記念受験 その日土岐は、入学書類に使う健康診断書を発行してもらうために病院へ向かった。 神南大の医学部附属病院は、大学の学部内に併設されている。いつも人が多い病院だが、 今日は人の波が病院よりも校舎の方に多く流れているような、と見て取って、土岐ははっ とした。 「…ああ、…そうか、今日受験か」 土岐や東金は、内部進学でそのまま附属の大学へ進学するのであまり意識していなかった が、世は受験シーズンだ。学部ごとに設定された受験日は違うはずなので、今日は医学部 の入学試験の日なのだろう。 「…医学部か」 その単語は土岐の中で即座にある特定の人物と結びつく。 「…今頃、榊くんも目ぇ三角にしてるんやろな」 普段は大人ぶって余裕を見せていた大地だが、彼はその実水面下で必死で努力し続けてい る人間だと思う。人には見せない努力を重ねてのあの余裕なのだ。土岐は、自分にからか われてついつい本音を出してしまう大地ばかり見ていたので、余裕のある大地よりもむし ろ汲々としている大地の方が印象が強い。余裕のある声なんてあまり聞いた覚えがない。 いつも警戒があからさまで、どちらかというととがった声で。 「…土岐…!?」 ……ほら、やっぱり声に余裕がない……。 「………」 土岐は思わず足を止めた。 …この声、…まさか。 がばりと振り返る。数メートル離れた距離に本物の大地が立っていた。ぽかんとした顔で 耳からイヤホンを外しながら、土岐をじっと見つめている。 「………!」 そのまま凍りつく土岐とは対照的に、大地は最初の驚愕が収まったらしく、ゆるゆるとで はあったがなめらかに話し始めた。 「…驚いた。もしかしたらとは思ったけど、高等部と大学とは場所が違うし、そもそもも う授業はない時期だろうから、まさか会えるとは思わなかった。…元気かい?」 問われてやっと、声が出た。 「…何でおるん!?」 「あれ、ひどいな。…一瞬出迎えてくれたのかと思ったのに、やっぱりちがうのか」 「そんなわけないやろ阿呆!…俺は今日は、病院に用事があって寄ったんや」 とたん、大地が真面目に顔を曇らせた。 「どこか調子でも?」 心配されている声に調子が狂う。 「…いや。単に健康診断」 思わずぼそりと答えると、大地は愁眉を開いた。 「…なんだ。よかった」 そののんびりした顔に一瞬ほんわかしそうになって我に返る。 「…て、そういう話やのうて!俺が聞きたいのは、なんで君がここにおんねん、ていうこ となんやけど!」 「何って、…見ての通り、受験だけど」 「うちの医学部を!?」 「そう。…あれ、なんだ、土岐には知らせてなかったのか。…去年の秋かな、東金が神南 の医学部の願書を送りつけてきたんだよ。新手の嫌がらせかとも思ったけど、願書は本物 だったし、ぶっちゃけ神南大には興味があったからね。レベルも高いし、学内のいろんな 施設も充実しているようだし。…で、まあ、記念受験と腕試しを兼ねて、受けに来たって いうわけ」 「……聞いてへん…」 土岐は呆然とつぶやいた。 そない阿呆なことするんやったら、する前でもした後でもええから俺に一言言え!とここ にいない千秋に毒づいても既にむなしい。 本当なら、こんなに楽しい状況、遊ばない手はないはずなのに。なんや、あれを真に受け て本気でのこのこ受けにきたんかいな、と、さんざんおちょくってやれるはずだったのに。 …そう思うと、なんだか地団駄踏みたいくらいもったいなくて。 「驚いた?」 何より大地が、妙に嬉しそうな顔をしているのが悔しくてたまらない。指摘通り本当はひ どく驚いたのだが、素直には言えずにいると、大地が苦笑してちらりと時計を見た。 「できればもう少し話していたいけど、…時間だ、行かなきゃ。…土岐も用事があるんだ ろう。引き留めて悪かった。…それじゃ」 無言で背を向けてやろうかと思った。…けれど、なぜか、そうできなくて。 「せいぜい、がんばりや」 ぼそりとつぶやいた一言に、片手を挙げて去ろうとしていた大地が目を見開いた。そのま ま空を見上げ、 「…今日は雪が降るな」 雲一つない青空に向かってそううそぶくものだから、思わず土岐はポケットに入れて握り しめていたカイロを大地に向かって投げつけた。 きれいに受け止めた大地は、それを好意と勘違いしたのだろうか、ありがたくもらってい くよと笑って手を上げる。 そしてひらりと背を返すと、校舎へ呑み込まれていく人の波にするりと入り込んだ。その まま姿は紛れ、見えなくなる。 見送って、土岐も身を返し、病院のロビーへと足を向けた。乱暴につっこんだコートのポ ケットの中、さっきまで入っていたカイロの空間がぽかりと空いて、それでいてほんのり 暖かいのが、まるで今の自分の心のようだとふと思った。