きみの夢をみてた

はっと目を開くと、そこはいつもの部屋の中だった。ようやく曙光が窓の隙間から差し込
み始めたばかりで、部屋はまだ薄暗い。
那岐は寝台に起き上がって額に手を当て、長い吐息を静かにもらした。
いつもはこんな時間に起きはしない。
けれど、この夢を見た朝は、いつもこうだ。

彼の夢を見た。

夜の闇のような印象がある人だったのに、夢の中の彼はいつも、光あふれる宮の中庭に佇
んで微笑んでいる。ぼんやりしているのにひどくまぶしい春の日差し。微笑む彼は何も言
わない。ただ黙ってそこにいる、それだけの夢。
言葉を交わすことは出来ない。触れあうことも出来ない。けれど彼の姿を、彼の微笑みを
目にするだけで、那岐の中に何かが満ちてくる。それは、喜びであり、悲しみであり、切
なさや痛みでもあったけれど、決して疎ましいものではなかった。すべての思いはやがて
光に変わり、那岐の中からあふれ出す。そうしていつも、目が覚める。

忍人が逝ってしまって、もう何年がたつのだろう。

千尋は立派に女王として日々を過ごし、国を治めている。当初は若輩の小娘と侮られるこ
ともあった彼女だが、年を重ね、アシュヴィンが治める常世の国とも、夕霧の祖国である
大陸の大国とも、丁々発止と渡り合い手を携えていくうちに、いつしか、臣民達に崇めら
れ威厳ある女王となった。
未だ夫は迎えていない。狭井君は口うるさくいろいろと勧めているようだが、神子は血筋
ではない、必要であれば龍神が選ぶだろうと言ってはばからない。後継者が必要となれば、
ふさわしい人材をちゃんと選び、養い子として披露すればよいのではないかと。
本当は千尋も、女王として血筋を残すことは必要であるとわかっている。それでもどうし
ても夫を迎える気にはなれないのだと、那岐は知っている。那岐だけでなく、あの戦いで
千尋の傍にいた者なら皆、知っている。…本当は、狭井君でさえ知っているのだ。だから
こそ、あの女傑が、本当の意味での無理強いはしきれないでいる。
千尋が愛した人は、忍人ただ一人だった。
忍人が永い眠りについたときに、千尋の人を恋い慕う心も一緒に眠りについてしまったの
だ。

那岐は、そんな千尋の補佐として日々を過ごしている。
本来ならば、そういう前に出ねばならない仕事は御免蒙りたいところだが、忍人を失った
だけでなく、風早と柊が宮から姿を消して、肩を落とし消沈する千尋の姿を見ては、逃げ
てもいられなかった。
幸いなことにと言うべきか、間の悪いことにと言うべきか、那岐は諸事を捌く才能にどう
やら長けていた。千尋の元に集まる、千尋が差配するほどでもないがそれなりに重要な仕
事を捌いているうちに、いつしか那岐は千尋の片腕と見なされるようになり、彼自身が判
断する物事も増えてきた。
そういう自分に任された大切なことを判断するとき、時折那岐は考える。
忍人だったら、どう判断するだろう、と。
不思議だった。
共に過ごしたのは一年足らずだ。判断の物差しに出来る人間は他にもいるのだが、大事な
ことを考えるときはいつも忍人を思い出す。
…彼ならどう考えたろう。
彼がもし今ここにいたら、どうしたろう。

岩長姫がいみじくもぽつりともらしたことがあった。
「あんたが人に指示を出す声を聞くと、…なぜだか時々忍人を思い出すよ」
那岐ははっとして、…はっとしたことをごまかすように、笑いながらくだけた声で言った。
「…無茶苦茶言うなあ。僕のどこがあの堅物と似てるって?」
岩長姫はまぶしいものを見るかのように少し目をすがめて笑って、ああそうだね、と言っ
た。
「…見た目も声も、本当はちっとも似てやしないんだがね。…だけど、…なんでかねえ。
本当に時々、…時々なんだけど、あんたの姿に忍人を思い出すんだよ」
年寄りの繰り言だよ、気になさんな。
そう言って、それきり二度と岩長姫はその話題を持ち出さなかったけれど、那岐の中には
その会話が深く沈んだ。

本人に告げる機会はなかったし、もし機会があったとしても決して告げることはなかった
だろうと思うが。
那岐は忍人が好きだった。
だからといって、忍人になりたいわけじゃない。忍人の代わりになるつもりもない。
ただ、…叶うことなら、共に歩み、語らいたかった。
千尋の傍らで、他愛ないことには丁々発止と意見を交わし、大切なことには額をつきあわ
せて相談する。千尋が突拍子もないことを言い出したら二人で意見する。
そんな風に日々を過ごしたかった。
二度と叶えられないその願いが、祈りにも似たその気持ちが、那岐の心の中にずっと眠っ
ている。そして時々、扉を開いて風を通すように、那岐の中を通り過ぎていく。

那岐は身支度を整えて、するりと部屋を抜け出した。この時間なら、東側に遮るものの少
ない宮の北庭が一番光にあふれている場所だと見当をつけて、そちらに足を向ける。
予想は当たっていた。強くまぶしい朝の光が庭からあふれ出すようだ。
庭に足を踏み入れかけて、那岐は内廊ではっと足を止めた。
「…!」
庭に、人が佇んでいる。
ゆるりと那岐を振り返る。
夢の続きを見ているようで、思わず息をのんだ那岐に、…人影はそっと声をかけた。
「…那岐?」
「……っ」
光の中微笑んでいるのは、忍人ではなく千尋だった。
「早起きね。…びっくりした。…那岐だと思わなかった」
からかうように告げる彼女の、昔とは違う大人びた微笑みに、互いに重ねた年月を思う。
「僕も、…千尋がここにいるとは思わなかったよ。…どうしたの」
「夢を見て目が覚めたの。…目が冴えてしまって眠れないから、散歩。…那岐は?」
「…奇遇だな。…僕も」
「夢を見て、目が覚めたの?」
「そう」
言うか言うまいか迷って、…けれど、那岐は口にした。
「忍人の夢を見たよ」
千尋ははっと那岐の顔を見た。その表情が泣き出しそうに見えて、那岐が、しまった、言
わない方が良かったか、と思った瞬間、千尋の顔は泣き笑いにゆるんだ。
「……本当に、奇遇ね」
私もよ。
「……!」
那岐はかすか息を引き、波が寄せるようにこみ上げてきたものをやり過ごすためにあごを
上げ、空を見た。

太陽が少しずつ高くなる。庭にいっそうの光が満ちていく。
光の中、千尋の傍らに佇む影は、那岐自身の影だ。だが今の那岐にはそれがなぜか、忍人
のように思えてならなかった。

忍人。僕と千尋がともにあるときは、君も必ずともにいるのだと。そう思うことを、君は
許してくれるだろうか。
ささやかな出来事をくりかえす日々の中、ゆっくりと老いて、…そしていつか、再び本当
の君にめぐりあう日まで。
僕らは、君とともに生きていく。