそこから出てくる。…自分の前に 柊が立ったとたん、忍人は拳を握った右手を振り上げた。 すわ殴りつけるか、と、那岐は思わず額を手で押さえたが、…しかし。 …忍人は、殴らなかった。 拳を握った腕で、力強く柊の肩を抱き、その肩に額を預けた。拳は、とん、と柊の背を一 つだけたたく。虚を突かれた表情で目を見開いた柊が、ごほん、とわざとらしく空咳を一 つした。 間の悪い沈黙。やがておずおずと、 「…元気そうですね」 柊は、かすかに震える声でつぶやいた。 「…てっきり、グーでぶん殴ると思ったんだけどなあ」 那岐が二人には聞こえないように小声でぼそりと言うと、 「奇遇ですね、俺もです」 小声で応じる声が背後から上がった。 振り返ると風早が、…そして道臣と遠夜が雁首を揃えて、首を縦に振る。 千尋はただ一人、ふわりと笑った。 「…忍人さんは、しないわよ」 それが当然という顔で言うので、那岐は首をかしげた。 「…何故」 「だって柊のことよく知ってるもの。柊はこういうとき、殴られるよりも優しくされる方 が『効く』人よ」 思わず那岐は風早や道臣と視線を交わし、 「「「ナルホド」」」 声を揃えた。 「身勝手な兄弟子を持つと、寿命が縮む」 柊は忍人から見えないところで、一瞬痛そうな顔をしたが、声だけは飄々と、 「大丈夫、私は見ましたよ」 と言った。 「君が、がみがみじいさんになって、女王陛下や那岐を怒鳴りつけている未来をね」 「…」 ぎろり、と忍人に睨まれて、今度こそ柊は首をすくめた。 「…わかっています。私も自重しますとも」 「…せいぜい、その殊勝な心がけが続くといいがな」 むっつり忍人が言い捨てる。 「続けますよ」 飄々と、というよりは、いっそ風早がうつったのではと思うようなのほほんさで、柊は応 じる。 「どうだか」 「本当です。…もう、未来を見るのが怖くなくなりましたから。…もう逃げません」 自分の能力からも、女王陛下からも、…君からも。 「…ただ、…がみがみじいさんになった君から叱られたいという誘惑に、少しだけ負けそ うではあるんですがね」 「だからそれを自重しろと言っている!」 忍人が眉間にしわを三本くらい寄せて怒鳴りつけた。柊は笑っている。忍人に怒られるの がうれしくてならないという顔で笑っている。 「痴話げんかみたいになってきましたねえ」 本家のほほんが言った。道臣も安堵したようにおっとりと笑う。 「そろそろ退散しましょう。…風早、君はまず師君に帰還報告ですよ」 「はい、…忘れていませんよ、大丈夫」 遠夜がふわりと笑って先に立ち、ついで風早が、そして彼を押し出すように道臣が書庫を 出た。那岐と千尋もそっと背を返したが、那岐は一瞬だけ、気遣わしげに背後を振り返っ た。 「大丈夫よ」 書庫を出てから、くすくす笑って千尋が言った。 「何が」 「やきもち焼かなくても。…忍人さんが共に歩くと決めたのは、那岐なんだから」 「……」 那岐は少し顔を赤くしてうつむきかけ、…はっと千尋の顔を見直す。 忍人がそれを言ったのは千尋が輿に入ってからで、しかも彼は声には出さなかった。口の 動きだけでそう言ったはずなのに。 千尋は悪戯っぽく笑いながら、種明かしをした。 「輿の御簾は、外からは見えにくいけど、中からは結構外が見えるのよ。…声に出さなく ても、口の動きで忍人さんがなんと言ったか、私にもわかった」 那岐はうなじまで赤くして、そっか、とだけつぶやくのが精一杯だった。 「…でもね」 ふと千尋が笑みをひっこめてつぶやく。 「二人の邪魔はしないから、時々は私も仲間に入れてね」 「…千尋?」 那岐は、彼女が何を言い出すのかと、少し首をかしげた。同じ角度に首をかしげて、千尋 が、お願い、とつぶやく。 「私は、…那岐のことを好きな忍人さんと、忍人さんのことを好きな那岐が好きみたい。 …二人が一緒にいて幸せだとうれしくて、…そばで一緒に笑いたいって思うの」 「千尋」 那岐も真面目な顔になって、千尋の顔を正面からのぞき込んだ。ふわり、花のように笑う、 双子の妹のような少女の額に、額を合わせて。 「…もちろん」 僕たちの大切な神子。大切な女王陛下。………大切な、大切な、女の子。 手をつないで一緒に行こう。君が、僕らが得た未来の、その先へ。