霧の印象

那岐にとって、忍人の第一印象は、あまりよくなかった。
いきなり現れて、居丈高に上から目線で物を言う。自分に対しての物言いなら柳に風で受
け流す那岐だが、千尋に対して、彼女本人のことを知りもしないのにはなから否定してか
かるのが気に入らなかった。…客観的に見て、彼の評価がおおむね間違ってはいないとし
ても、だ。
…千尋だって、好きで戻ってきたわけでも、やりたくて将軍をやっているわけでもない。
何も知りもしないで。
挑発されてむきになる千尋にもいらいらした。
受け流せばいいんだ、そんな失礼な奴、無視すればいい。
だが千尋は無視しない。まっすぐな目で必死に言葉を紡ぐ。相手は眉をしかめて仏頂面で、
千尋の言葉などつられてむきになっているだけの放言だと、相手にもしていない様子なの
に。
千尋が愛しくて、だから余計に、彼の態度にいらいらした。
…それに、彼の持つ気配が気に入らなかった。
彼本人の、ではない。彼が持つ刀が放つ気だ。少し離れた場所にいても感じられるほどの、
暗く重い気。凝った死と血の匂い。慣れるまでは、那岐にはむっとするほどきつかった。
もちろん、彼は武人だ。中つ国の滅びを経験し、今もなお戦い続けている彼は、幾度も死
線をくぐっただろう。血の匂いがするからといって彼を責めるのは間違っていると、那岐
の理性は那岐をたしなめる。けれど、那岐の感情は忍人を否定する。
総合して、那岐にとって忍人の印象は「なんとなく気にくわない」だったのだ。
…あの霧の中までは。

高千穂から飛び立った天鳥船が墜落した筑紫は霧の中だった。
霧の原因を探るべく、探索を始めた一行は、すぐに霧に巻かれた。数歩前を行く仲間の背
中を見るのがやっとという濃い霧だ。
牛乳の中を歩いているみたいだ、と那岐は思った。
仲間を見失わないよう、一列に並んで歩く。一番前をサザキ、それから風早、千尋、遠夜、
那岐、しんがりを忍人が守る。那岐は遠夜の鎌を一心に睨み付けながら歩いた。
自分たちがどこへ向かって進んでいるのかがわからない。森の中を歩いていることはわか
る。足元に入り組んだ根があるからだ。だが、森の中をまっすぐ進んでいるのか、それと
も道に迷って堂々巡りしているのかがわからない。目印を見つけようにも、周囲は白い霧
に巻かれている。
一番先を進んでいたサザキが足を止めた。埒があかないと感じたのだろう。口々に上がる
不安の声に、風早が落ち着かせるように忍人の名を呼んで意見を求めたときだった。
「…忍人?」
応えがないことに風早が少し慌てた声を出す。那岐ははっと後ろを振り返った。
…いない。
いつからいなかったのだろう。遠夜の鎌を追いかけて歩くことに集中していて、背後の気
配を探ることを忘れていた。どこかで霧に巻かれたのか。彼が失態を犯すことなど、万に
一つもないと思ったが。
彼もミスをするんだな、と思ってから、いや、ちがう、と那岐は首を振った。忍人がミス
をしたわけではない。この霧には何か悪意にも似た意志がある。彼はそれに取り込まれた
のだ。
僕は、…忍人なら、いいや、と考えてはいなかったか。
那岐は少し唇をかんだ。
彼なら大丈夫、というだけではない。なんとなく気にくわない奴、という意識が、彼に向
けるべき注意を散漫にしてはいなかったか。
今気配を探っても、忍人の気は近くに見あたらない。あの刀があれほど厭な気を出してい
るのに感じ取れないということは、彼は既にかなり離れたところにいるということか。…
それとも?
…そのときだった。
牛乳のようだった霧が、生クリームかコーヒーフレッシュのようにねっとりと重くなった
気がした。
やばい。
そう思う間もあればこそ。
那岐は霧に取り込まれていた。
霧に巻かれる瞬間、サザキが自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、すぐに何も音は聞こえ
なくなった。

濃い霧に巻かれていたのはほんの数秒のはずなのに。
那岐はため息をついた。
足を動かしたはずもないのに、周囲に仲間の気配はない。
霧はまた、牛乳くらいの濃さに戻っているが、周囲全てが霧に囲まれて、ほとんど何も見
えない。足元でさえおぼつかない。
足で踏む感触は、根の張った森の地面のものだから、森から出たわけではないのだろう。
だが、自分がどこにいるのかはわからない。
さっき消えた忍人も、きっとこんなふうに霧に巻かれているのだな、と思った。
仲間の気配を捜して少し歩いてみた那岐だが、すぐに、闇雲に歩いても埒があかないと、
足を止めた。手で探ると、大きな木の幹の感触。これは、楠だろうか。ずいぶん育った樹
だ。背をもたせかけて、休ませてもらう。
「……」
この霧はいったい何だろう。
忍人に続いて自分をも取り込んだのだから、この霧が普通の霧でないことは確かだ。霧自
体に意志があるとしか考えられない。
常世の国にはこういう鬼道を扱う民がいるのだろうか。鬼道の力で、千尋から自分たちを
引き離そうとしているのだろうか。
那岐がぼんやりと考え込んでいると、ふと、那岐が背をもたせかけている樹が、ほとほと
と那岐の背中を撫でた気がした。
実際に樹が那岐の背中を撫でるわけはないのだが、那岐は、樹に注意を促されるとき、い
つも樹に撫でられるような気がする。
何だろう、と目をこらすと、白い霧の中で動く影がかすかにちらちらと見えた。四つ足の
動物の影ではない。
すらりと背が高い黒っぽい姿。…彼自身ではなく、彼の傍から立ち上る厭な気。
「…忍人!」
那岐は思わず叫んでいた。
黒い影が、声に反応してはっと立ち止まる。声の出所を捜すように、影が少し揺れる。
「忍人!」
那岐はもう一度名を呼んだ。声の方向を聞き定めたらしい影が、まっすぐにこちらへ向か
ってくる。近づくにつれ、霧越しにもはっきりと姿が見て取れるようになった。
間違いない、忍人だ。
彼も少しほっとした顔をしていた。
「那岐、君か」
呼ぶ声も、常になく柔らかい。が、その声はすぐに暗く沈んだ。
「…姫は?」
那岐はゆるゆると首を横に振った。
「僕も、霧に取り込まれた。…この霧は意志があって、千尋から僕らを遠ざけようとして
いるような気がする」
「…そうか」
忍人は短いため息をついた。…つきながらも、表情には安堵の色が見える。…彼は自分よ
りも先に霧に取り込まれて、一人きり霧の中をさまよっていたのだ。仲間を見つけて安堵
するのはもっともなのだが、まだ肝心の本隊や千尋は見失ったままなのだ。それにしては
安堵が深すぎる気がして少し那岐は気になった。
「…僕と合流できただけで安心しないでよ、忍人。…まだ霧に巻かれていることに代わり
はないんだから」
「ああ、…すまない、気を抜いたわけではないんだが」
那岐の声が少しとがっていたからだろうか、忍人は申し訳なさそうに目を伏せた。いつも
厳しく冷静な彼にしてはひどく人間的な、…珍しく弱く見える顔だ、と思ってから、那岐
はさすがに、忍人だって機械じゃないんだから、と、自分の評価の手厳しさを自分でたし
なめた。
「…何かあった?」
少々後ろめたくて、那岐はややおずおずと問うた。忍人はふと目を開いて、いや、と首を
横に振る。
「別に、何も。…ただ、一人で歩いている間中、馬鹿なことばかり考えていたものだから」
「馬鹿なことって」
「…」
忍人は唇を開いて、…そのまま少し逡巡した。言おうか言うまいか、という顔だ。少し悔
しそうな表情が一瞬目元によぎり、消える。…消えた後はいつもの、冷たく見えるほどの
無表情が戻ったが。
「…一人で歩いている間中、霧に巻かれたのは俺だけだろうな、と思っていた」
那岐は大きく一つ瞬きをした。
「…別に、馬鹿なこととは思わないけど」
むしろ、一人道に迷って霧の中で考えることとしてはごく妥当な考えのように思う。
忍人はしかし、ゆるゆると首を横に振った。
「この霧には意志があると、俺も思った。そして、意志あってわざと俺を姫から遠ざけた
のなら、…遠ざけられたのは俺だけだろうな、と思ったんだ」
まだわからない。
「どういう意味?」
那岐が重ねて問うと、忍人は再び目を伏せた。
「…あの仲間の中で、おそらくは俺が一番、姫に向ける信頼の気持ちが足りない」
那岐ははっとした。
「人間としてどうということではない。…将としての信頼だ。俺はまだ、彼女を将として
信頼しきれない。…いや、…出来ることなら、彼女を将に祭り上げるべきではないとさえ
思う」
忍人はまたまっすぐに那岐を見た。
「だが、君や風早は違う。君たちは遠い異世界で彼女を守っていた。やがてこの世界に戻
り、彼女を王に据えるためだろう。だから、彼女を王として信頼している。サザキや遠夜
は、異種族にもかかわらず、彼女を認めてついてきた。…まあ、サザキの信頼には多少の
打算があるだろうが、それでも彼女を信頼していることに代わりはない」
俺は違う。
「彼女を将と仰ぐと受諾しながら、…信頼しきれていない。その俺の中の齟齬を、霧に嫌
われたのではないかと」
「…考えすぎだよ」
那岐はぼそりと言った。…忍人は、困ったような目でほんの少し口角を上げた。…笑った
のだと、後で気付いた。
「…そのようだな。…君もこうして霧に取り込まれているんだから」
ほとりと沈黙が落ちた。
忍人は那岐の隣で、那岐と同じ樹にもたれた。
霧はゆるゆると動いているが、まだ晴れない。霧の向こうに他者の気配もない。…千尋達
は、どうしたろうか。
沈黙の中、那岐の胸はずっとむずむずしていた。先刻の忍人の言葉の一部がどうにも引っ
かかる。
こらえきれず、結局那岐は口に出して聞いてみた。
「あのさ」
「…?」
忍人が、視線だけを那岐に向ける。
「忍人は、千尋が嫌いなわけ?…というか、千尋の王位継承者としての正当性を疑って
る?」
「…?いや、まさか」
「じゃあ、千尋を将軍に祭り上げるべきじゃないっていうのは、千尋が将軍としてまだ未
熟だからっていう理由だけ?」
「…」
忍人はそこでようやく、那岐の問いの意図を理解したらしい。…さっきの俺のあの言葉の
ことか、と小さくつぶやいてから、視線だけでなく身体ごと那岐に向き直った。
ひそめられた眉の下で、瞳がいたましげな色を浮かべている。
「…那岐。君たちは中つ国が滅んでからの戦を知らない。……楽な戦は一つもなかった。
高千穂はまだ常世と戦えている地域なんだ。これから橿原に近づくにつれ、戦はもっと苛
烈になる。彼女はその双肩に堪えうる以上の重荷を背負うことになる」
忍人の言葉は重い。…最前線で、常に一番酷い戦場を見てきた彼ならばこそ、口に出来る
言葉だ。
「姫は確かに王位継承者だ。だが同時に、まだ幼い少女なんだ。師君も風早も、当たり前
のように彼女を将と呼ぶが、本当にそれでいいんだろうか。姫だからという理由だけで、
彼女に荷を負わせていいのか。……彼女のためには、異世界で普通の少女として幸せに暮
らす方がいいはずだ」
那岐は、自分の瞳が見開かれて丸くなっていることを自覚した。
…思いがけない言葉だった。いや、内容が、ではない。同じようなことを那岐も少し思う。
だが、その言葉を言うのが忍人だとは思わなかった。彼ならば、千尋に姫として、王位継
承者としての自覚を求めるはずだと思っていた。だからこそ、彼は千尋に対して、厳しさ
をもって接しているのだと。
「…じゃあ、もし千尋が、あんたの厳しさに閉口して将軍職を放り出して異世界に逃げ出
したら?」
忍人はまだ傷ましげな瞳のまま、けれどもかすかに口角を上げた。…今度ははっきり、微
笑みだと那岐にもわかった。
「…その世界で彼女が幸せになるなら、そのほうがいい」
その時、那岐の中にあった忍人の印象がまるで春の氷のようにすうっと溶けた。
有能で冷静で厳しい彼の中にこんな無器用な優しさがあったことを、那岐はその瞬間まで
知らなかった。微笑みのぎこちなさまでも彼らしく、優しい。
優しくて、…そしてほんの少しだけ、鈍い。
「…忍人の考えはもっともだと思うけど、…一つ大事なことを、忘れてると思う」
「…?」
「最初は確かに、千尋は祭り上げられた将軍だった。…でも、レヴァンタを倒して、朱雀
と対峙して、…彼女はもう、自分の道を自分で選んでいる。…祭り上げられてるわけじゃ
ない。将軍になることは彼女の意志だ」
もし千尋が本当に逃げ出したいと思うなら、那岐は何を於いても彼女を助けただろう。い
や、今だって、もしも彼女が逃げ出したいというなら、彼の全力を挙げて彼女を逃がす努
力をする。だが。
「千尋はもう、そんなこと望んでいない。だから、…せめて千尋の荷が軽くなるように、
彼女を助けることだけ、僕は考える」
逃げ出してほしい、と思う気持ちはある。けれど、千尋が逃げ出さないなら、全力で彼女
を守る。
忍人ははっと目を見張って、それからきつく目をつむった。一文字に引き結ばれた唇がや
がてゆっくりとゆるんで、
「…そうだな」
つぶやいて目を開いたとき、その瞳の中から傷ましい色は消えていた。迷いのないまっす
ぐな瞳は、夜の海の底を覗いたような色をしている。深くて、優しい。
そのとき、不意に霧が薄れ始めた。牛乳のようだった霧がオーガンジーのカーテンを引く
ようにするすると透けていく。やがて普通のもやの濃さになると、木々の向こうに見慣れ
た大きな影が現れた。
「…船だ」
「…ほとんど離れてなかったんだね」
ずいぶん歩いた気がしたのに。…それとも、霧に巻かれてここまで戻されたんだろうか。
忍人はぴしりと背筋を伸ばし、もたれていた樹から離れた。
「いったん、戻ろう。…彼らも霧に巻かれて、船に戻っているかもしれない」
那岐は、千尋に渡した葉の対を確認する。…まだ異変はない。
「…そうだね、行こう」
応じると、忍人が肩越しに振り返って、静かに微笑んだ。那岐が初めて見る、忍人の素直
な笑顔だ。
笑い返しながら、その笑顔をきれいだと感じる自分に那岐は苦笑した。
…やなやつだと思ってたはずなのになあ。

那岐にとっての、忍人の印象。
厳しくて、無愛想で、でも無器用で優しい。僕は、…嫌いじゃない。