君の隣で見る夢は


帰りたくないのだと律は言った。


「去年は帰ったのに?」
部室のテーブルに弁当とパンを並べて食べながら、他愛なく冬休みの予定を互いに披露し
ていたときだった。
単に、今年は何日から実家に帰るのかを確認したかっただけだったのだが、思いがけない
律の暗い顔に、大地は話題をしくじったかと心の中だけで舌打ちした。…もちろん、表面
上はおくびにも出さない。
「…この腕のことを、弟や幼なじみに知られたくない」
眉を寄せて目を伏せる。苦行に耐える修行僧のようだとふと思う。
「……律。いつかは知られることなんだよ」
「わかっている」
ゆるゆるとため息混じりに律は言い返した。
「でも今、…この状態だけは、どうしても」
…確かに、今が一番悪い状態かもしれない。対症療法とはいえ、もう少し注射や投薬を続
ければ、今よりは少し良くなるかもしれないのだが、年末までの短い期間ではそれも難し
いだろう。それを思えば、今回に限っては、すぐに適切な治療の出来る主治医のところに
いた方が、律のためなのかもしれない。
…そう思った瞬間、大地は口を開いていた。
「じゃあ、うちに来ないか?律」
「……?」
唐突な申し出に、律はくるんと目を丸くした。
「どうせ、年末年始はみんな帰省して寮も人気がなくなるし、寮食だってないんだろう?
うちは逆に、いつもはばたばた忙しい両親も仕事抜きでのんびりするから、結構賑やかに
なる。人が多いことが嬉しい人達だから、きっと律を歓迎するよ」
「だが、ご迷惑では」
おずおずとした律の言葉に、半分はその気があると見て、大地はうれしくなった。
「親父は、心配な患者を側で見張れる方が気が休まるタイプだよ。…迷惑なはずがない」
心配な患者、と言われて思わず首をすくめた顔を笑うと、律本人も苦笑を返した。
何の理由もなく帰省しないよりも、友達に誘われたからと言う方が、実家で待つ家族に言
い訳しやすいという気持ちも働いたのだろう。律は、きっぱりと心を決めたようで、まっ
すぐに大地を見た。
「…じゃあ、もし本当にご両親がいいと仰ったら、…お言葉に甘える」


人が増えてもそれが日頃から無口な律では、食卓の雰囲気はそう変わらないかと大地は思
っていたのだが、あにはからんや、普段から人の二倍くらいにぎやかな大地の母が、息子
が一人増えた気分で浮かれたのか、いつもの三〜四倍のいきおいでしゃべり倒した。本人
でさえ記憶にないような子供の頃の失敗談をさんざん披露され、もう勘弁してくれと言う
大地の横で、律は珍しく声を上げて笑う。しまいには笑い疲れたのか、まだ十一時を少し
回ったくらいなのにうつらうつらし始めたので、大晦日としては少し早いかとも思いつつ、
大地は律を連れて寝室に引き上げた。
以前律が泊まっていったときは、急な話だったので大地の部屋に無理矢理二つ布団を敷い
たが、今回は前もって客間に風を通し、そこに布団を並べてあった。寝間着代わりのジャ
ージに着替えた律が、自分の格好と並んで敷かれたぱりっとした布団を見て、修学旅行み
たいだなとつぶやいたので思わず笑う。
「枕投げでもする?」
「いや、もう体力の限界だ。…笑いすぎた」
真正直な律の言葉にげらげら笑って、大地は布団に入って電気を消した。隣の布団で律も
おとなしく横になる。
他愛のない会話をしながら、大地が何かをちらちらと確認していることが気になったらし
い。
「大地?」
律がふと名を呼んだ。
「さっきからちらちら、何を見ているんだ?」
「いや、別に」
「……大地」
念を押すようにゆっくりと言われて、大地は肩をすくめる。
「わかった、言うよ。…時計を見てる。……0時ちょうどに、あけましておめでとうが言
いたくてさ」
ああ、と律がようやく腑に落ちた顔になった。
「もうそんな時間か。…今何分だ?」
「11時57分14秒……15秒」
「……もうすぐだな」
何となく会話が途切れた。ばれたのだからとおおっぴらに腕時計を睨む大地を、律は穏や
かに微笑んで見ている。
59分57秒。…58秒。…59秒。
大地が身構える、その一瞬前。
「…あけましておめでとう」
0時。
「……っ」
不意を突かれて言葉を失った大地に、律は穏やかに笑いかける。
「…律っ」
「ぴったりだったろう?」
「…だったよ」
悔しそうに唇を尖らせて、でもなぜ?と大地は問うた。
「律は時計を見てなかったよな?」
寝るために眼鏡を外している律に、大地の持つ腕時計の盤面が見えたとは思えない。律も
あっさり見てはいないと肯定して。
「ただ、大地がさっき、57分15秒と秒を刻んで時間を教えてくれただろう?だから数
えていた。テンポを正確に計るのは得意だ」
……なるほど。…だがしかし。
「…ずるいよ、律」
大地は拗ねた。一方律は涼しい顔を崩さない。
「大地は0時ちょうどに言いたかったんだろう?俺は、真っ先に、…大地よりも先に、お
めでとうと言いたかった」
いつになく満足げな律の顔を見ていると、大地にはそれ以上何も言えなくなる。
「それより、0時を過ぎたのに大地の口からおめでとうを聞いてない」
「…あ」
くす、と律は笑った。…大地も苦笑いを返す。
「…あけましておめでとう、律。…今年もよろしく」
握手のつもりで伸ばした右手を、律は何故か両手で受け止めた。愛おしそうに、包み込む
ようにそっと触れる。
…っ。
大地の鼓動がずきんと、高く強く跳ねた。律にしてみればただ触れているだけのつもりな
のだろうが、愛しく思う人の指先でそんなふうに慈しみふかく触れられることは、大地に
とって性的な愛撫に等しかった。体の中にじんわりと熱が熾る。そのやるせない熱を押さ
え込もうと大地は躍起になった。
「…律っ…」
少し切羽詰まった声をどう聞いたのか、弾かれたように律ははっと手を離した。熱を何と
か押さえ込み、穏やかに穏やかにと心がけながら大地は律の瞳をのぞき込む。
「握手しようよ」
自分の内にこもる熱に気付かれないように、けれどぶっきらぼうにもならないように。気
遣いながらそっと促す。
律は少し我に返った顔で、ああ、とうなずき、おずおずと大地の手を握りしめる。きゅ、
と握り返してから大地がそっと右手を引っ込めると、律は少し目の縁を赤くして、すまな
い、とつぶやいた。
「……俺はこの手にずいぶんと助けられたんだな、と思ったら、…つい。……不快な思い
をさせただろうか」
「いや、そうじゃないよ。…握手するつもりだったから、少し戸惑っただけ」
「…悪い」
「いいんだ。…俺も少し驚きすぎた」
「…」
「…」
少し気まずい沈黙の後、大地はごほんと咳払いした。
「…もう寝ようか。…明日は初詣も行きたいし、少しだけなら律も弾き初めをしていいと
親父が言ってた。…役不足かもしれないけど、俺のヴィオラと一曲あわせてくれないか」
律は穏やかに目元をほころばせた。
「…もちろん。…喜んで」
「光栄だよ」
「…何がいいかな。何を弾こう?」
「俺の弾けそうな曲を選んでくれよ。…布団の中でゆっくり考えるといい。……じゃあ、
おやすみ」
「…おやすみ」


大地は長く寝付けなかった。それは隣に横たわる律も同様だったのだろう。おやすみと挨
拶をかわして互いに目を閉じてからも、長く身じろぎ続けていたが、少し前からようやく、
穏やかな寝息が聞こえ始めた。
その寝息が安定したのを聞き澄まして、大地はそっと布団の上に身を起こし、じっと律を
見る。
頬にかかる髪を払ってやろうと指先ですくいとったが、…ひいやりとしたなめらかさにた
まらなくなり、指先に絡む髪に情熱的に口づける。
……律。
先刻触れられた指先から、去らない熱。
……律。
まどろむ彼のまつげの淡い影。白くなめらかな額。見るとまた、体の中の埋み火がじんわ
りと息を吹き返しそうで、大地は強く目を閉じ、再び布団に潜り込んだ。
……律、律、律。
心の中だけで、繰り返し繰り返し名前を呼ぶ。
……ゆっくりと心が凪いでいく。重い睡魔がまぶたに宿り、大地が瞳を閉じる瞬間、幻の
ようにその声は振ってきた。
「……大地」
もしや起きたのかと大地ははっと身を固くしたが、寝息は安定して変わらない。
…寝言だろうか。君の夢の中にも、俺はいるのか。声は落ち着いて甘やかだ。きっと穏や
かな夢を見ているのだろう。
「……幸せな夢の中で君と会えるもう一人の俺に、…嫉妬しそうだよ、律」
らちもない、と自らを笑って、大地はもう一度静かに目を閉じた。
夢の中でも愛しい人と会えるよう、強く願いながら。