切創 それは、練習室でヴィオラケースを開けようとしたときだった。 「…大地」 呼ばれて振り返るのと、律が大地の右手の人差し指を押さえるのはほぼ同時で。 …そのまま、自分の指先が律の唇に含まれるのを、どこか呆然と大地はただ見つめる。 「…」 ちゅ、と小さな音を立てて唇を離し、律はハンカチを出してその指を押さえた。 「血がにじんでいた。絆創膏を持っていないか?そのまま楽器にさわらないほうがいい」 「あ、…ああ」 はっ、と我に返って、慌てて左手で上着のポケットを探る。癖で、生徒手帳にはいつも絆 創膏がはさんであった。が、利き手を押さえられたままなのでどこかもたもたして、うま く取り出せないでいると、さっと律の手が伸びてきて絆創膏を取りだし、常の彼にはない 手際よさで傷にくるりと絆創膏を巻いてしまった。 「薄い切り傷だったが、意外と血が出るものだな」 「気付かなかったけど、六限で辞書を使ったから、そのとき切ったのかもしれないな。… でも、律」 なんとなくまっすぐ顔が見られない気分で、大地はぼそぼそと訴える。 「…言ってくれれば、自分でやったのに」 律は眼鏡に手を当てた。押し上げるわけではなく、ただ当てているだけの仕草は、彼が少 し戸惑っているときの癖だ。 「…俺に何かあると、いつも大地が手当てしてくれる」 だから、俺も同じことを大地にしたかった。 「…いけなかったか?」 「…っ」 その声は、大地の体の深いところにずきんと響いた。 心持ち低く、どちらかというと男らしい深みを持った律の声が、ひどく甘く艶めいて聞こ える。 「…いけなくはないさ。…ただ、ちょっと、不意打ちだったかな」 かすれた自分の声に、欲を自覚して大地はいたたまれなくなる。…だがどうやらそれも全 て律にはお見通しのようで。 「わかった。…次からは予告しよう」 「予告?」 「ああ。…今から口づけるが、よいか、と」 「………。……勘弁してくれ……」 くす、と律が笑う。その眼鏡をそっと左手で奪うと、抗議するかのように律が口をとがら せた。 「…俺の不意打ちは非難するのに、大地は予告なしなのか」 「…眼鏡を取っただろう」 それが予告だよ、とささやく語尾は、律の唇の中に消えた。