既定伝承

「ムドガラ将軍がここで死ぬことは既定伝承で定められていたことなのです」

千尋は天鳥船の堅庭で夜風に吹かれながら、今日の戦いのことを思い返していた。
斥候の言葉を聞いたときの驚き、そして実際に陣を見て、斥候の言葉通りだったときの絶
句としか言いようのない思いは、まだ心から消えない。だが、それ以上に千尋の胸にとげ
のように刺さっているのは、見つからなかったムドガラ将軍の姿と、それを知ってつぶや
いた柊の言葉だった。

ムドガラ将軍がここで死ぬことはさだめられていたことなのです。

忍人はまだ何人かを割いて、ムドガラ将軍の行方を捜させているようだ。柊は「無駄なこ
とですよ」と言って一応忍人に捜索をやめるよう進言したようだが、納得がいかないから
と、忍人は、その進言を聞き入れなかった。
「ムドガラ将軍は、兵を見捨てて一人で逃げるような方ではない」
「ええそうですよ。そんなことはなさいません」
「ならば、どこかに必ず潜伏しておられるはず。我々が見つけていない陣がどこかにある
にちがいない」
「それこそ、果無峠から十津川まで、しらみつぶしに調べたじゃありませんか。もうこれ
以上、常世の陣はありませんよ」
「ではムドガラ将軍はどちらにおられるというんだ」
「だから言っているでしょう?ムドガラ将軍がここでなくなることは既定伝承で決まって
いたことなんです。だから、実際の戦いがなくてもムドガラ将軍はどこかで亡くなってい
るのですよ」
「そんな馬鹿な話があるか」
「忍人は頭が固いですねえ」
柊はため息をついていたが、千尋は、忍人の反応の方が普通だと思う。千尋とて、既定伝
承に決められていることだから、戦っていなくてもムドガラ将軍は死んだのだと言われて
も、すぐには納得できない。既定伝承について何度も柊と会話している千尋にしてそうな
のだ。柊の言葉の9割を疑ってかかる忍人が信じるわけはない。
だが、今千尋が気にしているのはムドガラ将軍のことではなかった。

「我が君、こんなところにおいででしたか」
声がかかるのと、ふわりと柔らかい布が肩にかけられるのはほぼ同時で、人の気配に全く
気づいていなかった千尋は飛び上がった。
振り向くと、柊がいつものように薄く…酷薄にもとれる笑みを浮かべている。
「もう夜は冷えます。自室にお引き取りください。風早にも困ったものだ。忍人が出てい
るから、兵たちに指示を出す者がいないとはいえ、それにかまけてあなたをいつまでもこ
んなところにいさせるなんて。姫付きの従者として配慮が足りませんね」
千尋は少し笑って、
「考え事をしていたの」
とだけ答えた。
「…ムドガラ将軍のことですか」
柊はおどけた声を消して、静かに問うた。
「…いいえ。…ううん、将軍のことをまったく考えなかったわけではないけれど、今考え
ていたのは別のこと」
「…ほう?」
てっきり千尋の物思いはムドガラ将軍のことだと思いこんでいたらしい。柊は少し驚いた
顔をした。いつも、すべてわかっているという顔をしている彼には珍しい表情だ。
「では何を?」
「……出雲のことを」
「……出雲?」
千尋はまっすぐ柊に向き直った。柊は特にたじろぐこともなく、千尋の視線を受け止める。
「以前、火神岳で、忍人さんが別働隊で動いていたとき。…あなたは、忍人さんの天命は
ここでは尽きないと言ったわね」
千尋は、柊を見つめた。まばたき一つしないという気概で。ほんのひとかけらでも、柊の
表情を見逃すまいと思った。
「…そんなことを、申しましたか?」
柊がうっすら笑ったとき、ああやっぱり、と、心のどこかでもう一人の千尋が呟いた。何
がやっぱりなのかは説明できない。
「あなたがとぼけてみせても、私は覚えている。忘れないわ。…ねえ柊。あなたは、忍人
さんの天命を、…いいえ、彼の天命が尽きる時を、知っているの?」
柊は、手袋で覆われた右手を口元にあげ、人差し指と中指で軽く唇を押さえた。思案する
ときの彼の癖だと、千尋は最近気がついた。
「知っている、…と申し上げたら、どうなさいますか?」
「……」
千尋は答えない。その答えを、柊は知っているはずだからだ。…柊も伏し目がちに少し笑
った。
「…彼の天命が尽きぬよう、さだめを変える努力をなさるのでしょうね。敵であるムドガ
ラ将軍に対してさえ、なんとかならぬのかと仰せになった我が君のこと。問うた私がおろ
かでした」
柊は千尋から視線を外し、夜空を見上げる。
千尋はその視線を追おうとして、やめた。…柊の表情を見逃してはならない。彼は必ず、
何かごまかそうとしているに違いないから。
星の一族の予言の力が、どの程度のものなのか、正直千尋にはよくわからない。柊が口に
するさだめや既定伝承にしたところで、どれが些末で変えられるものなのか、どれが変え
られないものなのか、試してみなければわからないはずではないか。
……現実に、違う未来が存在するのだから。
星空を見上げていた柊の表情がふとゆるんだ。
「ですが、我が君」
「……」
「…あなたは何もなさらずともよいのです」
「…どういうこと?…私にできることは何もないということなの?」
「…いいえ、そうではありません。なにもなさらないのがいいことなのです。あなたがつ
むいでいる既定伝承では」
「…?」
柊は少し左側に顔を背けた。そうされると千尋から見えるのは眼帯をしている柊の右の目
と、かすかな口元だけになる。表情が見えなくなる。千尋はあわてて柊の前に回り込んだ。
柊の背後に広がる一面の夜空と熊野の森。遠くに見えるはずの水平線は、闇の中、夜空と
溶け合ってあいまいな境界線すらわからない。
「あなたは今まで通り、私の策を支持してくださればいい。私の進言を聞いてくだされば
いいのです。そして私の言葉を一から十まで疑ってかかる忍人に、二人でがみがみ叱られ
ましょう」
……なに、それ。
いぶかしむ千尋の顔を見て、柊がくすっと笑った。
「私をからかっているの?」
「いいえ、とんでもない。私は真剣ですよ。……そうすれば」
柊がふと眉を上げたことに、千尋はあいにくと気づかなかった。
「そうすれば?」
「……忍人は、彼の天命通り、部下や弟子を厳しく鍛えるがみがみじじいになって、ある
日老衰でぽっくり逝きますよ」
「誰ががみがみじじいで老衰でぽっくりだって?」
むっつりと忍人が言った。
柊の表情を見ようと、千尋は堅庭の入り口に背を向ける位置に立っていたので、その声を
聞いたときは思わずきゃっと声を出して驚いてしまった。
「…忍人さん!」
「二人で俺の悪口ですか?」
「ちがいます!」
千尋があわてて否定すると、忍人は小さく笑った。…からかわれたのだと気づいて千尋は
少し赤くなる。厳格で規律に厳しい葛城将軍だが、最近、私的な場では、時々こういった
稚気を見せるようになった。叱られてばかりだった千尋には、忍人の柔らかい笑顔はうれ
しい。珍しいものを見て得したような気分だ。
「あの、忍人さん、これはその…」
「二の姫、君があわてることはない。わかっている。どうせ柊のいつものくだらん戯言だ。
真に受けて怒るだけばかばかしい」
「ひどいですねえ、忍人。私は姫に真剣に御指南申し上げているのに」
「何をだ」
「いやそれはまあ、いろいろと」
「くだらん」
…一言で終わりだ。…既定伝承の話を、面と向かって千尋が忍人にしたことはないが、き
っと話しても今のようにくだらん、で終わるんだろうなあ、と思う。
「忍人さん、帰ってきてたんですね」
「今帰ってきたところだ。兵の様子を見に行ったら、風早が、『千尋に部屋に戻るように、
柊に探しに行かせたのに、いつまでも戻ってこない』というものだから、探しにきた」
「風早が?」
千尋は柊を見た。柊は平然と風早の職務怠慢を非難してみせていたのに、実は風早に言わ
れて千尋を探しに来ていたのだったか。そして。
「ご、ごめんなさい、帰ってきたばかりなのに」
疲れている忍人が捜索隊に駆り出されるとは。
思わず謝る千尋に、忍人は肩をすくめた。
「謝らなくていいから、早く部屋に戻ってくれ。俺がこのままここで君と立ち話をしてい
たら今度こそ風早本人が君を迎えに来るぞ」
……ミイラ取りがミイラになるって、こういうときに使う言葉だったかな。なんとなくそ
んなことを思い出す。
「では我が君、参りましょうか?」
柊が差し出した手につかまると、忍人が安堵とも呆れともとれるため息をついたのが聞こ
えた。振り返ろうとした千尋の手を柊がぐっと握って、忍人に聞こえないようにささやく。
「姫。…これでいいのです」
…これでいい。なにが?なんのこと?
「いいのですよ。これで」
…堅庭へ続く扉が、静かに閉じる。

これでいいのですよ、姫。
貴女に惹かれなければ、いいえ、貴女方が惹かれ合うことさえなければ。…忍人は魂を削
りすぎることもなく、ながらえるはずです。

貴女に恋をしなければ…。