辛夷

忌み子である僕を人知れず育てるために師匠が移り住んだのは、山深いところにある小さ
な庵だった。その庵で僕は、花よりも草、草よりも木に親しんで育った。
木と共に暮らす生活は、草を見て暮らすよりも時間の流れが緩やかなように思う。たぶん
木がゆっくりと生長するからだろう。……とはいえ、そんな山奥にも、春を告げる花は咲
く。
僕にとっての春告げ花は、梅でも桃でも桜でもなかった。山をいくらか下りればもちろん、
薄紅や濃紅に鮮やかなそれらの花も咲いていたのだろうけれど、なるべく庵から遠く離れ
ないようにしていた僕には、花の時期を選んでそんな場所まで足を伸ばす機会はほとんど
なかった。
…ただ一本、こぶしの木だけは庵の傍らに植わっていて、季節が来ると、天に手を伸ばす
子供の拳のような花を、たくさん、たくさん、…うっとりと夢に見るほど、咲かせてくれ
た。僕にとっての春は、そのこぶしの花だったのだ。
暦を数える知識は、その頃の僕にはなかったけれど、その木のおかげで季節の訪れだけは
知ることが出来た。…だから、彼と初めて出会った日のこともよく覚えている。…何年前
だったかは思い出せない。でも春だった。…こぶしの花が爛漫に咲き誇っていたから。

その日、師匠は山を下りていた。僕は日課の水くみに、清水がわき出す泉へと何度か往復
していた。
本当は泉ではなく谷川の方へ降りれば、もう少し短い時間で往復が出来るのだけれど、僕
は何となく、川に近づくのが余り好きではなかった。たぶん、過去の経験のせいだろう。
見るのが怖いというほどではないのだけれど、忌避できるものなら忌避したい。
それに、僕が庵と泉を往復している間、庵が空になるからといって、とられるようなもの
があるわけでなし、訪なう人もない…はずだった。
泉は庵の裏手、庵よりももっと山を登っていった先にある。僕が日々往復するので、踏み
分けた細い道が一本出来ている。でも、麓から山を登ってきた人にとっては、道はこの庵
で行き止まりに見えただろうし、その奥から誰かが出てくるなんて思いもよらないだろう
なと思う。
その細い細い道を、水を担いでゆっくりと庵へ下る途中、僕はふと身をすくめた。
…気配がする。
師匠の戻りは夕方になるはずだが早まったのだろうか、と思ってから、僕は首を横に振っ
た。師匠の気配じゃない。
庵に近づいて、視界が開ける。
…僕は一瞬目を疑い、足を止めた。
一頭の獣が、枝先のこぶしの花へ鼻面を伸ばしていた。匂いを確かめるように、うっとり
と目を閉じている。その身体は金と白に輝いてまぶしいほどだ。
一瞬、狗奴の誰かが師匠を訪ねてきたのかと思った。でも獣は四つ足で立っているし、角
も二本生えている。鹿かカモシカかもしれないと思い直したが、彼らにはたてがみも長い
尾もないはずだ。
水をおろし、僕は目をこすった。そして改めてこぶしの木を見て、再び驚きで口をぽかん
と開けてしまった。
…そこに立っていたのは、光の加減で少し青く見える髪をした、長身の青年だった。織り
と仕立てがいい服は白く輝いていたけれど獣の毛並みではなく、もちろん四つ足ですらな
く、それどころか、狗奴ですらない。つるりとした彼の肌は、ごく普通の中つ国人のそれ
だ。
うっとりとこぶしの花を愛でていた彼も、どうやら僕の気配に気付いたようだ。ぐるりと
首をめぐらせ、おや、と目を丸くした。…たぶん、僕がそんなところから現れるとは思わ
なかったのだろう。
「…君が、那岐?」
やわらかな声に呼びかけられて、僕は少しどきりとした。まだ先刻の獣の姿の残像が頭か
ら消えていないし、それに何より、彼とは初対面だと思う。何故、僕の名前を知っている
のだろう。
僕の表情を、彼は瞬時に見て取った。ゆっくりと首をかしげ、ごめんね、驚かせたかなと
頭をかく。
「俺は、四道将軍岩長姫の使いで来た者だ。…君は、岩長姫の名を知っているかい?」
僕はこくんとうなずいた。師匠が隠棲した後も、何かと師匠を気遣ってくれる数少ない一
人だ。よく届け物をしてくれる。……でもいつもは、もっと年を取った鶴のような男の人
が、えっちらおっちらとやってくるのだが。
まるで僕の心を読んだかのように、彼は話を続けた。
「俺は岩長姫様の弟子で、屋敷に住まわせてもらっている。…いつもは師君の屋敷の家令
殿がこちらに届け物に来られているのだけれど、家令殿もそろそろお年でね。この山の奥
までやってくるのが少々辛いと仰るので、今回は俺が代わりに来たというわけ」
…少し、事情が飲み込めた。確かに、あのおじいさんにはここの登りは辛いだろう。前に
訪ねてきたときも、ふうふう息が上がっていたっけ。
…でも。
「…師匠なら、留守だよ」
僕はぼそりと言った。何の用かは知らないが、彼はきっと師匠に言付けと荷物を持ってき
たはずだ。…そう思って言ったのに、思いがけず彼は、ああ、うん、とうなずいて、知っ
ているよと言った。
「麓の方で偶然行き合ったよ。用件を話したら、庵に君がいるはずだから渡しておいてく
れと仰ったよ。そもそも君宛の荷物だからね」
「…僕に?」
思わず聞き返してしまった。そうだよと彼は笑う。
「君はどんどん大きくなる頃だろうから、そろそろ着替えがいるんじゃないかってね。…
うちの弟弟子のお古らしいし、お節介と感じるかもしれないけど、よかったら使ってくれ
ないかな」
彼は妙に嬉しそうに、いそいそと包みを開けた。僕は自分の服の袖や裾を思わずつんつん
と引っ張る。…確かに、どこもかしこも少し短くなってきている、…かもしれない。毎日
のことだから、自分ではちっとも気付いてなかったけど。
僕が自分の服を見下ろしている間に、彼は包みの中から取りだした服を持って、僕の胸に
あててみた。…そして、優しく笑う。
「…うん、よかった、間に合いそうだね。…今は少し大きく感じるかもしれないけど、す
ぐにぴったりになるよ」
それから、僕の髪と服とをまじまじ見比べた。
僕の髪は、中つ国の民には少ない光の色だ。気味悪がる人もいる。彼もそうなのかと一瞬
身構えたけれど、どうやらそうではなくて、
「君には緑色がよく映るね」
彼は笑ったのだった。
「木と葉と草と芽と、…萌え出づる生命の色だ。…君の、………にふさわしい」
「…え?」
ぼそりと彼が付け加えた言葉が聞き取れなくて、思わず聞き返したが、何だいと微笑み返
されて何となく言い出し損ねた。きっとたいしたことではないんだろう。……たぶん。
僕がそれきり何も言わないのを、静かに、いぶかるでもなく微笑んで見ていた彼は、やや
あって、じゃあね、と僕に声をかけた。
「届け物もすんだし、俺は帰るよ。…戻られたら、先生によろしく」
それだけ言い置いて背を翻す彼に、僕は思わず声をかけた。
「…あの!」
彼は足を止め、振り返る。
「何だい」
微笑みはずっと変わらず柔らかい。何を訝しむ色もない。…まるで何もかも、前もって予
想しているみたいだと、僕はちらりと思った。
「…その、…あんたのところの先生に、ありがとうって。……それから」
僕はこくりとつばを飲んだ。
「…あんたの、…名前は?」
僕の名を彼は知っているのに、彼の名を僕は知らない。…それが何だか釈然としなかった。
彼は僕の問いに破顔して、それから、はきはきと教えてくれる。
「風早だよ。…かざはや。…よろしく、那岐」

…それが、僕と風早の出会いだった。白くやわらかなこぶしの花と共に、僕は彼の名と彼
の不思議を胸に刻んだ。

やがて戦乱の時が過ぎた。共に闘い、神に勝利し、千尋の即位を見届けた後で、彼は忽然
と姿を消した。桜を追うように、競うように、ちょうどこぶしの花が咲き始めた、春の盛
りの頃だった。
意気消沈する千尋を支えながら、けれど僕はぼんやりとこう思っていた。

…恐らく僕らは、人としての風早に会うことはもうないのだろう。だが彼は、いつか見た
あの白い獣の姿になって、いつでも僕らを見守っているんじゃないだろうか。……もしか
したら、その姿の彼になら、いつかどこかでひょっこりと出会えることもあるかもしれな
い。

彼と出会ってから、何度目かのこぶしの花を眺めながら、僕はそんなことを考える。
開きかけたこぶしの花は、白い獣の鼻面に似て、……獣に戻った風早が、どこかで僕の考
えをくすくすと笑っているような気がした。