君に嘘をついた

コツコツと硬い音がして、律ははっと顔を上げた。
大地が手の甲を机に当てて、傍らに立っている。律の視線を受け止めると、ふわりと笑っ
た。
「ずいぶん集中してたね。何回か声はかけたんだよ。…譜読み?」
のぞき込んでくる大地に手元の楽譜の表題を見せながら、答える。
「まあそんなものかな。…文化祭のコンサートの最後の一曲を選んでる」
「…ああ、三年の引退演奏の曲目が決まってから、バランスを見て考えるって言ってたあ
れ?三年の曲が決まったのかい?」
大地が首をすくめるのは、議論が紛糾していたのを知っているからだ。印象派がいいと主
張するグループと、バロックがいいと言い張るグループとで話がずっと平行線のままなか
なか決着しなかった。
「もめにもめたようだが、結局モーツァルトの四十番にしたらしい。第一楽章」
「オーソドックスだね」
別に悪いって意味じゃないよ、と大地は慌ててつけくわえた。
「つまり、印象派にしてもバロックにしてももめるから、どっちでもない曲を選択したと」
「そういうことらしいな。…ともあれ大地の言うとおりオーソドックスな曲選択になった
から、こっちの曲は少し毛色が変わっている方がいいかもしれない」
「…ああ、それでガーシュウィン」
律が広げていた楽譜を手に取り、曲名と作曲者を確認しながら、大地がゆっくりとうなず
いた。
「ガーシュウィンなら、サマータイムが好きだな」
一人言のようなつぶやきに、律は思わず微笑む。
「…何だい?」
気配を感じたのか、大地が不思議そうに振り返った。
「…実は、最初はサマータイムの譜を読んでいたんだ。…大地が好きそうだなと思って」
そっと添えられた一言に、大地の顔がへたりとゆるむ。うれしそうに眼を細めるその顔が、
大型犬みたいでかわいいなと、こっそり律は思う。
「…だが、残念ながら、コンサートは十一月下旬で晩秋だ。サマータイムという曲の雰囲
気は良くても、タイトル的には」
「うん、確かに季節外れだ」
目を見交わし、二人でくすりと笑う。
「…で、これか。…プレリュードの二番?……うーん、知らないなあ」
「ガーシュウィンの三つの前奏曲の中では、比較的有名な曲だ。ガーシュウィンの曲をセ
レクトしたCDにもよく入っている。雰囲気も、モーツァルトの華麗さとはかなり印象が
違うし、おもしろいと思うんだ。…まあ、ガーシュウィンにこだわらず、もう少し他にも
曲をあたってみるつもりだが」
ふと、頬をゆるめていた大地が真顔になった。
「…何だ?」
「…いや、…熱心だなと思って。…まあ、律の新部長としての初仕事だし、力が入るのは
わかるよ。…けど」
そこで少し言い淀む。
「…忘れてないよな?」
「…?」
言われた律は少しぽかんとした。唐突な言葉で、つながりがわからない。
「…いきなりそう言われても」
律の反応に、大地はああ、と頭をかいて。
「ごめん、言葉足らずだった。…つまりその、…俺と約束したこと、忘れてないよなって、
…そういうこと」
すっと、律も真顔になった。
「…手首のねんざが完治するまでは」
ゆっくりとつぶやく大地の語尾に、律の声が重なる。
「「…ヴァイオリンには、触れない」」


それは、ねんざの治療を終えた大地の父がまず、律に言いつけたことだった。
「…君がとても練習熱心だということは、息子から聞いているよ、如月くん」
大地によく似た、落ち着いているのにどこか磊落な声で、大地の父は言った。
「そんな君に、ヴァイオリンに触れるなと言うのは酷かもしれない。だが、そんな君だか
らこそ、言うんだ。私が、『完治した、もうこれからは存分に弾いてかまわない』と言う
まで、ヴァイオリンは休みなさい。触れてはいけない。触れればたぶん、君のようなプレ
イヤーは五分や十分では終われなくなるだろう。…だから、最初から手を触れないこと。
……いいね」
顔はさほど大地には似ていない。けれどその強い目の光は確かに、親子のそれだった。
「少しだけだ。少しだけ我慢すれば、また好きなだけ弾けるようになる」
「…」
静かに頷き、律は処置室を出た。
処置室に入らず、待合室で律の治療を待っていた大地がすっと腰を浮かせる。
「…終わったのか?」
「ああ」
「…寮まで送っていくよ」
会計を済ませた律の荷物を持って、先に病院の玄関を出た大地は、門をくぐって立ち止ま
り、まるで処置室での二人の会話を聞いていたかのようにこうつぶやいた。
「…約束してくれ、律。…親父が完治したって宣言するまでは、絶対ヴァイオリンにさわ
らないって」
一瞬耳を疑い、律はまじまじと大地を見た。
「…何?」
不思議そうな大地に、低く問う。
「聞いてたのか?」
律のその言葉に、大地はくっと笑った。
「…やっぱり親父も同じことを言ったか」
病院から寮への坂道をゆるゆると歩きながら、律みたいなタイプが一番危ないんだ、と大
地は言った。
「練習好きで、真面目な努力家。おまけに妙な決断力がある。…そういうタイプは待つこ
とに焦れて、もういいだろうって、見切り発車で練習を再開してしまったりする。…でも、
ねんざのように癖になる怪我には、そういう見切り発車が一番良くない。完全に治さない
と、同じところで簡単にまた再発する。一度壊れたところはもろくなるからね」
「…」
「…っ、ごめん、脅しすぎた」
大地は律の表情を見て、思わず自分の口をふさいだ。
「…そんなに青い顔をしないでくれ。だからこそ、完全に治すことが大事なんだって、言
いたいだけなんだ。焦らずじっくり治そう。……だから」
大地が足を止める。律もつられて立ち止まった。何故足を止めるのかと首をかしげる律の
肩をつかみ、大地は真摯な、どこかひやりとするほど真面目な顔で言った。
「約束してくれ。…完治するまでヴァイオリンにはさわらないって。…頼む」
気圧されるほどの眼差し。つかまれた肩が熱く重い。その必死さにつりこまれるように、
律はゆっくりとうなずいた。
「…わかった。約束する。…治るまで、ヴァイオリンはさわらない」
「絶対に絶対だよ」
子供のような念押しのしかたに、律はたまらず吹き出した。笑いごとじゃないんだよと言
いながらも、大地も苦笑している。その温かい手が、包帯に包まれた律の手をそっといた
わるように撫でてくれたことを、昨日のように律は覚えている。
……そう。……約束を、忘れたわけではなかった。


「約束、守ってるよな?」
律は目を伏せて、口元だけで笑う。
「疑り深いな、大地。…だからこうして、学校にもヴァイオリンを持たずに来ているんだ
ろう?」
律は両手を広げてみせた。傍らに置かれているのは、教科書やノートの入ったかばんだけ
だ。それを見ながら、そう、…そうだよな、と自分に言い聞かせるように大地はつぶやく。
「…疑り深くてごめん」
「…いや。大地が俺を心配して言ってくれてるのはわかってるから」
律は穏やかに大地に笑いかけながら、重い痛みが胸にのしかかってくることに気付かない
ふりをした。
…俺は、…君に嘘をついた。


その日、学校から寮に戻った律は、あるものを持ってすぐにまた寮を出た。向かうのは駅
前の商店街だ。雑然としたビルの一階と地階に、目的の場所はある。
借りた鍵でドアを開け、電気をつける。ぼんやりと灯る蛍光灯を見上げ、律は小さく息を
吐いた。
少し黄ばみがかった防音壁、片隅に置かれたアップライトピアノ。扉を閉じてしまえば、
目の前の廊下の音さえも聞こえない。
星奏の生徒がよく利用する駅前の貸しスタジオの一室だった。ここはその安さから結構人
気があって、当日では部屋が取れないことも多いので、前もって予約しておく習慣にして
いる。先刻大地とあんな話をしたばかりでここを利用するのは、さすがに後ろめたかった
が、せっかく取れた予約を無駄にするのももったいない。
急いでヴァイオリンのケースを開け、準備しようとしたときだった。
不意にスタジオの扉が開いた。
「……!?」
使用中だと抗議しようとして、唇が凍り付く。
…大地が、立っていた。
静かに、大きく、…ひどく無表情で、なのに背後に氷の炎が見えるようだ。怒りのような、
悲しみのような。……いや、落胆か、…あるいは、強い強い痛み。
「…俺に、嘘をついたね、律」
後ろ手に扉を閉めて、大地はゆっくりと一歩近づく。動けない律に向かって。
「いいと言われるまでヴァイオリンにはさわらないって、約束したのに」
どうして。
低い声は明らかに、疑問ではなく糾弾だった。どうしてと問うておいて、大地は、律の答
えを聞く気はないと言うかのように、首を横に振っている。
「律のことだから、治るのが待ちきれないだろうとは思った。…でも、だから、…あんな
にしつこく念押ししたのに」
大地は唇をかんでいる。その悔しさは何故か、律ではなく大地自身に向けられているよう
だ。ぎり、と握りしめた手の平にととのえた爪が食い込むのを見て、律は肩をふるわせる。
「…教えてくれ、律」
深くうつむき、震える声で大地はつぶやく。
「俺の存在は、お前にとってどれほどちっぽけだ。…俺との約束は、お前にとってそんな
に、取るに足りないものなのか」
「ちがっ……!」
悲鳴のように叫びかけて、…しかし今この状況ではそれを否定する材料が何もないことに
気付いて、律は愕然とした。
大地との約束を破ることへの躊躇も、破った後での後ろめたさも、何の言い訳にもなりは
しない。自分は確かに大地との約束を破り、まだその上に、嘘までついたのだ。
……ただヴァイオリンを弾きたい、その一心で。
この裏切りに、言い訳は出来ない。大切な友が自分に呆れ、離れていっても仕方がないこ
とをしてしまった。
するすると妙に背筋が寒い。空調が効きにくくて暑いほどの部屋の中で、律はぶるりと震
えた。
立ちつくす律を、ゆっくりと顔を上げた大地が見た。その眉間に深く刻まれたしわと、青
ざめた顔色に、絶望に似た諦観がある。
「……大地」
ようやく律の喉から声が出た。
「…軽蔑、するか。……約束を守れず、嘘をついて、…お前を裏切った」
「……」
大地は深く息を吐いて、ゆっくりと、首を横に振った。
「…律。…大切なのは、俺がお前を軽蔑するかとかいう問題じゃない。……本当に大事な
ことは、…お前の嘘が、お前の音を、…お前の一番大切なものを、変えてしまったかもし
れないということなんだ」
俺は、そのことが怖い。
低く低く、うなるように、大地は言った。
「俺は、お前…、お前の音が、好きだ。その音に、瑕をつけたくなかった」
頼む律。
不意にがばと律の両腕をつかみ、どこかせっぱ詰まった声で大地は言った。
「きっとまだ間に合う。今度こそ本当にやめてくれ。あと少し、…あと少ししたらきっと
治るから、そしたら思う存分弾けばいい。だからどうかそれまで」
「…大地」
腕をつかまれたまま、律はぽすんと大地の胸に額を預けた。泣きそうな顔を、そうして隠
す。
「……もう一度、…信じてくれるのか」
大地の胸が深い呼吸で大きく上下した。鼓動が少し早くなったが、返る声は落ち着いてい
る。
「……律が俺のこと、友達だと思ってくれているなら、……同じ嘘を二度はつかない。…
…信じるよ」
……ああ。
律は、自分の肺が思う存分息を吸うのを感じる。…申し訳なさよりも、安堵が勝った。
「…約束、する」
かすれる声でそっとつぶやく。
「今度こそ、約束する。…だから」
…俺のこと、嫌いにならないで。
一番言いたい言葉を、言えずに呑み込んで、律はこすりつけるように額を押し当てる。眼
鏡のフレームが大地のシャツのボタンに当たって、カチンと硬質な音を立てた。
…室内は、耳がつんとするほど静かで、それきり大地も律も何も言わないまま、時がさら
さらと過ぎていく。
……お前の嘘は、お前の音を変えてしまったかもしれない。
大地が無意識に口走った一言が、予言のように律の脳裏に何度も何度もよみがえった。


その予言がどれだけ正しかったか、その後律は身を以て思い知ることになった。
今も時折うずくように痛む腕。その痛みを覚えるたび、これが嘘の代償だと、苦い笑いが
律の喉を震わせる。
……けれど。
「…痛むのか」
ひそりとかばうようにいたわってくれる声は、今も傍らにある。
律は薄く笑った。
「…少し」
もう嘘はつかない。…君の前では、決して。
「冷やそうか」
「いい。…このまま」
身を翻そうとした体をそっと、痛まない方の腕で引き留めて。律は眼鏡越しに、上目遣い
で、どこかねだるように眉を寄せた。
「…行くな。…ここにいてくれ。……それだけでいいから」
「……」
大地が短く息を呑んだ。切なそうに目をそらし、気休めに、と冷却シートを取り出す。笑
って首を振ることでそれを制して、律は目を閉じて、大地の右肩にそっと身を預けた。
「…このままが、いい」
…行き場に困ったらしい大地の左手が、…そっと、律の背を抱いた。
変わらずここにある腕。この手をなくさなかったことがせめてもの幸いだと思うから、も
う決して、君に嘘はつかない。
だからどうかここにいて。……ずっとそばに。