君へと続く道


「もしもし」
その電話は大晦日の晩、十時少し前にかかってきた。
いつも、電話をかけメールを送るのは自分の方からで、彼からの電話を受けたことなど数
えるほどしかない。だから、正直少しうれしかった、のだけれど。
蓬生はわざと鼻の頭にしわを寄せ、少し不機嫌な声を出してみせた。
「…非常識ちゃう?…年が変わる瞬間の前後はケータイかけたらあかんて、常識やで?」
軽いからかいのつもりだった。…本当は、携帯が制限されるのはもう少し後、日付が変わ
る直前から、変わった後の二時間くらいだ。まだ日付が変わるまでに二時間以上ある今な
ら、別に電話くらい許されるだろう。
が、大地は真面目な声で応じた。
「そうだな。…今日は少し非常識かもしれない」
「…は?」
ぽかんとする蓬生に追い打ちをかけるように、大地はこう続けた。
「今、新神戸に着いたところなんだ」
……!?
のんびりベッドに腰掛けて電話に出ていた蓬生は、思わず音を立てて立ち上がった。
「…今、何て!?……神戸にいるん!?」
電話やメールだけではない。不意打ちで会いに行くのもいつも蓬生の方からだった。大地
も神戸に来たことはあったが、生真面目な彼らしくいつも前もって連絡をくれた。
それが、なぜ。…今日、こんな日に、いきなり。
「何で…?」
呆気にとられ、少し声がかすれる蓬生の耳には、電話の向こう、雑音混じりの大地の声は、
ひどく呑気に聞こえた。
「今年は誕生日に会えなかっただろう?…だからさ」
そうだ。いつも会いに行っていた、年末の大地の誕生日。今年は、もう大学も冬休みに入
っている時期だというのに、先生の都合でどうしても外せない実習がその日に入ってしま
ったのだと、前もって断りの電話が大地からかかってきていた。わざわざ連絡をくれたの
だからと、蓬生も無理には会いに行かなかった。
「もしよかったら、駅まで来てくれないか?…こんな時間に君の家を訪ねるのは非常識だ
ろうし、年越しの日だから一晩中電車も動いてるみたいだ。…初詣にでも行こう」
「…そら、…かまへん、けど」
大地らしくない、と、蓬生はふと思った。
蓬生の誕生日でさえ、千秋や家族と過ごすだろうからと、会う日をずらす彼だった。クリ
スマスや正月のような世間全体が浮かれる記念日を一緒に過ごしたことは今まで一度もな
い。それをこんなふうに不意打ちで。
「…何で、今日なん?」
「どうして?」
いぶかしむ蓬生の前で、大地の声はあくまでのんきで静かだ。
「…正月、やで?…元旦になったら、俺が千秋に呼び出されるやろって、想像せんかった
ん?」
その一言を口にした瞬間に、…蓬生は自分の言葉を悔いた。
電話の向こう、人々のさざめきの声に紛れて、大地が何かを飲み下すような音を出したの
だ。
「…東金が君を呼ぶまででいいよ」
応じる声はあくまで呑気を装っていたが、それまでのどこか高揚した響きとは色を変えて
いた。
「彼からの電話が入れば、そこがタイムリミットだ。俺は、横浜へ帰る。君は東金のとこ
ろへ行けばいい。……それまででいい。…君といたい」
ねだる響きはなかった。静かに、前もって用意していた言葉を告げているだけ、…そんな
気がした。
蓬生は、唇を噛んだ。
大地は、彼らしくない行動で賭けをしたのかもしれない。…自分がそれを受け入れれば、
今までの関係から一歩踏み出す。千秋に律に気を兼ねる今までとは違う、新しい関係へ。
その賭を、自分はあっさりと無にした。…今出さなくてもいい名前を口にして、自分の中
にはいつも彼がいるのだと、大地に思い知らせた。
しくじったのは、悪いのは自分だ。けれど、一人で勝手にそんな賭をした大地を、蓬生は
責めずにいられなかった。
「…何でいつも、そんなずるいことばっかり言うん。…何で、千秋放っといて、一緒に自
分とおれって言わんの」
「…困らせたくない」
硬い声が、少し震えた。
「今、もう充分困ってんねんけど」
「…」
大地が電話の向こうで黙り込んだ。…もう一度口を開く、…その寸前に、蓬生ははっと気
付いて急き込むように彼を遮る。
「あかん。…待って、帰らんとって。……そこにおって。…今から行くから。…今すぐ、
会いに行くから」
「……土岐」
「その代わり、千秋から俺に電話が入ったら、一言でいい、行くなって俺に言うて。…優
しい顔して見送られるんはもうたくさんや。……俺をつかまえにきたんやったら、手を放
さんといて」
電話の向こうで、大地が苦く響く声でつぶやく。
「…もし俺がそうしたら、君はどうするんだ」
……。
「…それは、…そのとき考えるわ」
耳をくすぐる千秋の声と、目の前の大地の手。……本当にほしいのはどちらなのか。
「…ずるいのは土岐の方だ」
大地は笑ったようだった。
「………わかった。…このまま改札で待ってるよ。……早くおいで」
「…すぐ行く」
言うが早いか電話を切って、蓬生は慌てて身支度をした。コートを羽織って外に出る。寒
さを確かめるように吐いた息は、はっきりと白かった。
街灯がとぎれとぎれに灯る道を、駅へと走る。新幹線の駅までは、電車を乗り継がねばた
どり着けない。…改札でぽつりと待つ大地を思うと、たまらなかった。
気をそらそうと夜空を見上げると、今日は空気が澄んでいるのか、降るような星だった。
オリオン、シリウス。…顔を北に向けると北斗七星。そのひしゃくをたどれば、北極星が
またたく。
星に導かれるように、道を急ぐ。…耳に懐かしい声が繰り返し繰り返し、早くおいでと誘
っている。
そのとき、マナーモードにしてコートのポケットにつっこんできた携帯が震え始めた。手
にとってちらりとサブウィンドウを見て、蓬生はかすか身を固くする。
…千秋の名前だった。
「…!」
目をつぶる。振動に気付かぬふりで、携帯をもう一度コートのポケットにつっこむ。…電
話は長く震えていたが、二つめの交差点で振動は止まった。
……っ。
正直、このたった一つの電話だけで、全てを思い切れたわけではない。こんな日付だ。お
そらくまだ何回かはかかってくるだろうし、そのたびに自分は迷うだろう。
蓬生にとって千秋の存在はあまりに大きく、その眼差しを思うだけで、今も心は強く惹か
れる。……けれど。
今はただ、大地に会いたかった。千秋の声に耳を塞いででも、大地に会いたかった。


道は続く。声が呼ぶ方へ。彼が佇む、その場所へ。