君の名を呼ぶ 「のみこみが早いな、榊は。…初心者とは思えない」 弓を置いて、しみじみと律が言った。ヴィオラを下ろして軽く肩を回しながら、 「ギターをずっとやってたからかな」 大地が軽口を叩くと、 「ギターとヴィオラはかなり違うと思うが」 大真面目に律は返してきた。思わず吹き出しそうになってこらえる。 楽器に対する勘がいい、とは、最初にヴァイオリンを教えてくれた同級生達にも言われた ことだった。もっとも大地は、楽器に限らず、たいていのことに関しては要領がいい自信 がある。 だからむしろ、 「そっちこそ、ヴァイオリンだけじゃなくてヴィオラやチェロもこなせるんだな」 真面目で堅物、かなり要領が悪そうな律が、さらりとなんでもひきこなしてみせることの 方が彼には驚きだった。ヴァイオリンを教えてくれた音楽科の女の子達は、ヴィオラはち ょっと、と、そろって二の足を踏んだのに。 「音をだせるだけだ。ヴィオラはヴァイオリンに近いし」 「音を出せるだけじゃあ、初心者には教えられないだろう。…俺ののみこみが早いとした ら、教師がいいんだよ。…な、如月先生?」 「…」 笑いかけると、律は少々面はゆそうな顔をして黙り込んでしまった。 友人が困ると口をつぐむ癖があることは、大地もそろそろ承知している。あまり気にも留 めずに、ヴィオラをケースにしまいながら「さ、帰ろうぜ」と声をかけた。 「何か腹に入れて帰らないか。個人レッスンの礼に今日は俺がおごるよ、如月」 「……」 …応答がない。 「…おい?」 大地は慌てて振り返った。 律が、何か言いたげにじっと大地を見ている。 「…如月?」 「…」 促すと、ようやく意を決した様子で、彼はぽつりとつぶやいた。 「律と呼んでくれないか」 「…?」 「…田舎の友達は、みんなそう呼ぶ。一つ違いの弟がいて、名字で呼ばれると紛らわしか ったんだ。……そのせいかな、友達に名字で呼ばれるのが、どうにも慣れなくて」 「……」 大地は息を吸った。…胸の鼓動が一つ跳ねたことには、気付かないふりをした。 「……律」 そっと声に出すと、ふわりと彼は笑った。 ………反則だ。 普段、自身が驚くほど上手に曲を弾きこなしたときでさえ、まだもっと出来るはずだとい う顔をして笑ってみせることはないのに、こんな時だけ、そんなに無防備に笑うなんて。 「…じゃあ、俺のことも大地って呼んでくれよ」 「…ああ、そうしよう。…大地」 確かめるように一言呼ばれた名は、いつも聞き慣れた三つの音の組み合わせのはずなのに、 なぜかまるでちがう響きを持って聞こえた。 強く、甘く。鼓膜を震わせ心に染みる。 「…もう、帰ろう」 かすかな動揺を気取られまいと、わざと物音をたてて帰る支度をしながら大地は、胸にわ き上がる熱をようやくに自覚し始めていた。