切れた鎖

ファイナルを目前に控えて、練習は佳境に入っていた。
午前の練習を終え、昼食をとりに、みんなが音楽室を出て行く。後に続こうとしてふと、
前を歩くひなちゃんのえり足から、何かがきらきら光って滑り落ちるのを見た。
本人は落としたことに気付かず、足早に行ってしまう。俺は、どうせ一緒に食事を取るの
だからと、呼び止めることもせず、のんびり腰をかがめて彼女の落とし物を拾った。
「ペンダントかな。鎖でも切れたかな…」
…余裕があったのは、そこまでだった。
「…っ」
拾ったのはやはりペンダントだった。銀の華奢な鎖の先に、飾りが一つ。だがそれは通常
のペンダントトップではなく、指輪だった。チェーンに指輪を通して、ペンダントにして
いたのだ。しかもそれは、俺のよく知る指輪だった。
「……りつ」
声がかすれた。
正直、落とし主がさっさと部屋を出て行ってくれていてよかったと、心底思った。でなけ
れば俺は、取り乱したみっともない姿を彼女の前にさらすことになっただろう。
「…何故、律の指輪を、ひなちゃんが」
よく似た形の別の物だろうか、と一瞬思った。だが、俺の心の中の何か黒い塊が、嘲うよ
うに即座にそれを否定する。
…コレハ律ノ指輪ダヨ。ソラ、王冠ノ内側ニ、小サイ目立ツ瑕ガツイテル。……瑕マデソ
ックリ同ジ指輪ナンテアルモノカ。
「……」
喉に何か塊がつかえたような感覚がある。俺はそれを飲み下そうと、必死で何度もつばを
飲み込んだ。
律は、自分の大切な指輪を彼女に託した。
それはたぶん、律が彼女にファーストヴァイオリンを任せたからだろう。彼女が背負う重
圧を少しでも軽くするために、自分のお守りを彼女に渡した。…自分の夢を、彼女に託し
たんだ。
頭は必死で、ことを冷静に処理しようとする。けれど心の欲深さが、俺の理性を嘲い、導
き出した結論を千々に引き裂く。
指輪を女性に贈ることが、ただ夢を託すためだけであるものか。…律が、彼女を大切に思
っていることには気付いていたじゃないか。自分が予想した以上の感情がそこにあっても、
何もおかしくはない。
律は、感情を表に出す人間じゃない。だから自分は気付かなかった。…それだけのことだ。
俺は親友で、彼女は大切な女の子。…つまりそういうことなのだ。
俺はしみじみと、掌の上の小さな指輪を見た。
こんな細くてかわいらしい指輪が、俺の指になど似合うはずがない。
…何故、この指輪を託されたのが自分ではないのかと思うなんて、…俺は、どうかしてい
る。
ゆっくりと息を吐いた。
落ち着け。冷静になれ。
…律は、俺の親友だ。俺は律の親友だ。それは変わっていない。これからも変わらない。
…だから、俺が傷つくことなんて、何一つありはしない。
息を吸う。
胸に涼やかな風が入って、…俺は少し落ち着いた。心の中の黒い物も、少しなりを潜めた
ようだ。
大丈夫、今夜眠れば、……明日も眠れば、…きっと大丈夫。…大丈夫だ。
俺は拾ったペンダントを手に、ヴィオラケースを肩にかけて、ゆっくりと音楽室を出よう
とした。
ちょうどそこに、不思議そうにきょろきょろしながらひなちゃんが駆け戻ってくる。俺を
見て、ほっとしたように顔をほころばせた。
「よかった、大地先輩がいないから、どうしたのかと」
「わざわざ迎えに戻ってくれたのかい?ごめんごめん、片付けをちょっとゆっくりしすぎ
たんだ。…それと、ほら。…落とし物を拾ってね」
拾ったペンダントを掌に載せてそっと示すと、はっと彼女は口を開け、慌てて自分の胸元
に手を当てた。
「それ」
「やっぱりひなちゃんのだった?」
「はいっ」
慌てたせいでずいぶん勢いのいい返事に、少し笑う。
「よかった。…可愛いペンダントだね。でも残念ながら、鎖が切れちゃったみたいだな」
ほらここ、と示すと、彼女は、そう言っては申し訳ないけれど、おもしろいほどがっかり
して、べそをかきそうな声で、
「ほんとだー…」
とつぶやいた。
その仕草と声が、あんまりしょげていてかわいらしくて、俺の中の黒い物があっさりと消
えていく。
…君はほんとに、すごい子だよ、ひなちゃん。
「…大丈夫。…この鎖の作りなら、道具があれば直せる。…うちに確か先の細いペンチが
あったと思うから、直してきてあげるよ」
「ほんとですか?」
しょげた顔が一転して喜色満面になる。思わず笑った。
「こういう作業は嫌いじゃないからね。…大丈夫、任せて。今夜一晩預かれば何とかなる
よ」
よろしくお願いします、とぺこりと頭を下げた彼女の手に、俺は鎖から外した指輪をそっ
と載せた。
「鎖は預かるから、これはひなちゃんが持ってて。なくしたら大変だ。ペンダントトップ
にしてるけど、それ、指輪だろう?…指にはめておいた方がいいよ」
平静を装い、静かに言うと、ひなちゃんは一瞬はっと俺を見て、何か逡巡し、ややあって
首をかしげた。
「でもこれ、預かり物ですから」
つぶやいて、少しうつむく。細いうなじが頼りない。
……ああ、そうだ。…だからこの指輪は、ひなちゃんに必要なんだ。
「…預かったんじゃない。託されたんだよ。…そうだろ?…ほら、自信を持って、背を伸
ばす」
ぽん、と背中を叩く。それが引き金になったのか、何かに気付いた顔でひなちゃんは俺を
見た。
「…大地先輩」
「何だい?」
「大地先輩は、この指輪のこと…」
知ってるんですか、と聞きたかったに違いない。だが残念なことに、…そして、俺の理性
にとっては少々ありがたいことに、その瞬間、
「おいかなで!にやけタレ目どうした!」
叫びながら響也がこちらへ向かってきた。迎えに行ったはずなのに、帰りが遅いことに焦
れたらしい。
「おやおや。…ずいぶん怒ってるなあ。あれはきっとカルシウム不足だ。今日の弁当に小
魚があるといいけど」
行こうか、ひなちゃん。
もう一度背を叩…こうとして、一睨みで人が殺せそうな目付きで響也がこちらを見ていた
ので、慌ててホールドアップの形で手を上げる。
ひなちゃんは、俺と響也を見比べて小さく笑い、それ以上は何も言わずに歩き出した。
掌の中に残る切れた鎖を、俺は制服の胸ポケットに押し込んで、彼女の後ろについて歩き
始めた。
残暑は厳しいが、太陽の光は少しかげり始めている。
……今年の夏は、いったいどんな終わりを迎えるのだろう。