記憶の鍵

「あなたは子供に恵まれましたね」
朱雀の磐座に彼が入ってきたことには気付いていたが、あえて振り向かずにいたら、彼の
方から話しかけてきた。
また彼のとがめるような視線に責められるのかと思いつつゆっくり振り返ると、今日はな
ぜか眼差しがやわらかく、うっすらと笑ってさえいるような。
「……子供はあんまりだよ」
風早はおっとりと笑う。
「兄弟は無理でも、せめて生徒くらいにしておいてくれないかな」
事実、異世界の高校で彼らを生徒として教えていたのだから、これは間違いではない。が、
柊はあっさりと首をすくめた。
「たいしたことを教えていないのに教師を名乗るのはどうかと思いますよ」
「……辛辣だね」
「事実でしょう」
青は藍より出でて藍より青し、氷は水より出でて水より寒し、という言葉が師君の古書の
中にありましたね。
「那岐に、ありがとうと言われてしまいました」
柊はぽつりと言った。瞳は風早を見ていない。どこか遠くを見ている。
「忍人の代わりに、…ありがとう、と」
風早はふっ、と息を吸った。柊の視線が風早に戻る。己は物問いたげな眼差しをしていた
だろうし、柊としても説明することを望んでいたのだろう。そうなんですよと言うかのよ
うに彼は一つうなずいた。
「たとえ記憶を取り戻しても、忍人は私がしたことに気付くことはないだろうと、…だか
ら自分が代わりに礼を言うのだと言っていました」
……優しい子ですね。
噛みしめるように柊は言った。
「優しくて、…まだ絶望を知らない」
どんな努力もあがきも何の意味を持たないこと、自分の知恵も武力も、その身すらも、あ
ってもなくても同じことなのだと思い知らされる、途方もない虚無感を、彼はまだ知らな
い。
「…昔を思い出すかい?」
風早が静かに言った。柊は見えている方の目で風早をじろりとねめつける。
「私はあなたのそういうところが嫌いですよ。すぐに先回りをしたがる」
「君に言われたくはないな。君だって…」
「自分を見ているようだから厭なんです」
風早の言葉を遮って、柊はきっぱりと言いきった。風早は首をすくめ、それ以上は口をつ
ぐむ。代わりにこう問うた。
「その見える目で見て、…どう思う。…忍人の記憶は戻るんだろうか」
柊は風早ではなく朱雀の磐座を見たまま口をつぐんでいる。
磐座の中はしんと静まりかえった。朱雀の気配すら取れない。柊は声を出すどころかぴく
りとも動かない。風早もただじっと待つ。
どれほどの時間がたったろうか。かすれる声が漏れた。
「…あなたが始めたことでしょう」
柊がつぶやいたのだった。
「…その先など、私に見えるものですか」
けだるげで投げやりな物言いだった。風早は目を伏せ、うなだれる。柊は風早のその姿勢
に鼻を鳴らしてから、腕を組んで低く問う。
「あなたはどう思っているんです」
「どう、とは」
「…あなたは、那岐や姫のように、忍人の記憶が戻ることを信じていますか?」
ずきりと胸が痛む。
自分だけは何も忘れない。けれど、自分以外の者は皆、輪のように繰り返される歴史の中、
まっさらな幼い顔で、いつも全てを忘れて現れる。自分にとってはそれが当たり前だった
から。
「…信じたい、ですよ」
奪われた記憶はいつも戻らない。それが自分にとっての常識なのだ。忍人の今回奪われた
記憶だけは戻ると信じたい、けれど。
信じきれない。…それが自分の真実。
「…たい、では駄目ですよ」
風早の返答に、柊は呆れた顔で苦笑した。風早は笑い返したつもりで、…笑いきれず、自
分でもそのことに気付いて首を振る。
それを見た柊が、風早に一歩近づいて肩に手を載せ、…ぐっと力を込めた。
「まず、あなたが強く願って信じなければ。……きっと何も変わらない」
「……柊……?」
まるで予見のような言葉に、風早は柊をまじまじと凝視する。
「あなたが始めたことでしょう。那岐や姫が信じられなくても、あなただけは信じるべき
だ」
「……」
「……それと、…もう一つ」
柊は風早の肩から手を離し、目をそらして、人差し指を唇に当てた。
「忍人のアカシヤの鍵を握るものが何か、…わかりますか?」
「……かぎ……?」
風早は意味がつかめず、ぼんやりと復唱する。
「誰のアカシヤにも鍵となるものがある、と、私は考えているんです。星の一族としての
認識ではなく、あくまで私の個人的な考えですが。あなたのそれが何かは知りませんが、
私ならこの目、那岐ならあの首にかけた玉、…そして忍人の鍵は、刀だ」
「……!」
鋭く息を吸った風早に、しかし柊は一瞥を投げることすらせず、ゆるゆると言葉を紡ぎ続
ける。
「忍人を取り戻しにいったのも、あなたが聞いた姫の目撃情報から察するに、破魂刀たち
のようだ。記憶を戻す鍵はきっと、あの刀にある、…のではないかと、私は推測するんで
すが。……もっとも、では何をすればいいかと問われても、私にはさっぱりわかりません
がね」
「…柊、…教えてくれ」
柊の言葉を遮り、すがるように風早はうなった。
「アカシヤも予見も関係なく、君は、…忍人の記憶は戻ると思うか?」
「……」
一瞬息を吸って。
…それから柊は、その日初めてはっきりと微笑んだ。
「戻りますとも」
静かだが強い声で答えが返ってくる。
「我が君が、そうお望みになるのですから」
「………」
風早の喉の奥から、ふう、と息がもれていく。喉を、口蓋を通って、歯列の隙間から漏れ
るとき、その息は笑い声となって朱雀の磐座に転がり落ちた。

「……ああ、…そうだね」