君がここにいる奇跡

「…ちひろー」
休み時間、隣のクラスに首を突っ込んだ。中学のクラスメートたちの間では「同じ家に暮
らしているいとこ同士」ということになっている千尋は、なあに、と身軽に立ってきた。
「今日、市の図書館に寄って帰るから、先に帰ってよ」
「いいけど、…一緒に寄り道してもいいよ?」
千尋は、一人で帰ることをいやがる。…それはイコール、家で一人になるからだ。風早は
大学の空き時間は全部予備校のバイトにあてているから帰りが遅い。忍人も、高校で剣道
部に入っているからたいていの曜日は帰りが遅い。…だから、僕と一緒に帰らないと、千
尋は一人になる。
千尋が一人を嫌うのは、記憶がないからだと思う。僕や忍人は豊葦原での記憶を持ったま
まこの異世界へ来ているけれど、千尋はあちらのことをすっかり忘れてしまっている。
風早は、世界を飛び越えた影響かもしれませんね、俺も不思議ですけど、とか言ってる。
…もしかしたら、千尋が素直にこの世界にとけ込めるように、風早が記憶を消してしまっ
たんじゃないかと、那岐はこっそり疑っている。
ともあれ、千尋は、こちらにきた一年ほど前からの記憶しかない。それ以前の記憶は、一
応おぼろげながらあるがひどくあいまいなものでしかないようだ。
ということはだ。一人でいるときに、思い出すことがこの一年間の出来事くらいしかない
ということで。その全てを思い出しきってしまったら、…ものすごい空白というか、喪失
感のようなものに襲われるんじゃないだろうか。
…そう考えると、千尋が一人をいやがる気持ちはわかる気がする。わかる気がするという
か、自分がそういう状態になったらと思うと耐えられない。
だから、なるべく千尋を一人にしたくはないけど。
「総合学習で市の歴史についてレポート書くことになっててさ。同じ班の何人かで調べに
行くんだ。…千尋、ついてきてもいいけど、…手持ちぶさただと思うし」
…それにたぶん、用もないのに何でついてくるんだって、いぶかしがられる。
後半は言わなかったけど、千尋は少し察したらしい。
彼女は、周りに受け入れられないことをひどく恐れる。これは、ないはずの過去の記憶に
由来しているんじゃないかと思う。…千尋はお姫様で、本当ならみんなにかしづかれて幸
せに暮らしていたはずだけど、どうやらそうではなかったらしい。だから、周りと違って
るとか、おかしいとか思われることをひどく怖がる。
「…わかった。先に帰ってるね。…そうだ、私今日はご飯当番だった。作らなきゃ」
「きのこがいい」
「昨日那岐の当番できのこだったじゃない。…今日は何か別の料理」
笑いながら、かすかに睨むように千尋が僕を見る。…僕は、その後の彼女の笑顔を確かめ
てから、じゃあ、と手を振った。

市の図書館は、学生の自習室と一般の閲覧室が分けられている。このあたりは学校が多い
から、油断すると学生が全ての席を占領してしまうからだろう。幸い今日は試験期間から
外れているからか、自習室は比較的空いていた。
場所を確保して、まずは資料を集めてくることになったが、かばんだけ置き去りにするの
も無用心だ、と一人が言い出した。貴重品や携帯もある。一人くらい荷物番に残そうとい
う話になって、…皆が一斉に僕を見た。
「……何」
「葦原、お前、荷物番」
班長に断言される。僕の面倒くさがりは筋金入りだ。資料を探させるより荷物番の方が適
任だとみんなが思ったのだろう。僕も片手を挙げて了承してみせ、ばらばらと館内へ散っ
ていく仲間を見送った。
眠いけど、…さすがに寝てしまっては荷物番の役目を果たしたことにはならない。
僕はとりあえずレポート用紙を取り出して、おおまかなレポートの流れを書き始めた。皆
が帰ってきて、だらだらと「さあどうする?」と相談するより、さっとこれを見せて役割
を分担したほうが話がはかどる。……料理をするから手持ちぶさたじではないだろうけど、
あまり千尋を一人家で待たせたくはなかった。
大項目をいくつか書き付けたときだ。
「…那岐?」
名前を呼ばれて顔を上げる。班の誰かが帰ってきたのかと思ったが、ちがった。
二つ三つ向こうの机のそばに、見知った顔が立っている。
「…忍人」
忍人の傍らには彼と同じ制服を着た少年が立っていた。忍人は何事かを彼に告げ、足早に
こちらへやってくる。
「一人か?…千尋は?」
「クラスのみんなとレポートの資料集め。千尋はクラスが違うんだ。たぶんもう帰って、
夕飯の支度をしてると思う」
忍人は軽く眉を寄せた。彼ももちろん、一人をいやがる千尋の癖は知っている。
「わかった、俺が帰る」
「いいよ、僕だってすぐ終わる」
「那岐は今来たところだろう?俺は少し前からいたんだ。それに元々俺の用事じゃない」
言って彼はすぐに背を返し、同級生とおぼしき少年のところへ戻った。いつもの無表情で
何事かを彼に説明しているようだ。おそらく彼の勉強のつきあいで図書館に来ていたのだ
ろう。もしかしたら彼に勉強を教えていたのかもしれない。なぜなら、突然その少年が「え
え?」と大きな声を上げたからだ。
自習室のあちらこちらからしぃーっ、という声が上がり、彼は慌てて口を塞いだ。その仕
草を見た忍人の顔を見て、僕は少しどきりとした。
あの、笑顔だ。
ふわりと優しい、なだめるような。…僕のとても好きな顔。
胸のどこかが、ちりりと灼けた。
一悶着が収まって、忍人が鞄を手に僕のところにもう一度戻ってくる。
「先に戻る」
「…うん」
「…那岐?」
不機嫌に気付かれたのかもしれない。忍人が、少し眉をひそめた。
「なんでもないよ。…早く帰れよ」
わざと少し乱暴に言うと、忍人はほんの少し寂しそうな顔をしたような気がした。…もち
ろん、僕の単なる思いこみだろうけれど。
じゃあ、という声が頭の上を通りすぎるのを、僕はレポート用紙を睨みながら聞いた。
どうやら入口付近ですれ違ったらしい。班の女子が二人、ぱたぱたと戻ってきて、少しう
わずった声で聞いてきた。
「ねえねえ、葦原くん、あれ誰?」
「従兄弟」
ぼそりと答える。もう一人の女子が、
「確か葦原くんて、学校に通いやすいようにこっちで従兄弟と一緒に下宿してるんだよね?
その人?」
めんどくさい、と思いながらも、とりあえずうなずいて応じる。彼女たちはこっそり(図
書室だから)きゃー、と歓声を上げた。
「じゃあ、葦原さんとも一緒に住んでるんだ」
「いいよね、葦原さん。葦原くんだけでもうらやましいのに、あんな素敵な人も一緒かあ」
小声で話しているつもりなのだろうが、興奮してうわずった声ではあまりひそひそ声には
ならない。僕はなんとなくむっとしたままその会話を聞いていたがふと思う。
…僕は、忍人のことをずっと、外から見れば取っつきにくく見えるような気がしていた。
無表情で無愛想で、黙って立っていればどちらかといえば近寄りにくく見えるだろうと。
だが、一緒に来ていた同級生の反応といい、彼女らの反応といい、…もしかしたら、そん
なに取っつきにくいわけではないのではないか。
そう思った瞬間、僕の心をよぎった感情を、…何と名付ければいいのだろう。
考えたくなくて、僕は無理矢理愛想のいい顔を作り、まだ忍人の話をこそこそしているク
ラスメートたちに、レポートの内容について相談を始めた。

作業を急いだが、僕が図書館を出る頃にはもう、夕日が西の空に沈み始めていた。
忍人に先に帰ってもらってよかった、と、これは素直に思う。
今日の夕焼けが、とてもきれいで、ひどく赤かったから。
千尋は夕焼けを嫌う。怖いのだそうだ。見ると不安になる、と言う。大切なことを何か忘
れているような気持ちになると。
確かに彼女は忘れている。ここに来る前のことを全て。その記憶が何故夕焼けに結びつく
かも、なぜ忘れているような気持ちになることが怖いのかも、僕にはよくわからないけれ
ど、彼女がとても怖がるから、夕方はなるべくそばにいてやりたい。
角を曲がると家が見える。窓に灯りがともっている。なんとなくほっとして、僕は急ぎ足
で玄関に飛び込んだ。
「「お帰り」」
玄関の音に応じて台所から投げかけられた声は二重唱だった。千尋と忍人だ。
台所を覗くと、千尋は味噌汁の味見をしていて、忍人はなぜだかのんびりリンゴをむいて
いる。
…はっきり言って忍人は、料理という仕事にはおっそろしく不向きだったが、刃物の扱い
だけは上手い。生の魚をさばかせるとか、芋の皮をむいてもらうとか、味付けや火加減が
必要ないジャンルの料理は安心して任せられる。…おそらく彼が今、急ぐ必要もなさそう
なデザートのリンゴをむいているのはたぶん、何か手伝わねばとおろおろしたあげく、千
尋にこれをしてくれと言いつけられたからなのだろう。……千尋としては、他のお手伝い
はご遠慮願いたかったに違いない。
そのまま台所に入り込んで、忍人の前の椅子にぽんと座ると、千尋がちらりと僕を見て口
をとがらせた。
「もうすぐ出来るから、手を洗ってきてね、那岐」
妙に母親ぶった言い方に僕がむっとすると、忍人が苦笑をこらえるように口元に手の甲を
当てるのが目に入った。
鞄は置いたまま、不承不承僕は立ち上がり、洗面所へ向かう。台所では千尋が、お椀お椀、
お茶碗お茶碗、と騒いでいる。ちらりと振り返ると、忍人が言われるがまま、水屋から食
器を取り出していた。ホームドラマのように穏やかな光景。
不思議だった。
今日図書館で感じた焦燥が、まったく浮かんでこない。
忍人が千尋に笑いかけても、ちっともむかむかしない。むしろほほえましくて口元がほこ
ろぶ。彼が友達に笑いかけたときは、胸がちりちり痛かったのに。忍人を見たクラスメー
トの密やかな嬌声を聞いたときは、むかむかするのを押さえて作り笑顔を作るのがやっと
だったのに。
千尋なら、いい。
千尋に忍人が優しくするのは、僕もうれしい。僕も千尋に優しくしたいから。
でも、僕と千尋以外の奴に忍人が優しくするのは厭だ。
………そう考えて、僕ははっとした。
自分でも自分の鈍さに呆れてしまう。
何のことはない、これは嫉妬だ。
………僕は、忍人を僕らだけのものにしておきたいんだ。

その晩。
風早は例によって帰りが遅かったが、ようやく帰ってきて今もそもそと千尋の作った晩ご
飯を食べている。わかめと豆腐の味噌汁と、干物の焼いたのと、小松菜の煮浸し。デザー
トは忍人のむいたリンゴ。洗い物はしておきますから先に寝てください、とにっこり台所
を追い出された僕たちは、お休みを言い合ってそれぞれの部屋に引き取った。
僕がもそもそと布団に潜り込んでいると、忍人がはしごの2段目に足をかけてふわりと上
の段に上った。もそもそと身じろいで布団に潜り込む気配がして、ひたりとおさまる。
そのまま寝る態勢にはいるのかと思ったら、ややあって、とんとん、と遠慮がちに側板を
たたく音がした。話をしたいときの、忍人からの合図だ。
僕は応じて、とん、とベッドの板を蹴る。
「…何」
「………」
きっかけは投げたものの、忍人はひどくためらう気配だった。
「…今日」
そう言ってまた言葉を切る。…だが、その一言で忍人が何を言いたいのか、おおよそはつ
かめた。
今日僕が図書館で少し不機嫌だったことに気付いているのだろう。
言いたいことはわかったが、自分では余り蒸し返されたくはない。だからわざと気付かな
いふりでもう一度、何、と聞いてやった。
忍人はいかにも不承不承という声で、
「…図書館で、何か気に障ることをしただろうか」
意外とストレートに聞いてきた。
「…別に、何も」
「……だが、…不機嫌そうだった」
ぼそぼそと忍人は呟く。僕は一度目を閉じて、考え込んだ。正直に言うべきだろうか。あ
のときの自分の気持ちを。嫉妬に灼かれた醜い僕を。
言わずにやりすごすことも出来そうだった。……だが、僕はそれを選択したくなかった。
忍人にはありのまま何もかもさらけ出したかった。僕にとって彼は大切な友達だから。
だから、言った。
「…忍人は別に何もしてない。ただ僕が焼き餅をやいただけ」
「……やきもち?」
ぽかんとした声で忍人はオウム返しに繰り返した。
「そう。……忍人が僕のクラスメートにきゃーきゃー言われてたり、忍人の友達に忍人が
優しく笑いかけてたり、……そういうの全部に、焼き餅やいた」
「・・・・・・」
忍人はしばらく僕の言葉に考え込む様子だった。…僕は少し忍人の反応を待ったけれど、
待てなくて、白状したついでにもう全てをはき出すことにした。
「正直、僕のクラスメートの反応なんかどうでもいい。……僕は、…忍人が友達にあの笑
顔を向けたことがショックだったんだ」
「…どの?」
その馬鹿正直な問いがいかにも忍人らしくて、僕はつい笑ってしまった。
「那岐」
笑う僕をたしなめるように、忍人がひそやかに僕の名を呼ぶ。僕は笑いを引っ込め、…言
葉を探しながら話し始める。
「どのって言われても困るけど。忍人はいつも、僕ら以外に対しては慇懃無礼というか当
たり障りのない穏やかな顔をしているか、…いっそ無表情でいることもあるのに、…彼に
は笑いかけるんだと、そう思って」
僕は言葉に一瞬詰まった。
「…忍人は、僕以外にもちゃんと親友がいるのかと、…そう思ったら、さびしかった」
「那岐」
さっきよりも少し強い声で、忍人は僕の名をまた呼んだ。
「……彼は確かにいい漢だ。…だが、親友じゃない」
静かに、だがきっぱりと忍人はそう言い切る。
「俺は、俺の持つ秘密を、彼と共有することは出来ない。だから、彼とは本当の友人には
なり得ない」
僕はその言い方に少しむっとした。
「秘密を共有できる相手なんて、この世界には僕しかいないじゃないか」
「…そんなことはない、と思う。…その相手を心から信頼できれば、たとえこの世界の人
間であっても俺は、秘密を打ち明けることが出来ると思う。…打ち明けないまでも、もし
ものときには打ち明けられると信頼できると思う。……だが、残念ながら、彼は違う」
それとも、と言って、忍人は少し寂しそうにつけくわえた。
「……那岐は、この世界に共に来たのが俺だから、俺と友達になってくれたんだろうか」
「そんなこと…!」
思わず声が高くなりそうになって、僕は慌てて飲み込んだ。隣の部屋では千尋が寝ている
はずだ。うっかり起こさなかっただろうか。ベッドはお互い反対の壁に寄せているので、
壁伝いに響くことはないはずだが。
「…俺は、那岐のことを信じている。千尋に言えないことも、風早に言えないことも、君
には言える。君にだけは心の全てを、鬱屈も醜い自分も全て、さらけ出せると信じる」
心を許しあえるから、友達なんだろう。
静かに付け加えられた一言に、がつんと頭を殴られたような気になった。
「……うん」
少ししょげた声で僕がつぶやくと、もそ、と上の段で忍人が起き上がる気配がした。それ
から、音も立てずにふわりと降りてきて、苦笑気味の笑顔が、僕をのぞき込む。
「…何をしょげてる?」
「……」
僕も起き上がって、でも背中を丸めた。
「…わかんない」
わかんないけど、…なんとなく、忍人にごめんって気持ちなんだ。
忍人の顔を見ずに、でも正直にそう言うと、彼はふと息だけで笑って優しい声で語りはじ
めた。
「君が謝ることは何もない。君は、自分の嫉妬を隠さずに正直に俺に言ってくれた。君は
自分を飾らない。いつだってひどく正直で、…そして俺を信じてくれる。君のそういうと
ころが俺は好きで、…だから友達でいたいと常に思う。君なら信じられると思う」
君を、誰よりも信じている。
その言葉は、じわり、と僕の中に落ちてきた。カイロみたいだ。ほんのりうれしい、熱す
ぎない熱。こわばったものをゆっくりとろかす熱。
忍人の言葉はいつもまっすぐで的確だ。僕の芯のところをすっと指さすような。突き刺す
のではなく、柔らかな指で指し示す。その優しい真摯さが、僕は好きだ。
僕は顔を上げて忍人を見た。
「…ありがとう、忍人」
忍人のように、自分が思ってることを伝えられればいいのに、と思う。どうして僕が忍人
を好きかとか、僕が忍人の何に救われているかとか。…けれど、照れくさくてどうしても
言えない。口がむずむずするけど、言葉は出てこない。
だから。代わりに僕は、その夜の海のような色の瞳をのぞき込んでぎこちなく笑ってみせ
た。そしてもう一度繰り返す。
「………本当にありがとう。…友達でいたいって言ってくれて、うれしいよ」
今の僕の精一杯をぼそぼそと口にしてぎこちなく笑う。…と、彼は少しまぶしそうな照れ
くさそうな、でもほっとした顔になった。
「…ああ」
うなずいてから、改めて自分の言ったことを思い返したようで、忍人は突然かーっと耳ま
で赤くなる。
「…」
赤くなられると、なんだかこっちもつられるじゃないか。
…耳が熱い。たぶん僕の耳も赤いんだろう。中学生日記か、これは。
いてもたってもいられなくなって、僕はばふんとベッドに転がり、頭まで布団をかぶった。
「…すっきりした。もう大丈夫。……お休み」
布団越しにもじもじ言うと、
「…うん。…じゃあ、お休み」
忍人もなんだかぼそぼそと答えて、先ほどの軽やかさはどこへやら、のたのたと上の段の
寝台に戻る。布団に潜り込むごそりという音。
僕は思い立って、とん、とベッドを蹴ってみた。
とんとん、と応じる音。
今度は、話をはじめようという合図ではなく、お休みなさいのしるし。
ちゃんと忍人に伝わってる証拠に、合図の後に落ちてきた沈黙は気まずくなく、やがて上
の段からは穏やかな呼吸音が聞こえはじめる。
伝えなくても通じる心地よさに僕はしばしひたった。

忍人。
君がここにいてくれた奇跡を、僕は誰に感謝すればいい?