貴種

堅庭には、いい風が吹いている。
日差しを遮る樹を見ていると、ここが船の上とはとても思えない。……とはいえ、この船
は空を飛ぶという、もっと信じがたいことをやってのける船なので、樹の一本や二本、生
えていてもどうということはないかもしれない。
…昼寝には、もってこいなのだろうな。
忍人は庭の縁に立って、かすかな苦笑を浮かべた。
穏やかな午後だ。出雲の祭りを開くのに必要だという珊瑚は取り戻したものの、祭りが開
かれる月齢になるまで特にすることがない。忍人も、毎日日の出から昼食時までは兵たち
の訓練に当てているが、午後は兵たちに自由にさせていた。個人個人の技量を磨く時間も
必要だと思うからだ。
彼も先ほどまでは剣を振るっていたのだが、少し体を休めようかと堅庭に入ってきて、い
つもの場所に安らごうとして、……それを見つけた。
肩の力がぬける心地がした、そのとき。
「………!」
堅庭をまっすぐに吹きぬけていた風が、ふと違う動きを見せた。
つい腰に手を伸ばしてしまうのは自分の悪い癖だ。堅庭に入ってきたのは風早だった。
「…そう警戒しないでください」
忍人の動きで察したらしく、苦笑している。
「…すまない。…つい」
「………わかっています。…君は、つらい戦いを多く知りすぎたから」
ゆっくりと歩み寄りながら、風早は静かな声で言った。それから声を少し明るくして、
「千尋を見ませんでしたか?昼食からこちら、誰も姿を見ていないようなんです」
「……ああ、それなら」
忍人が珍しく口元をほころばせた。
「……?」
首をかしげる風早に、彼は無言のままあごだけで堅庭の縁の斜め下を指し示した。
「…なんです?………おやおや」
縁から降りたその隙間、木々の枝で覆われた隠れ家に、子供が二人すやすやと眠っている。
那岐と千尋だ。互いの肩に互いの頭をもたせかけ合って、…重くないのかな、と風早は笑
った。
「起こそうかと思ったが、この陽気で風邪を引くわけもなし、…あまりに気持ちが良さそ
うなので」
「放っておいてくれたんですね、ありがとう」
「何故礼を言う?」
忍人はいぶかしげに眉を上げた。
「二人とも、久しぶりの中つ国ですからね、いろいろ慣れないこともあって疲れていると
思うんです。だから、起こさないでくれてありがとう」
「…礼を言われるようなことじゃない」
千尋の結った髪が風で揺れている。那岐の前髪がひよひよとそよいでいる。
…起こすのはやっぱりかわいそうで、いい大人が二人、ぼんやりと子供の昼寝を眺めてい
る。
「…こうやって見ると、似ているな」
「そうですねえ。二人とも目の印象が強いので、目を開けているとそうも思いませんが、
目を閉じると似ていますね、どことなく。鼻筋とか、口元とか」
思わず口元をほころばせる風早の横で、忍人がふと、首をかしげた。
「そういえば、…聞いてもいいか?」
「何をです?」
「…なぜ異世界に、姫だけでなく那岐も連れて行ったんだ?」
「たいした話じゃありませんよ」
風早は首をすくめた。
「那岐のお師匠は、自分に何かあったときは岩長姫に後のことを頼むと言い置いていかれ
たんだそうです。四道将軍の中でも、特に信頼が深かったそうでね。で、師君がそれとな
く彼が暮らしていけるように手を回していたんですが、中つ国が戦乱に巻き込まれて、そ
れもなかなか思うに任せなくなった。そんなときに俺が、二ノ姫を連れて逃げるとご挨拶
に伺ったものだから」
「……ついでに連れて行けと」
「そういうことです」
「………そうか」
忍人は腕を組んだ。風早はその顔をのぞき込む。
「もしかして、君も一緒に行きたかったですか?」
「………は?」
ぽかんと口を開ける忍人というのも珍しい。風早は思わず吹き出してしまった。
「笑うな。…それに、なぜそういう話になる?」
「いや、君が異世界のことを気にするなんて珍しいから、もしかして君も行きたかったの
かなと思って。想像したら、それはそれでおもしろいなあ。千尋と那岐は、俺の従兄弟と
いうことにしていたんですが、君ならさしずめ俺の大学生の弟かな。ぐうたらしている那
岐をしかりつけて毎朝起こして、千尋が洗面所を占領していたらいつまでもぐずぐずする
なとまた叱って」
「…叱ってばかりか、俺は」
「叱りそうでしょう?」
「………」
むっつりと忍人は押し黙った。風早はまだ少しくすくすと笑っていたが、やがて笑いおさ
めて声を改めた。
「冗談はさておき、…なぜそんなことを気にするんです?」
「……別に、…他意があったわけじゃないんだが、…二人の寝顔を見ていて、なんだか似
ているなと思ったら、昔師匠から言われたことを思い出して」
「先生に?」
「ちがう。…言い方が悪かったな、すまない。…俺は師君のことは師君と呼ぶのだが、那
岐のお師匠のことは師匠と呼んでいたんだ。……少しの間だけ、彼に鬼道を習ったものだ
から」
「…ああそういえば、…そんなことを言っていましたね」
「俺が師匠に鬼道を習ったときには、もう那岐は師匠の元にいたはずだ。彼はすでに四道
将軍の地位を追われていたから。だが、年が近いはずなのに、師匠にその頃の那岐を紹介
してもらったことはない。…おそらく事情が事情だから、師匠が会わせないようにしてい
たんだろう。ほとんど話題にのぼせることすらなかったんだが、たった一度だけ」
忍人はふと言葉を切って、斜め下をうかがった。…二人はまだすやすや眠っている。
「…俺は本当に出来の悪い弟子で、初歩の鬼道さえろくすっぽ使えなかった。師匠はその
俺を慰めるためにだろうが、こう言ってくれたことがある。…強力な鬼道には、血が必要
なこともあると」
俺はまだ、本当に子供だったので。忍人は少し苦笑してそう前置きし、
「指を切って血を出したりするのかと、少しおびえて師匠に聞いた。そうしたら師匠は笑
って、そういう意味ではない、血筋ということだ、と言った。巫の血筋の者の方が、鬼道
の術となじみやすい。私の元に今いる子など、さほど教えもしないのにあっというまに強
力な術を使えるようになった。…鬼道とは、武道と違い、なじめるかどうかにかかってい
るのだ、と」
そこで言葉を切って、じっと風早を見た。
「………それが、那岐のことだと?」
「…他に心当たりはない。あの事件の前に師匠の元にいた弟子は、事件後皆去ったはずだ。
今いると師匠が言うからには、那岐の話だと思う」
忍人は言葉をつづりながらも探るような目でじっと風早を見ている。
「……話を聞いてすぐ、俺は結局鬼道をあきらめて師君の弟子になったから、今の今まで
こんな話は忘れていた。……だが、那岐を知って、まだ若い彼の強力な術を見て、ふと、
師匠の言葉がよみがえってきた」
風早は表情を変えない。穏やかな顔でただ笑っている。
「葛城の族は確かに、武道一辺倒の血筋だと言っていい。……だが、では、中つ国に仕え
るどの族が巫の血筋だ?」
忍人の顔からは表情が消えていく。
「……俺は、神に祈るのは王族のお役目、と、聞かされて育った」
では、もしや、那岐は?
「…忍人」
珍しく、ぴしりとした声で風早が忍人を呼んだ。
「……!」
「……残念ながら、俺にも、那岐の本当の素性はわからない。…でも、別に那岐が誰でも
かまわないし、仮に王族の一員であったとしても、それが俺たちに何か影響しますか?」
表情は穏やかなままだ。だが、すらりと抜いた抜き身の剣のような気配に、忍人ははっと
我に返った様子で何度か瞬いた。
「…いや。…しない」
噛みしめるように一言言って。
「…しない」
ふわりと笑って、繰り返した。
「そうだな。…那岐が何者だろうと、姫が本当は本物の二ノ姫でなかろうと」
「姫は本物ですよ」
風早が厭そうな顔で突っ込んだ。わかっている、言葉の綾だ、と忍人も言い返す。
「…とにかく。…俺は、彼らを信じられる。仲間として。…それで十分だ」
風早は、ふと、悪戯っぽい目をして、忍人をのぞき込む。
「…柊は?」
「信じない」
むっつりと忍人は断言した。
…だが、少し前の彼なら、もっと唾棄するような表情を見せていただろう。
少しずつ、少しずつ、彼の心の氷も溶けてきているのだ、と、風早は思った。
…そのことで、君をあんな場に置き去りにした、俺の過去がぬぐい去られるわけではない
けれど。
君の表情が、少しずつ光を取り戻す。この穏やかな午後に似た、柔らかい光を。
それを見ると、俺の獣の心も少しは凪ぐ。
「……」
風早はうっとりと微笑んだ。その隣で忍人が、頭上でこんなに話しているのにまだ寝てい
るのか、と口では厳しいことを言いながら、けれど、瞳に穏やかな色を浮かべて那岐と千
尋をのぞき込む。
さすがに気配を取ったのか、那岐がかすかに身じろぎ、それにつられて千尋が眠そうに目
をこする。
忍人と風早は、顔を見合わせて、笑った。