菊

かつて豊葦原で暮らしていた頃、僕の世界は閉じていた。
だからだろうか、こうして改めて豊葦原で暮らすようになった今も、僕の中の基礎知識や
常識は異世界で身につけたものが基本になっているようで、時々、あるはずのものがここ
にはないことに戸惑う。
…あの花のことも、そうだった。

「そろそろ季節だと思うのに、あまり菊の花を見かけないな」
遠夜と僕は橿原宮で小さな薬草園を作っている。政務だの何だのに首をつっこむのはごめ
んなので、必要なとき以外はだいたい僕らは薬草園の世話をして時を過ごす。
僕らがここにいることを知っている仲間が時々休憩に訪れることもある。今日も布都彦が
蒸した栗を手みやげにやってきていた。
「……きく?」
僕の言葉に、布都彦がくるりと目を丸くして軽く首をかしげた。
「那岐、きくとはどんな花だ?」
「はあ?何言ってんの?」
まーた布都彦は、と言おうとしてふと遠夜を見ると、彼もかすかに首をかしげている。
…………あれ?
「……遠夜も、菊を知らない?」
「…………俺は、豊葦原での名前を知らないだけかもしれない。…どんな花?」
言われてみれば確かに、彼は常世育ちだ。名前が違うかもしれない。
しかし、改めて問われると菊ほど説明しにくい花もない。いろいろな花の形、色、咲き方
があって全てを菊と総称するのだから。
しどろもどろで、結局僕は小菊と丸く盛り上がったような菊、二種類の絵を土の上に描い
て見せた。丸く盛り上がった菊の絵には遠夜も布都彦も首をかしげたが、小菊の絵を見る
とぽんと手を叩いて、
「ウハギ?」
と声を揃えた。
ウハギというのは異世界でヨメナと呼ばれていた小さな花のことだ。なるほど、形は似て
いるが大きさが全く違う。
布都彦と遠夜はなんだか納得してしまって、そのまま違う話題で盛り上がり始めたが、僕
の中には疑問符が残った。
…この世界に、菊はないんだろうか。

気になって、他の人にも聞いてみることにした。向こうの世界では重陽の節句に酒に菊を
浮かべた菊酒を飲んで長寿を願う行事があった。そうした宮中の祭祀を知る人なら、菊を
知っているんじゃないか。
僕がふらりと千尋の執務室を覗くと、中にいた面々は一様に驚いた顔をした。
「どうしたの、那岐?」
千尋が真っ先に声を上げた。
「大雨の前触れですか?」
首をひねったのは柊だ。
「きりもいいですし一休みしましょうか。お茶でも淹れてきましょう」
道臣が柔らかな声で言って部屋を出て行く。ややあって戻ってきた彼は、忍人を連れてい
た。
「ちょうど訓練を終えて戻ってきたところだったので、お茶に誘いました」
忍人は、僕がいることを前もって聞いていたのだろう。室内にいる僕を見ても特に驚いた
顔はせず、座に加わった。
しかし、外交内政軍事それぞれの長(みたいなものだ)を集めたこの場でも、皆菊には首
をひねった。千尋だけは、あちらでの知識があるから、皆が不思議そうにする様子を逆に
不思議そうに見ていたけれど。
しばらく考え込んでから結局、
「菊の花…とは、残念ながら私は聞いたことがありません。重陽は確かに陛下の長命を願
って御酒を交わす行事ですが、その酒に花を浮かべるというのは初耳です」
すまなそうに道臣が言った。その言葉に頷きながら柊が、
「私も見たことがありませんが、大陸の言葉で書かれた竹簡の中に、重陽の行事について
書かれたものがあったはずです。それを見れば何かわかるかもしれませんよ。調べておき
ましょうか?」
多少わざとらしさがある恭しさで提案してくれる。僕は思わず首を横に振った。
「別に、そんな大仰な話じゃない。…あんたたちでさえ知らないなら、きっとここにはな
い花なんだ。それさえわかればいいよ」
「菊ねー。どこにでもいつでもある花だと思ってたよね」
執務机で頬杖ついて千尋が言う。
「別に、大好きー!ってわけじゃないけど、ないって言われるとちょっとびっくりするか
なあ。那岐もそんな感じ?」
さらりとした質問に、…一瞬、答えるのが遅れる。
「…まあ、ね」
そうつぶやいたとき、背中に視線を感じた。
振り向くと、忍人が僕を見ていた。そういえば彼は何も言っていない。
「…忍人は、何か知ってる?」
まっすぐな視線はしかし、問いに応じるように伏せられた。二度ゆっくりと首を横に振る。
「あいにく、俺も名を聞いたことも花を見たこともない」
「そっか」
変な話をしてごめんねとつぶやくと、いいえ、と道臣が柔らかく微笑んでくれた。柊も穏
やかな顔で首をすくめる。勧められたお茶をすすりながら、また忍人の視線を感じたよう
な気がして振り返ってみたけれど、今度は彼は僕を見ているわけではなく、何か考え込む
様子で空を見ているだけだった。

その晩いつもの習慣で忍人の部屋を覗くと、室内はがらんとしていて主の姿はなかった。
油の燃えた匂いのしない部屋は、夕方以降、彼がここに戻ってきていないことを示してい
る。狗奴の兵達の詰所も覗いてみたけれど、そこにも忍人の姿はなかった。
ただ、顔見知りの狗奴の兵が僕を見て、
「将軍ならお出かけになりましたよ」
と教えてくれた。
「…出かけた?こんな時間から?」
「ええ」
「どこへ行くとか、言ってた?」
その質問には彼はゆるりと首を横に振り、すまなそうな顔をした。
「そう」
「もし戻られたり姿をお見かけしたら、那岐様が捜しておられたとお伝えしましょうか」
丁寧な言葉に、今度は僕が首を横に振った。
「いや、用事があるわけじゃないから。顔を見たいなと思っただけ」
言ってから、後半は余計だったと気付いたけれど、言ってしまった言葉は取り戻せない。
僕は少し急ぎ足で、それじゃあと詰所を後にした。

その晩、僕は夢を見た。
夢の中、菊の花が咲いていた。
白い花は凛と清しく、黄色い花は明るく薫り高い。
……その薫りの強さに、僕はふと疑問を感じる。
夢の中なのに、何故こんなにくっきりと薫るのだろう。まるで目の前にその花を置いて、
薫りを確かめているかのようだ……。
………。
これは本当に夢だろうか?

そこではっと目が覚めた。

まだ夜半過ぎなのだろう。室内は暗かった。色も形もはっきりしない部屋の中、昨晩寝る
前に灯した灯明の残り香よりも鮮やかに立ち上る薫りが一つ。
その薫りが間違いなく菊であることを確認するよりも先に、僕の神経はかすかな、ごくご
くかすかな衣擦れの音をとらえた。そして、音を立てないように気遣いながら、誰かが戸
口へ向かう気配と風の動きも。
寝起きでまだ少しぼうっとしていた頭が一気に覚醒する。
僕はがばりと寝台に身を起こした。
気配が立ち止まる。暗くてそれが誰だかはっきりとは見えない。でも見えなくてもわかる。
気配で、音で、感覚でわかる。彼のことだけはわかる。
「……忍人」
かすれる声で名を呼ぶと、戸口の側に立つ彼は、ゆるりと二歩、僕に近づいた。
「起こしてしまったか」
少しかすれたすまなそうな声に、ぐっとみぞおちが熱くなった。…ただ声を聞いただけだ
というのに、僕も大概どうかしてる。
「起こしてしまったか、じゃないよ。…来たなら声をかけていけばいい」
焦がれる気持ちを声に出さないように、必死に冷静さを装う。
「非常識な時間に来てしまったから。…だが、君に早く見せたくて」
何を、と問おうとして、僕は何が気になって目をさましたのかを思い出した。
…菊の薫り。
少しずつ、目が闇に慣れてくる。忍人の姿は闇になじみすぎているが、白く咲く花は目を
凝らさなくても見分けられた。
その形も、薫りも、僕が知るあの菊の花に間違いはない。
「……これ…」
「狭井君にお願いして、いただいてきた」
「…狭井君…?」
こく、と忍人が小さくうなずくのが、目には見えないけれど衣擦れの音でわかる。
「あの方は花が好きで、珍しいものも多く育てておられるし、内々ではあるが、遠方の地
や大陸とのやりとりも多い。もしかしたらとお屋敷を訪ねてみたら心当たりがあると仰っ
て。薬になるのならと花だけでなく株もくださった。挿し芽で増やすそうだ。薬草園に植
えるといい」
君が捜していた花は、これで間違いないか?
おずおずと問われて、僕は慌ててうなずく。
「そうだ、これだよ。…でも」
「……?」
常の彼にはないどこか頼りなげな風情が、僕をまた少し昂ぶらせる。落ち着くために、二、
三度つばを飲み下した。
「僕がほしがっているって、…どうして」
「……寂しそうに見えた」
陛下がおっしゃっただろう、あのとき。
「あるはずのものがないとびっくりする、と。君は、まあね、と同意したが、びっくりす
るというよりはどこか寂しさが勝つような顔をしていたから、…だから」
君を、喜ばせたかった。
…その忍人の一言が、とどめだった。
僕はおもむろに立ち上がり、忍人を引き寄せ、抱きしめる。抱きしめるというよりはむし
ゃぶりついたというほうが合っているかもしれないが、ともかく、腕の中に忍人を閉じこ
めた。
忍人は一瞬身を引きかけたが、結局はおとなしく僕の腕の中に収まった。その肩口に額を
当てて、僕は呻くようにつぶやく。
「逆だ」
「……は?」
「これじゃ、逆だって言ったんだ」
ただ息を吐くだけのつもりが、ため息みたいになってしまった。
「僕はいつも忍人を驚かせたい、喜ばせたいって思ってるのに、実際にびっくりさせられ
たり嬉しい気持ちになったりしているのはいつも僕なんだ」
すると、今度は忍人が僕の耳元であからさまなため息をこぼす。
「…君の悪いところだ」
「…何が?」
「すぐに自分だけがと思いこむ」
忍人は僕の夜着の裾を、ぎゅっと握りしめた。
「……俺の方が、君よりもずっとずっと君に溺れているのだと、…いい加減、思い知れば
いい」
どこか拗ねたような口調が常の彼らしくなく子供っぽくて愛らしくて、胸に迫った。
「………参った。降参」
嘆息する僕の唇に、無器用な口づけが降りてくる。必死に堪えていた僕の情動が関を超え
てあふれ出す。僕たちは抱きしめ合ったまま、もつれあうように寝台に倒れ込んだ。

ただ一輪の菊の薫りに酔う、深夜。