絆

その扉の前で、二人は思わず互いの手を握りしめた。
「………どきどきする?」
那岐は千尋の顔を見ずに問う。どんな表情をしているのかは見えない。けれど声は固い。
握りしめている指先も冷たい。
「…少しだけ」
自分の声も少し緊張して固い。
那岐は今、何を思っているんだろう。
考えかけて、…やめる。
代わりに那岐の手をきゅっと強く握る。
「行こ、那岐」
答えはなく、ただうなずいた気配が風で伝わる。
そして那岐は風早の部屋の扉を開いた。

部屋の中、風早は窓を向いて立っていた。二人が部屋に入っていくと、ゆっくり振り返る。
顔が逆光になってよく見えない。
千尋は目をこらした。
口元は笑っているようだ。……けれど、ひそめられた眉が苦しそうで、一生懸命微笑もう
としているその努力を打ち消してしまっていた。
どれくらい見つめ合っただろう。とても長い時間のような気がしたけれど、意外と一分く
らいだったかもしれない。思いを決めて風早のところに来たというのに、いざ彼の顔を見
るとどう切り出していいかわからなくなって、千尋と那岐が押し黙っていると、静かに風
早がつぶやいた。
「……思い出したんだね」
千尋は一瞬ぎゅっと目を閉じた。
予想はしていたことだけれど、改めて、ああ、やっぱり、と思う。
風早は忘れていなかった。風早だけは何一つ忘れていなかったんだ。私たちが、何か忘れ
ているような気がしてむずむずしていた時期はもちろん、すっかり忘れてしまって、何事
もなかったかのようにあちらの世界で暮らしている間も。
一緒に笑いながら、…彼は何を考えていたのだろう。
「…私、…どうして忘れてしまったの」
千尋の口をついて出た言葉に、風早は少したじろいだ顔をした。千尋としては、決してそ
んなつもりはなかったのだが、風早は千尋からの糾弾と受け止めたようなのだった。
そしてそう受け取ったのは風早だけではなかったらしい。
那岐は庇うように少し風早と千尋の間に体を割って入れ、千尋に向き直った。
「…それは僕が説明した方がいい気がする」
風早から聞くより、僕から聞く方が客観的だろう。そのときのことは僕も思い出した。
「忍人が消えた次の朝、千尋は何もかも忘れてしまっていた。…風早は、そのことに本気
で驚いていたよ。どうしてそんなって顔してた。だから確かに千尋は自分で、…忍人がい
なくなったことが辛くて、楽しかった記憶を消したんだ、と思う」
いつもよりも少し低い声でそう千尋に語りかけてから、しかし那岐はかすかに眉をひそめ
て、硬い顔で風早に向き直った。
「でも、……僕の記憶がなくなったのは、千尋とは違う原因だろ」
声には出さなかったが風早の口がかすかに、お見通しだね、と動いたようだった。
「そっちは、俺だ」
低くつぶやく風早の顔は、急に十も老け込んで見えた。
「現実問題として忍人はあちらの世界からいなくなった。…まず間違いなく戻らないだろ
うと俺は思った。だから、あちらの世界での整合性を取る必要があった。まさか警察に捜
索願を出すわけにもいかないからね」
一瞬の間。次の瞬間、息と共に吐き出すように彼は言った。
「だから俺は全てを消した。那岐の記憶も世界の記憶も全て」
「……」
千尋は思わず那岐の顔を仰ぎ見た。那岐は苦い顔で唇をかんでいる。かみしめて白くなっ
た唇が、彼が口を開くときふわっと赤くなった。
「他人の記憶や忍人の存在の記録を消す必要はわかるけど」
睨んでいるみたいな目だ。
「僕の記憶を消す必要はあったの?」
「……」
風早は答えない。
「……」
那岐はしばらく返事を待った。……だが、どうしても風早がそれについては答えないのだ
と見て取って、あきらめたか肩をすくめた。
「…じゃあ、忍人はなぜ忘れてる?」
那岐の話の矛先が変わったから、きっと風早はほっとするだろうと思った。…しかし、話
が変わってもなお、風早の顔は暗く、声は苦い。
「そちらは俺の想像でしかないけれど、…たぶん、時の力だと思う」
「……?」
その返答に、那岐と千尋は思わず顔を見合わせた。那岐のうさんくさそうな、納得いかな
げな顔を見ながら、きっと私も同じ顔をしているんだわ、と千尋は思う。なぜなら、二人
の表情を見比べた風早が、苦いながらもうっすらと笑みを浮かべたからだ。きっと鏡に映
したようにそっくりなその表情に、知らず笑みがこぼれでたのだろう。
だがすぐにその顔は厳しさを取り戻した。…いや、厳しい、というよりは、苦痛に歪んだ
顔と言うべきか。
「そうだね。…俺は、時の力のことを説明する前にまず告白しなければならないことがあ
った」
風早はじっと二人の顔を見たまま、長い長いため息をついた。己の逡巡を、その呼気で吐
き出そうとするかのようだった。息を吐き終えた風早は一瞬うつむいたが、やおら顔を上
げ、口を開く。
「……元々忍人は、あちらの世界へ行くはずじゃなかった」
一瞬、千尋と那岐はぽかんとした。
風早の意を決した告白ぶりに比して、内容がたいしたことではない気がしたのだ。…が、
那岐がまず眉をひそめ、千尋もはっと口に手を当てる。
それを見澄まして、風早は再び口を開いた。
「あちらの世界へ行くのは千尋と俺と那岐だけ。忍人は、道臣や布都彦のようにこちらに
残っているはずだった。こちらですべきことがあった。……それを、俺が無理矢理、一緒
に連れて行ってしまったんだ」
千尋は一瞬、どうして、と問おうとして、…やめた。聞くまでもないと思い直したからだ。
風早はそうしたかったのだ。忍人を一緒に連れて行きたかったのだ。それ以外の理由もあ
るかもしれないが、何よりも忍人を連れて行きたかった。きっとそれだけ。
「だから、忍人だけが連れ戻された。本来豊葦原で彼がするべきことを、実際なさしめる
ために。…時の力で」
「待った」
那岐が千尋の手を離して、先生に質問するときのように片手を挙げた。挙げていない手で
眉間を押さえている。
「それは、…いったいどんな力?……もしかして、龍神の、…神の力?」
「いいや」
風早は首を横に振った。
「言ったとおりだ。時の力さ。神でさえ介入し得ない力だ、…と思う」
語尾はなんだか慌てて付け足したように聞こえた。…気のせいかもしれない。
那岐はまだ眉間を押さえている。その掌ごしに風早を見て。
「……つまりそれが、…既定伝承、ってこと?」
「…!」
一瞬風早は鋭く息を呑んだ。何故君がそれを、と言いたげな顔が、吐き出す息と共にゆる
ゆると変化し、どこか納得したように、そうか、とかすれる声でつぶやいた。
「…柊だね」
那岐が無言でうなずくと、風早はもう一度、そうか、と言った。
「………そうだね。……そう解釈していい、と思う」
那岐はその答えを聞いて、眉間から手を離した。もう一度、千尋の手をそっと握る。その
どこかおずおずとしたそぶりは、彼が勇気を必要としているからのように思えて、千尋は
触れた手をきゅっと強く握った。
この力と、この熱が伝わるように。
私は、那岐を信じてる。那岐がこれから何を言おうとしているのかはわからないけど、…
それはきっと、忍人と風早と私たち、みんなのための言葉だと信じる。
那岐と風早の間に流れる緊迫感に気圧されて、その言葉を口に出せない自分を千尋は少し
情けなく思う。けれども那岐にはちゃんと千尋の思いが伝わったのだろう。視線はしっか
りと風早に向けたまま、口元が力を得たようにふわりと笑った。
微笑んだ口元と糾弾の眼差しで、那岐は静かにつぶやいた。
「だから、風早はあきらめるのか?」
風早はもう一度息を呑んで、今度はそのまま固まる。
那岐はじっと風早を見つめている。風早を糾弾しているのであろう彼は、けれど、どこか
悲しそうだった。
「忍人が言ってた。風早は何でも前もって知っているみたいだって。だからもしかしたら、
この先僕らが、忍人がどうなるのか、それも風早は知っているのかもしれない。…だけど、
だとしても、これだけは譲らない。僕と千尋はあきらめない」
そう言ってきゅっと千尋の手を握り直し、
「…きっと、忍人の記憶も取り返す」
那岐は強い声で言い切った。
固まっていた風早がふー、と長い重い息を吐く。指を組んだ手を額に当て、親指でこめか
みを押さえつけている。
懊悩、という言葉がふと千尋の頭に浮かんだ。その言葉を絵で表すとしたら、まさしく今
の風早の姿になるだろうと。何か目に見えない重い荷物を肩に負って、けれどその存在を
公言も出来ずにただ耐える姿。
一言も声を出さないその姿がつらくてたまらなくて、ずっと閉じていた千尋の唇がふわり
と開く。那岐の手を離し、風早に駆け寄って、幼いときにそうしたようにぎゅっとその体
にすがりついて。
「自分を責めないで、風早」
千尋がつかむ風早の体がびくりと大きく震える。
「ずっと思ってた。風早はいつも一人だけで何かを背負い込んでる。私たちを守るのも、
あの家を支えるのも、いつも風早は一人でやろうとしていた。…そうよね」
風早は何も言わない。千尋の手に触れる彼の体はいつもよりも少し冷たい。
「でも私たち、少しは強く大きくなったと思う。まだ手助けはたくさん必要だけど、時に
はあなたを守ることだって出来ると思う。…今なら一緒に戦える」
傍らに気配を感じて振り返ると、那岐が近寄ってきていた。うなずいて、風早をつかんだ
千尋の手に手を重ねる。
風早が瞳を開いた。どこかふぬけたような目で、二人の顔を交互に見つめる。
「だから風早、あきらめないで。自分一人で何かしようとしないで。確かに、お兄ちゃん
の記憶を取り戻すために、何をしたらいいのかはわからない。でも私たち、風早一人にそ
れをしてほしいわけじゃないの。一緒に取り返したいの。…それに、お兄ちゃんは、…忍
人さんは、いつかきっと思い出してくれるはずだから」
「………千尋」
かすれる声で風早はつぶやいた。その声の中にかすかに潜む懸念の色を、千尋はきっぱり
と首を振って否定した。
「だって、忍人さんの中には、忍人さんのことを必死にお兄ちゃんって呼ぶ女の子がいる
の。自分が作った変な料理を笑いながら怒りながら食べてくれる家族がいるの。今はそれ
をただの夢だと思いこんでいるけれど、忍人さんの記憶は決してなくなっていない。閉じ
こめられてるだけなの。だからいつかきっと忍人さんは思い出す。私はそう信じてる」
多くは望まない。あの世界のあの家に帰りたいわけでもない。思いを伝えられればとは思
うけれど、それが叶わなくてもかまわない。ただ。
「テーブルに椅子が四つあって、みんなで一緒にご飯を食べる、…ただそれだけでいい」
家族みたいなあの暮らしを。もう一度。
「…お願い。手を貸して。…それが無理ならせめて、…あきらめないで」
信じて。
風早は千尋を見た。ゆるりと首をめぐらせて那岐を見た。すがめた瞳に何かがきらめいて、
それが何かと千尋が目を凝らすよりも早く、彼は瞳を閉じてしまった。
…が、再びその目が開いたとき。
風早は静かに、力強く微笑んでいた。
「…ああ。…そうだね、信じよう」
僕らのこの絆が、時の力よりも強いことを。

千尋は胸に隠した小さな袋を、…その中に入っているあの玉を、強く握りしめた。
何をすればいいのかはわからない。けれど私は必ず取り返す。
大切な、たった一人のあなたを。