君の左手 とん、とん、とん、と規則正しい小気味いい音が菩提樹寮のどこかから聞こえてくる。何 気なく音の出所を探したかなでは、階段の下で、寮生でもない大地が金槌をふるっている のを見て思わず声を上げた。 「…大地先輩?」 ふっ、と金槌を振り下ろす手を止めて、大地が振り返った。 「やあ、ひなちゃん」 「あのう、…何、してるんですか?」 「ここの階段の一段目の補強だよ。…ほら、この間穴が空いただろ?」 かなでは少し顔を赤くした。元々板が弱っていたところだとは言われたが、直接的原因に なったのは自分だ。 かなでが何を考えたのか、手に取るようにわかったのだろう。大地がくすりと小さく笑っ て、ひなちゃんのせいじゃないよとつぶやき、また金槌をふるう作業に戻る。 「…でも、どうして大地先輩が?」 「律が、放置するのは危険だから直すって言い出したんだけど、あいつの指はヴァイオリ ンを弾く指だからさ。…俺がやるって、取り上げた」 「……」 かなでは、眉間に小さくしわを寄せた。 大地の言葉はもっともだ。律にやらせるわけにはいかない。…だが。 「…大地先輩の指だって、ヴィオラを弾く指ですよ」 怪我をしたらどうするんですかと暗に責める。 「ははは」 だが、それを聞いた大地が、かなでを振り返りもしないまま声を上げて笑ったので、 「何ですか」 かなでは唇をとがらせた。 「いや、律と同じことを言うんだなと思ってさ。…大丈夫、俺、律と違って器用だから。 …ほら出来た」 立ち上がり、大地が披露してみせた階段を見てかなでは思わず拍手してしまった。板の色 の違いなどは如何ともしがたいが、素人仕事にありがちな隙間や釘の打ちそこないもなく、 きれいに仕上がっている。 「…上手ですね、大地先輩…」 「言ったろ、器用だって。…なーんて、ね」 苦笑をもらして、大地はかなでの頭にぽんと大きな掌を載せた。 「ほめてもらってうれしいけど、所詮は素人仕事だし、あくまで応急処置だからね。なる べく早く寮の修繕費を貯めて、階段全体を補修してもらった方がいいよ」 はー、とため息をもらしながらふと、かなでは首をかしげた。 「大地先輩」 「ん?」 「律くんにも言ったんですか?…その、自分は律くんとちがって器用だって」 「言ったよ。わかったって言って納得してた」 「納得したわけじゃない」 むっとした声が背後からかかる。 大地がゆるりと、かなでが弾かれたように振り返る。眼鏡を押し上げながら、律が一歩、 二人に近づいた。 「納得はしなかったが、大地が言い出したら聞かない目をしていたから、仕方なく引き下 がっただけだ。…終わったのか?」 「ああ。…ほらこの通り」 「いたの、律くん」 かなでが問うと、律は苦虫を噛み潰したような目でちらりと大地を見てから、ああ、とう なずく。 「心配だから、本当は傍で見ていたかったが、じっと見られていると気が散ると言って追 い払われたんだ。…小日向はいいのか、大地」 「ひなちゃんが来たのは、もう終わるところだったからね。…でもお前は、最初っから最 後まで俺の傍に貼り付くつもりだったろ」 「えー。駄目だよそれは。気が散って大地先輩の手元が狂っちゃうよ、律くん」 「ほら見ろ。ひなちゃんはわかってるなー」 大地がにやにや笑うので、律はむっとして唇をとがらせ、 「だが」 ぼそりと言った。 その頭に手を伸ばして、よしよし、と撫でながら、かなでは微笑む。 「心配だったんだよね。…その気持ちはわかるよ、律くん。私も、大地先輩が金槌叩いて るのを見たとき、何やってるんですかってびっくりしちゃったもん。…今回は目をつぶり ますけど、大地先輩もちゃんとプレイヤーとしての自覚を持ってくださいね。…大事な指 なんですから」 「小日向の言うとおりだぞ、大地」 律が言ったとたん、かなでは顔をしかめて律に向かって指を振り立てた。 「律くんに言う資格はないよ。最初に直そうとしたのは律くんなんでしょ?」 「…」 二の句を告げずに律は絶句した。思わず大地は吹き出してしまう。 「確かに、律に言われるのは理不尽だな」 「大地先輩、矛先が変わったからってすぐそうやって他人事みたいに。いいですか、とに かく二人とも反省してください」 自分たちよりも20〜30pほども小さい女の子に腰に手を当ててぷりぷり怒られてはな んとも居心地が悪い。二人とも背を丸めるようにして、どちらからともなくぺこりと頭を 下げる。 「…すいませんでした」 「以後気をつける」 「よろしい」 ふん、と胸をそりかえらせてうなずいてから、ぱっとかなではいつもの表情に戻った。 「お茶飲みませんか?私淹れます。…大地先輩、冷たいものがいいですか?」 「いや、なんとなく熱いコーヒーが飲みたい気分」 「インスタントしかないですけど」 「十分だよ」 「わかりました。律くんは麦茶ね」 「俺は自分で…」 「冷蔵庫にいれてあるのをコップについであげるくらい、サービスするよ。先に食堂に行 ってるから、来てね」 ふわりと身を翻し、軽い足音を立てて食堂へと消えるかなでを見送ってから、律はそっと 大地の左手に触れた。確かめるように、指の一本一本に触れていく。 「何だよ、律。…大丈夫だよ。怪我はしてない」 「…ああ、そのようだ」 小指に触れて、…離れるのかと思った手が、そのままそこにとどまる。…おい、律、と大 地が呼びかけようとしたとき、低い声で律は話し出した。 「…待ってる間」 「ん?」 「ずっと思い出していた。去年の夏、俺が怪我をしたときのお前の顔。紙みたいに真っ白 だった。てきぱきと応急処置をしたり、病院に連絡を取ったりしてくれているのに、表情 が全く顔になくて。…俺が知ってるお前の顔はいつも表情豊かだったから、ひどく驚いて、 …少し、怖かった」 「…」 大地は、だらりとたらされている律の左手を一瞬見て、すっと目をそらした。 あの日は、今日のように暑い日だった、はずだ。…だが、思い出すのは、震える自分の指 と熱を持つ律の手首と、氷を呑み込んだようにずんずんと冷えていく自分の内臓。凍り付 いたような背筋の汗。 冷蔵庫の中に閉じこめられたような気持ちがした。思い出すのはただそれだけ。 「あの時のお前の気持ちが、たぶんほんの少しだけだろうが、わかった気がする」 「…?」 静かな律の声に我に返ると、律は目を伏せ、両手で、宝物でも包むように大地の左手を捧 げ持っていた。 「俺は、お前の左手が、自分の手よりも大事らしい」 「…っ」 虚を突かれ絶句した大地を、律の静かな瞳がのぞき込む。 「…お前も、そうだったのか?」 息を呑んで、…大地は笑い出したい衝動を必死で堪えた。 「…聞くなよ。…当たり前だろ」 なんとかそれだけ答えて、大地は右手で自分の口を覆ってしまった。そうしていないと、 何かを自分の中から吐き出してしまいそうだった。怒りのような喜びのような悲しみのよ うな、すべてがごちゃごちゃに混じり合った感情の爆発が、自分の中から流れ出ていきそ うだった。 俺にとって、律の左手の方が自分の手よりも大事か、って? 馬鹿だ。律、お前は馬鹿だ。なんでそんな当たり前のことを聞くんだ。大事どころか、俺 の手なんかどうでもいい。…どうでもいいんだ。お前の手さえ無事なら。 だがもうその言葉は言えない。律が、自分の手よりも大地の左手が大事だというなら。こ の手を何より大切にする。…律のために。 …俺の手がお前の手より大事だって? 律。…そんな馬鹿なこと言うのは世界中でお前くらいだよ。 「……」 ふー、っと、長く重いため息を腹の底から吐き出して、大地はようやく平静を保てる自信 を得た。 「…もう行こう。コーヒーのいい匂いがしてきた。ひなちゃんが待ってるよ。…俺は、今 日は熱いコーヒーが飲みたい気分なんだ」 律の背中をとん、と叩いて先に食堂に向かわせ、大地は二歩後ろからついて歩きながら、 さっき律が触れた自分の左手をそっと見た。 じわりと熱く、震える指先。 震えを止めるように、熱を閉じこめるように、大地はきつくその手を握り、足を速めて律 の後を大股に追いかけた。