君と一緒に


「いいお湯だね」
那岐がぽつりとつぶやいた。
狭井君に勧められたのは、神邑から紀の村へ向かう途中にある温泉だった。紀の村で用を
すませての帰り道、ぜひともそこに寄りたいと言いだしたのは千尋だ。いろんな意味で疲
れ切っていた一同に、もちろん否やはない。
温泉は海沿いにあった。というか、石を組んで作られた湯船の向こうはもう海で、大潮の
日の満潮ともなると、湯船は海の水で満たされるほどだという。
今日は大潮ではなく、深夜の今はちょうど引き潮で、海の水は眼下に遠い。石組みに肘を
置いて、忍人は穏やかに目を伏せ、口元だけで微笑んで那岐に応じた。
湯船には二人きりだった。
夕方にいで湯について、すぐに皆は入りに来たのだが、人と一緒にわいわい風呂に入るこ
とを好まない那岐は敢えて時間をずらし、忍人は皆が風呂に入る間の一行の警護役を買っ
て出た。…というわけで、この時間に二人、のんびりと風呂につかっているのである。
「千尋、おとなしく一人で入ったかなあ」
「夕霧を風呂に誘ったら断られたとぶつぶつ言っていたが」
「……あー」
那岐はがしがしと頭をかいた。
「あれかな、千尋はまだ信じてるのかな。夕霧が女だって」
「おそらくは」
忍人は首をすくめる。
「……素直だからなあ……。……よくよく見ればわかりそうなものだけど。男だって」
「布都彦もまだ気付いていないようだ。あながち千尋ばかりが鈍いとは言えない」
「鈍感の極みみたいなやつを引き合いに出して言われてもさあ…」
ひどいことを言ってから、那岐はふと、ふふっと笑った。
「?……何だ?」
「ううん。鈍いで思い出した。…忍人も、布都彦とはちがう意味で猛烈に鈍いよね」
「…何のことだ」
「高千穂で、千尋が水浴びしてるところに出くわしたとき、武器を手元から離すなとは叱
ったけど、千尋のハダカ見ても顔色一つ変えなかったって」
「……?」
忍人は、それが何か?という顔をしている。唇はやや不機嫌そうに引き結ばれた。千尋に
注意をするほど用心のいい彼は、温泉につかっている今ももちろん、手を伸ばせばすぐに
振るえる位置に刀を置いていた。
「その話を聞いたときに思いだしたんだ。…忍人は、覚えてる?異世界にいたとき、忍人
の卒業記念に、一度泊まりでみんなで旅行にいったよね。…温泉に」
忍人は異世界での記憶を取り戻したばかりだ。困った顔や考え込む顔をするかと思ったが、
案外思い出しやすい記憶だったと見えて、ああそうだな、とあっさりうなずく。
「あのときも、忍人だけが似たような反応だったんだよね」
「……?」
「じゃあともかく温泉に入ろうかって、男湯と女湯に別れて入ろうとしたらさ、途中で混
浴の露天があるから一緒に入ろうって千尋が言い出して。自分は一人だけなのにみんなは
一緒に入れてずるいって駄々こねてさ」
「……」
「僕と風早が、そうはいっても千尋は年頃の女の子なんだし、駄目だよって必死に説得し
ようとしてるのに、千尋が本気でそうしたいなら好きにすればいいって忍人一人平気な顔
してさ」
「……。……覚えてない」
「え、嘘だろ」
那岐は思わず口走る。
「あんだけ大騒ぎしたのに?みんなで温泉にいったことは覚えてるのに?」
「そこは覚えているが、千尋と一緒に風呂に入る云々は覚えていない」
「えー。そこを覚えててよ。忍人が味方についちゃったから、千尋の入りたい入りたいが
手をつけられなくなって大変だったじゃないか。……結局、露天まで行ったら他のおじさ
んもいてさ、風早が目を三角にしちゃってぜーったい駄目!って言ったから、千尋も諦め
たけど」
「そうだったか?」
「そうだったか、って、…あのさ、忍人、僕の話聞いて…」
ぶつぶつ文句を言いかけた那岐の言葉は、そうだったよ、という朗らかな千尋の言葉で遮
られた。
「すごくつまらなかったんだから、あの時。みんなだけずるいって本気で思ったもん。那
岐や忍人さんにはぜーったいわかんない」
風呂の外でしゃがみこんで、千尋がにっこり笑っている。忍人のそうだったか?は、那岐
ではなく千尋に向けられたものだったのだ。
「リベンジで、今一緒に入っちゃおうかなー。今なら二人しかいないしね」
「ち、千尋!」
「慌てるな、那岐。千尋も、悪い冗談を言うものじゃない。本気でもないくせに」
さらりと言われて、千尋は少々焦って咳き込むような声で、
「ほ、ほんきだもん」
と言ったが、
「…千尋」
忍人の落ち着いた瞳で見つめられ、さとすように名をつぶやかれると、ぱあっと花が開く
ように赤くなった。
「本気でも平気でもないのは見ればわかる。…それに、もし万が一、俺や那岐が構わない
し気にしないから一緒に入ろうと誘えば、妙齢の女性として、今の君はそれなりに心外な
のではないか?」
……って、冷静ーに言われるのも、既にかなり心外だと思うんだけどね、と、傍観者態勢
に入った那岐は内心つぶやく。…が、珍しく、今日の忍人はちゃんとフォローが出来てい
た。
「那岐や俺だって、君と一緒は目のやり場に困る。どうしても温泉に入りたいなら、俺と
那岐がもうすぐ上がるからそれからにしてくれ」
その忍人の言葉が思いがけなくて、おや、と那岐は眉を上げた。千尋の水浴びを見ても顔
色一つ変えなかったのは彼、本人が望むならと混浴をただ一人止めようとしなかったのは
彼だ。その彼が、一緒は目のやり場に困るという。

−……へーえ。忍人も、いつまでも朴念仁じゃないってわけだ?

千尋を子供扱いし、未熟な戦士扱いしていたのは過去の話で、今の彼はきちんと彼女を女
性として見ているのだ。
那岐が猫のようににんまり笑うのが視界の隅に引っかかったのか、忍人はちらりと那岐を
見て、伏し目がちに苦笑してみせる。
千尋はその忍人の変化に本気で気付かなかったのか、あるいは敢えて気付かないふりをし
ているのか、…忍人の言葉に拗ねたように少し唇を尖らせたものの、照れた様子は見せな
かった。
「…わかった。…別にお風呂に入りたいわけじゃないから、那岐も忍人さんも別に急いで
上がったりしないで。…ただ少し、一緒にいたいだけなの。……ね、だからもう少しだけ
ここにいていい?」
千尋が那岐と忍人を等分に見てから、ねだるように手を合わせたので、二人は顔を見合わ
せて苦笑した。忍人に目で促され、代表して那岐がいいよと言う。
「その代わり、今からあがるって言ったら目をつぶれよ。恥ずかしいのは千尋だけじゃな
いんだから」
「あ、そっか、だよね。…了解です」
「あ、そっか、かよ…」
くっくっと忍人が笑い出す。ふふふと千尋が、…呆れ声で言った那岐自身もため息混じり
ながら、笑い始める。
明るい笑い声は、湯気と一緒に夜空に立ち上り、消えた。