桔梗 今を盛りと青く桔梗が咲き誇る野辺を、男が一人歩いていた。 ゆるく波打つ髪を長くたらして、年の見当がつかない。老いているようにもまだ若いよう にも見える。 時折ふらりと身を折っては、桔梗の花を一輪手折る。また一輪、…また一輪。…右に美し い花を見ればそれを、左に見ればまたそれを。 いつしか彼の腕の中には大きな桔梗の花束が出来ていた。 男が行く野辺道の向こうに、こんもりと小さな墳墓が見えてきた。男はなおも桔梗を手折 りながらゆっくりと墳墓を目指すように道を行く。 野辺は静かだ。今日はなぜか鳥の声もない。風だけが吹いて過ぎる。どうやら風の通り道 になっているらしい。 野辺道はやがて墳墓の前で行きどまった。男は足を止め、ゆったりと、…ひどくうれしそ うに笑った。 「来ましたよ、…忍人」 言って、腕に抱いていた桔梗を、空に放つように投げる。青い花はばらばらと墳墓の上に 散らばり落ちた。 「…長生きはするものですね。天寿を全うして典礼に則り葬られた君の墳墓に、こうして 花を捧げることが出来るなんて」 ぐるぐると同じ時間をめぐるアカシヤの輪に囚われていたときには、思いもよらぬことで した。 ささやくように付け加えて、男はゆるりと辺りを見回した。 「いい土地ですね、ここは。…心地よい風が通り、美しい花が咲く。静かで清らで安らぎ ます。この地に君の墓を築かせた、陛下のお心遣いが忍ばれますよ」 まるで、男のその言葉に応えるかのように、ざざっと風が草を鳴らして通りすぎた。 「…君も、そう思いますか?」 くくっと男は喉を鳴らす。 「……ちょうど、桔梗が盛りですね。…美しい色だ。そう、光を見る君の瞳は、ちょうど こういう色をしていましたっけ。……澄んで、……青い…」 ……。 男はふと押し黙り、ややあって、がらりと趣の違う声でまた別の話を始めた。 「覚えていますか?昔、師君の館で夜退屈すると、皆でいろんな話をしましたね。羽張彦 も道臣も話し上手でしたが、取り分け風早は、四国の海辺の郷の出だったせいか、船乗り から聞いたという珍しい不思議な話をたくさん知っていて、時々ぽつりぽつりと教えてく れた。……その中に、花に意味を持たせるという話がありましたっけ。確か、花言葉、と か言っていました」 言いながら、男はうっすら笑う。 君はそんなこと、きっと覚えていないでしょうね。君が好んだのは戦術の話や刀の話、そ れに見知らぬ土地の話ばかり。花の話など、聞いてもきっと右から左に忘れてしまったこ とでしょう。 「でも私はなぜだかその話が気に入りました。だからでしょうね、今でもいくつか覚えて いますよ。…たとえば、柊は先見、アザミは厳格、百合は純潔」 指折り数えながらいくつか並べ上げて、男はふと、墳墓に散らばる桔梗の花を、一輪手に 取った。 「…それから桔梗は、…変わらぬ愛」 ひそやかな声でささやいて、その身を捧げるように、小さな墳墓を体全体で抱きしめよう とするかのように、両手を広げて墳墓へ身を投げ出した。 大地を掻き抱き、低く、甘く、すがるようにつぶやく。 「忍人。…私はあなたを愛していました。……ずっと、ずっと、愛していました。……ど んなときも変わらず、……今も」 ……愛しています。 きっぱりと宣言して、何か重荷から解放されたかのように晴れやかに男は笑った。 「ああやっと、……やっと言えた…!!」 男は桔梗に埋もれる墓に顔を寄せ、何度も何度も口づけた。…まるでその大地が、愛しい 恋人であるかのように。 そうしてやがて、ひたりと動かなくなった。 東の空に、夕闇がひらりと降りてくる。 桔梗色に青く染まるその空の下、男はいつまでもただ、墓を抱いていた。