君と、笑う。 「しかし俺は何だってこんなところで、土岐と差し向かいで飯を食ってるのかな」 「…何でて」 蒸し春巻を箸でつまんで口に放り込む蓬生は、大地を見もしないで首をすくめた。 「小日向ちゃんは六甲山組と一緒に行ってしもたし、不思議ちゃんは気ぃついたらどっか 消えとったし」 「不思議ちゃん」 大地は吹きそうになった。天宮のことだろう。言い得て妙だ。 「小腹は空くし、やもん。しゃあないやん。……まあ、ここに不思議ちゃんもおって、一 緒に春巻つついてたらちょっとどないやったかなとは思うけど」 「…お通夜みたいになってたんじゃないかなと思うよ、何となく」 大地は想像して頭を抱えた。潤滑油になってくれるかなでがいるならともかく、土岐と天 宮を一人で相手するのはかなりぞっとしない。 ため息をかみ殺し、嫌な想像を頭から追い払って、大地も箸をとった。一口食べて、思わ ず声を上げる。 「あ、うまい」 「せやろ。ここのは絶品。…横浜の人を中華につれてくるんはどないかと思ったけど」 君でもそんな気遣いをするのか、と言いかけて、大地は呑み込んだ。それでなくてもどう せ向こうからそのうち何かけしかけてくるのだ。自分から不穏な空気を作り出すことはな い。 「生春巻きみたいだけど、生春巻きともちがって、…この食感が」 大地が言いかけたとき、携帯が鳴った。メロディでなく電子音で、おそらく初期設定のま まなのだろう。大地のものではない。 蓬生は放置する風情だったが、携帯が鳴りやまないのでようやく眉を上げた。 「あれ、…メールやのうて電話か」 ポケットを探って携帯を取り出す。サブ画面にちらりと視線を走らせ、肩をすくめて電話 に出た。 「ああ、千秋?…出るのが遅い?…あー、ごめん。今食事中やったから。…うん、春巻の とこ」 表情がひどく柔らかくなった。…否、安らいだ。 「はあ?…ずるいて。…せやかて、異人館から近いし、小腹も空いたし。…ええやん、そ っちはそっちで遊んどうやろ?」 大地は頬杖をつく。妬く気にもならない。このほどけ方は恋人に対する態度ではない。 家族だ。しかも、兄弟などではなく、親子のそれだ。飛び出していった子供を玄関で迎え る母親の顔に似ている。 「……」 て、いい加減馬鹿なこと考えてるよな、俺も。 苦笑しつつ、冷めそうな春巻を一つ箸でつまもうとしたときだった。 「は?…榊くん?」 蓬生が電話に向かって自分の名前を呼んだので、大地は手を止めた。 「一緒に飯食うてるけど。…うん、今前におる。……は?……………」 土岐は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になって。 「はははは!」 次の瞬間、爆発するように笑い出した。あまりに唐突だったので、大地は驚いて箸を落と しそうになる。 「あー、まあ、今のところ大丈夫、はは」 何とか笑い収めたが、蓬生の目尻にはまだ涙がにじんでいる。 「あんまり心配せんでいい、て伝えて。うん。ほな後で」 電話は切れたらしい。蓬生はまだ、くっくっと喉を鳴らしている。 「…どうした?」 「いや、千秋から電話やってんけど、榊くんのお姫様が」 意味ありげにそこで一旦間をおかれて、大地は眉を寄せた。 「俺と君が喧嘩しとんちゃうかと、気ぃもんでる、て」 「…へえ。…ひなちゃんにそんなこと心配されるとはね」 …蓬生の目が、光った気がした。 「わかっとうくせに」 「…何が」 目を凝らしたが、今はもう、その瞳に感情は見えない。 「小日向ちゃんのことやったら、榊くんの、なんて所有格はつけへんわ。あの子はみんな のお姫様や。……榊くんだけのお姫様が、他におるやん」 ……律のことを言いたいのだ。わかっている。だが敢えて大地はそれを無視し、冷めかけ た春巻に箸を伸ばした。 「本当に美味いよ、これ」 「……」 蓬生は軽くため息をついたが、それ以上は言わず、さりげなく話題を合わせてくる。 「そういえば、電話の前に何か言いかけとったけど、何言おうとしたん?」 「…えーと」 よく覚えているな、と思いながら、自分が何を言おうとしていたのか、大地は思い出そう と試みる。 ……ああ、そうだ、食感の話をしようとしていたっけ。 「生地が美味いなと言いたかったんだ。食感がもちもちしてて、ちょっと人肌みたいでお もしろい」 蓬生は綺麗な箸使いで春巻をつまもうとしていたが、ふと手を止めた。 「なんか、榊くんが言うとやらしいなあ」 なぜそうなる。 「失礼な」 「それに、ほんまの人肌やったら、もっとひんやりしてさらさらしてるような気がするわ、 俺は」 「……そうかな」 大地は首をかしげた。その顔の前に、頬杖をついた蓬生がずいと身を乗り出してきて。 「試してみる?」 目と目が合う。またどうせ蓬生は自分をからかっているのだろうと大地は思ったが、目の 前の彼は意外なほど穏やかに笑っていた。 まるでその笑顔につり込まれるように、大地はこう答えていた。 「…そのうち」 「…あれ?…含み持たすなあ。榊くんやったら、思いっきり全否定するかと思ったけど」 「何をするかも、その相手も、指定されていないからね」 「なるほど、確かに」 蓬生は頬杖をやめ、身を退いた。逆に今度は大地が頬杖で、まじまじと蓬生の顔を見る。 もし自分が素直にイエスと答えたら、この男はどうするつもりだったのだろう。遊びと割 り切って、肌を交わすつもりだったか、それとも。 「うかうかと長話しとったから、冷めてしもた」 言いながら蓬生が口に春巻を放り込む。 その姿に、仕草に、…気付けば釘付けになっている自分がいる。 「……」 大地は息を吐いた。 ……危ない、危ない。 本気になってはいけない。この勝負は圧倒的に不利だ。 何しろ、切り札を持っているのは蓬生で、大地は勝負にのるかどうかを問われているにす ぎない。そして、勝負にのった時点で大地の負けだ。 思えば最初からそうだった。蓬生が星奏の弱点を大地だと言い切ったあの一件。 あのとき蓬生は大地が側にいることを知って敢えて挑発しているのがわかっていたから、 大地は無視して通り過ぎるつもりでいた。だが、かなでと響也がつりこまれているのを見 て思わず口を出して、しくじった。…あの会話に口を出すイコール自分の負けであること を自分は知っていたのに。 蓬生はきっと、大地が律に抱く鬱屈したものを知っている。…そして恐らく彼自身、東金 に行き止まりの感情を抱いている。存在があまりにも近すぎて、これ以上進めなくなって しまった関係にもがいている。 蓬生の誘いにそのままのれば、傷をなめ合うような関係に落ち込むのは目に見えていた。 …それは嫌だ。 大地はぼんやりと思う。 俺は、律も東金も介在しない、俺とお前の関係を築きたい。 何をどうすればそれがかなうのか、今の大地にはわからない。……けれど、その道筋が見 えるまでは、蓬生と言葉遊びをすることはあっても、彼の誘いには決してのらない。 「榊くん?」 気付くと蓬生が目の前で手をひらひらと振っていた。 「…どないしたん」 「いや、別に」 何気なく笑ってごまかすと、蓬生が眉を上げてきょとんとし、…ふと、つられるように苦 笑した。 おや、と思う。この表情は初めて見る。そういえば、さっきのような爆笑も今日初めて見 た。思い返す横浜での蓬生は、皮肉とけだるさと寂寞ばかりだったのに。 「…そうか」 「何」 つぶやけば、すかさず反応する。笑いかけると、いったい何なのだ、という顔をして、そ れでも仕方なさそうに笑う。 …そうだ。 俺がいて、君がいて、笑う。皮肉も言葉遊びもない。裏をかくこともない。他の誰も介在 しない。あっていいのは音楽だけ。 (…なあ、土岐。俺たちはまずそこからやり直さないか。…もし君が、俺といることを少 しでも楽しみ始めているのなら) 素直に提案すれば、きっとこの男はまず裏を読もうとするだろう。だから口にはしない。 態度だけで示す。 君と、笑う。 ……まずはそこから始めよう。