金の音


その日千秋は初めてのおあずかりではしゃいでいた。
幼稚園は二時に終わる。が、親が働いていたり、二時までに迎えに来られない都合がある
園児は、夕方五時頃まで延長保育をしてもらえる。その延長保育を、千秋の幼稚園ではお
あずかりと呼んでいるのだ。
千秋はずっと、おあずかりに憧れていた。千秋の母親はおっとりとしたおとなしい、生真
面目な女性で、外に働きに出ておらず、気晴らしにと買い物などに出歩くこともない。毎
日きちんきちんと二時五分前には千秋を迎えに来る。母親に手を引かれて帰りながら、何
度も園庭を振り返るのが、千秋の常だった。仲のいい友達が何人か、遊具で遊びながら千
秋に手を振っている。鬼ごっこを始める者もいる。三時くらいには集められて、みんなで
おやつを食べ、それからは室内で遊ぶのだという。そうこうしているうちに、三々五々親
が迎えに来て、櫛の歯が抜けるように一人ずつ減っていく、というわけだ。昨日おあずか
りで習った歌を友達に披露されたり、あいつとあんなことがあった、と話を聞くたび、千
秋の心はひどく騒いだ。
そんなある日、父親が会社の都合で夫人同伴の昼食会に参加することになった。そういっ
た会合の常で、昼食後も歓談は続く。いつものように二時までにお迎えに行くことはとう
てい出来ない。やむなく母は預かり保育を依頼し、千秋は今念願の「おあずかり」を満喫
しているというわけだ。
園庭で遊ぶ子供達の上に、金色の落ち葉が降ってくる。ひらひら舞う落ち葉を追って、千
秋は駆け出した。お迎えの最中で、先生達は皆表門に気を取られている。その目を盗んで
裏門から抜けだしたのだ。幼稚園の園舎の裏には、幼稚園が付属している教会があり、前
庭に樫の木が何本か生えていた。ドングリが落ちる木は園庭にはない。だからここで拾い
集めて園庭に持ち帰り、友達に自慢しようと思って千秋がしゃがみ込んだときだった。
「……っ」
金色の光が一筋、目の前を横切るのが見えた気がした。
「……!?」
立ち上がり、光の出所を探す。だが、秋の午後の日差しは温かく柔らかく白っぽく、ぼん
やりと輝いていて、とても金色には見えないし、日差しが明るいので、それ以外の光源は
見当たらない。
…そして千秋は気付く。光と見えたものは本当は光ではなく、音だ、と。
とがっていて繊細で、さびしそうで、……それでいて黄金のように輝く、音。
幼い千秋に当時、そんな形容詞の持ち合わせはなかった。今のは、大きくなってからあの
瞬間の音を思い返すたび、千秋の中からあふれ出す言葉だ。だから彼は、千秋のそんな言
葉を、
「オーバーや。想い出が美化されとう」
と笑うが。
千秋は決してオーバーとは思わない。それくらい、心の真ん中にまっすぐ残っている音な
のだ。
「……!」
千秋は必死になって音の出所を探した。そしてはたと、その音が、響いているのに不思議
とこもっていることに気付いて、チャペルの扉をそっと押し開けてみた。
聖書を置いて祈りを捧げる固い机と長椅子が両脇に並び、中心に、十字架に向かって通路
がまっすぐ延びている。その中ほどで、一人の子供がヴァイオリンを構えていた。
「…きんいろの、おとだ」
千秋はその言葉を心の中だけでもらしたつもりだったのに、思いがけず声に出してつぶや
いていたらしい。はっとした顔で子供が弓を止め、千秋を振り返った。
胸についている名札は青色。一つ年上だ。千秋は臆せず話しかけた。
「なあそれヴァイオリン?なんでここで弾いてるん?何て名前?」
矢継ぎ早の問いかけに、相手は一瞬呆気にとられたようだが、悪びれないそぶりに毒気を
抜かれたらしく、ふは、と小さく笑った。
「…っ」
その一瞬、千秋は息を呑み、大きく目を見開いた。

−…あ。…俺、こいつ好きや。

どんな性格なのか、趣味が合うのか、そもそも誰なのかも知らない相手だ。脊髄反射のよ
うなものだった。その笑顔と笑い方を見たとたん、頭でややこしいことを考えるよりもま
ず、「あ、好きや」と、思った。
相手は、千秋をはっとさせた笑顔のまま言った。
「ときほうせい。マリア組。これヴァイオリン。俺のとこアパートやから、あんまりうる
さしたら文句言われんねん。…やから、園長神父先生にお許しもろて、母さんが迎えに来
てくれるまでの間、ここで弾かせてもろとんや」
「……ヴァイオリン、どこかの教室で習っとんか?」
千秋がそれを聞いたのは、ちょうど千秋の母親が、そろそろ何か音楽系の習い事をと言い
出していたからだ。スイミングと英語の教室にはもう通っているのだが、それでは足りぬ
らしい。兄二人もピアノの教室に通っているし、母が同じ教室に入れたがっていることは
何となく気付いていた。
音楽は嫌いじゃない。…だが、兄二人と同じことをやるのは厭だった。ちがうことがした
い。ちがう楽器を覚えたい。……もし彼がどこかの教室でヴァイオリンを習っているなら、
ちがうことが出来るかもしれない。
だが、千秋の問いに彼はゆっくりと首を横に振った。
「別に、教室とかには通ってへんよ。母さんがずっとやってたから、そのお古で音の出し
方だけちょっと教わっただけや。…母さんは、ほんまはちゃんとした先生に習わしたいみ
たいやけど、うち、お金無いから」
身も蓋もないことを言ってさらりと笑う。……その笑い方がまた、千秋をどきりとさせる。

−…やっぱり好きや。めっちゃ好き。友達になりたい。なってほしい。

「ヴァイオリン、習いたいん?……えーと」
彼が首をかしげたのは、千秋の名札を確認しようとしたものらしい。少し目が悪いのかも
しれない。かすかに目をすがめている。千秋はうなずき、はきはきと言った。
「俺、とうがねちあき。ゆり組。……俺、お前とヴァイオリン弾きたい」
蓬生は千秋のその返答を聞いて、ぽかんとした顔になった。
「…せやけど俺、……今、言うたやろ。先生について習てるわけとちゃうで。……ほんま
にヴァイオリン習いたいんやったら、うちの母さんがたぶん、子供も教えてはるヴァイオ
リンの先生知ってるやろから、ちょっと聞いといたるわ」
「うん、教えて」
千秋はうなずいた。
「ほんで、ちょっとでも弾けるようになったら、ここで一緒に弾いていいか?」
蓬生はまた首をかしげる。
「…ここで弾いてええかどうかは、俺やのうて園長神父先生に聞かんとあかんで」
「園長神父先生が弾いてええ、て言わはったら、ここで一緒に弾いていいか?」
たたみかける千秋に、彼はとうとうまた笑い出してしまった。ふっ、と、首をすくめるよ
うにしてからのけぞらせて笑う、その笑い方も何だか好きで好きで好きで。……千秋は、
うれしくて楽しくて、泣きたいような気持ちになった。
「何やしらんけど、…俺はかまへんよ、一緒でも」
「ありがとう!!」
叫んで思わずぎゅうと抱きつく。
「…ちょ」
蓬生は一瞬声を上げたが、拒絶はしなかった。…何やこいつ、とつぶやく声も、厭そうで
はない。……と、千秋は勝手に判断する。
「……とにかく。母さんからヴァイオリンの先生のこと聞いたら教える。……ゆり組やん
な?」
「うん」
「うんわかった。…わかったから、今日はもう行き。……三時やで」
「……へ?」
「三時」
言って、彼は教会の十字架と反対側の壁を指した。時計がかかっていて、時刻は確かに三
時を指し示している。
「三時。…おやつ、食いはぐれるで。……それに、俺はここにいるって先生達知ってはる
から、三時に教室におらんでも誰も心配しやはらへんけど、千秋は先生達に何も言わんと
こっち来たんやろ?おらんかったら大騒ぎになるで」
言って、蓬生は耳をすますそぶりをしてから首をすくめた。
「……っていうか、もうなっとうかもな。……ほら」
つられて千秋も耳をすませた。
閉めきられたチャペルの中には外の音は届きづらいのだが、それでもかすかに、
「ちあきくーん」
と呼ぶ声が聞こえる気がする。
「……やべ」
千秋が思わず首をすくめると、蓬生はくすりと笑った。
「はよ、行き」
その少し大人びた声に押されるようにして千秋は数歩足を進め、…思い切れずに振り返っ
た。
「……なあ。…ヴァイオリンが上手になる前でも、…またここに聞きに来ていいか?」
蓬生は軽く目を見開いてから、ふわりと笑った。
「…好きにしたらええよ」
「…うん、わかった。……また来るわ」
千秋が満面の笑みで言うと、なぜか蓬生ははっとした顔になり、それから目を伏せて、口
元だけでかすかに笑んだ。


「……あの時な、……俺、こいつの笑い方好きやなー、て思てん」
蓬生がそう千秋に述懐するのは、もう少し先の話になる。