鼓動

前をほとほとと歩いていく頼りない姿に見覚えがある。どこかおろおろと辺りを見回しな
がらなのが妙に目立つ。
「ひなちゃん?」
声をかけると、足が止まった。ほやん、と首を回して声の出所を探す様子なのがおかしく
て、わざと彼女が見ていない方向からぽん、と肩を抱く。
「ここだよ」
「…っ、…びっくりした、大地先輩!」
「ごめんごめん」
小さなこぶしで叩くふりをするかなでに、当たってもいないのにわざとらしく痛がってみ
せてから、どうしたの、と改めて大地は聞いた。
「一人かい?律や響也はどうした?」
今日は天音学園のコンサートがある。冥加の招待でオケ部あてにチケットが五枚送られて
きた。手紙の一枚もついていないのが彼らしいというか、妙に不親切だったが、枚数と経
緯から察するにこれはコンクールのアンサンブルメンバーで聞きに来いということかと判
断し、皆で出かけることにしたのだったが。
大地の前で、かなでは一人、少し困った顔で首をかしげている。
大地は普通科で音楽科とは少しカリキュラムが違うため、最初から現地集合でと伝えてあ
ったが、音楽科の4人は連れ立っていくと聞いていた。ましてかなでは音に聞く方向音痴
だ。…放っていくとは思えないが。
「…えっと、実は、ですね」
かなでは気まずそうに頬をかいた。
「途中でお店のウィンドウによそみしてたら、…はぐれちゃって」
「……」
大地は、ぷ、と吹き出した。とたんにかなでがむくれる。
「大地先輩、笑うなんてひどいです」
「ごめんごめん、つい」
笑いを手で押さえながら、携帯は?と聞いてみた。
「はぐれたときに電話しなかったのかい?あっちも心配してるだろうし、一度かけたほう
が…」
話している途中にどんどんかなでの顔が情けなくなっていく。
「…あのね、ひなちゃん。…まさか」
「…携帯持ってくるの、…忘れちゃったんです」
「……」
今度こそ大地は身を折って大笑いしだした。
「うわーん、大地先輩、ひどいひどい笑いすぎー!!」
ぽかぽかとかなでが本気で叩いてくる。
「痛い、痛いって、ひなちゃん。悪かった、ごめん。俺と一緒に行こう。…ね」
ちょっと待ってて。連中も心配しているだろうし、一度電話するよ。
大地はポケットから携帯を取り出すと履歴に一番多く残っている番号を選んだ。…たいし
てコールしないうちに、聞き慣れた静かな声が
「俺だ」
と応じる。
「もしもし、律?…ひなちゃん、俺が拾っていくよ」
「小日向と会ったのか?」
とたん、電話の向こうで誰かがわあわあと騒ぎ出した。声が重なっていて聞き取りづらい
が、おそらく響也とハルだろう。
「ちょっと、そっち静かにさせて。…ああ、うん。…そうだな、会場で合流しよう。それ
じゃあ」
電話を切ってかなでを見下ろすと、おずおずとした顔でかなでも大地を見上げてきた。
「…あのう、…律くん達、なんて」
「いや、律は特に何も言ってなかったけど、後ろがずいぶんうるさかったよ。…会場に行
ったら覚悟しておくといい」
「ううー」
半泣きでうなるのがかわいいやらかわいそうやらで、大地は今度こそ笑いをこらえながら、
よしよしとそのふわふわした髪を撫でた。
「大丈夫。あんまりひどく奴らがやいのやいの言うようなら、俺が言い返してあげるよ。
そもそも男三人もいて、女の子一人を見失うなんてどうかしてる」
ね、となだめると、ようやく情けない顔に笑顔が浮かんだ。それから大きなため息を一つ
ついて、ぽつりとつぶやく。
「大地先輩みたいなお兄さんがいたらよかったな。優しくて、かっこよくて。周りに自慢
できそう」
「あれ、でも、ひなちゃんには律が兄貴みたいなものだったんだろう?」
幼なじみ三人、兄弟のように育ったと聞いているが。
大地の言葉に、かなではわざとらしく難しい顔を作ってみせた。
「まあ確かに妹扱いではあったんですけど、律くんがお兄ちゃんだと、もれなく響也と喧
嘩したときの仲裁役がついてくるので」
大地は思わず吹いた。今度は自分の失敗に関してではないので、かなでも怒らない。
「なので、頼れるお兄ちゃんに甘える、って感じではなかったです。それに、日常生活的
にはどっちみち頼れるお兄ちゃんじゃなかったし」
「厳しいなあ」
大地が苦笑すると、かなでも苦笑しながらさらりと付け加えた。
「ハルくんだって大地先輩には厳しいでしょう?律くんには心酔しているみたいだけど。
同じですよ」
「…ナルホド。…ひなちゃん、いいこと言う」
しみじみつぶやいたので言われた方は額を指で押さえる。
「…えーと、ほめていただいたと思っていいんでしょうか」
「もちろん、ほめてるよ。ひなちゃんの鋭い観察力を。…俺も、ひなちゃんみたいな妹が
ほしかったなあ。機転が利いて可愛くて、おまけにヴァイオリンが上手い。言うことない」
かなではいまだに大地の軽口には慣れないようで、喜んでいいのか困るべきなのかとあい
まいな表情を浮かべ、無言で首をすくめた。その華奢な手元に、大地はそっと片手を差し
出す。
「…?」
「お嬢様、お手をどうぞ?…今度こそ、君をはぐれさせるわけにはいかないからね」
「またそういう言い方を」
たしなめるように唇をとがらせたものの、はぐれるわけにはいかないという一言が効いた
のか、結局かなでは大地の手を取った。
会場まではまだ少し歩く。手をつないだまま進んでいくと、ちらちらと視線を感じた。女
性からの視線もあれば、男性からの視線もある。
仲良く港のそばをそぞろ歩いている風情の二人は、実際、周りから見たらどう見えるのだ
ろう。
どうやら、同じことをかなでも考えたらしい。
「こうやって歩いていたら、恋人同士に見えたりするんでしょうか」
小首をかしげて見上げてくる少女をまじまじと見て、大地はふっと笑った。
「…大地先輩?」
「まあ、そう勘違いしてもらえるとうれしいけど、たぶんそれはないと思うよ。みんな、
仲のいい兄妹だなー、くらいに思ってるんじゃないかな」
「どうしてですか?」
「だってひなちゃん、全然俺にどきどきしてないだろう?」
図星を指されたのか、かなでがうっという顔をした。
「なんだか、安心しきってる顔なんだよね。恋人と歩いていてその顔はないでしょ。…信
頼してもらってるのはうれしいけど、あんまり安全だと思われるのも切ないなあ、男とし
ては」
「えとその、それは、大地先輩を男性として意識していないというわけではなくて、さっ
きまでひとりぼっちで心細かったのが解消したからというか、これでちゃんと会場にたど
りつけるっていう安心感から来てるというか、なんというか、その」
「安心してていいのかなあ。…男は誰だって狼なんだからね。油断してると、知らないよ?」
わざと少し低い声で、耳元にささやくように言うと、とたんにかなでが固まった。
「え」
足も止まる。大地はくつくつ笑った。
「…冗談だよ」
「……っ、大地先輩ー!!」
「ごめんごめん」
ほら行こう、と手をひいて少し足を速めようとしたときだった。
「このタレ目、かなでから離れろ!手ぇつないでんじゃねえっ!!!」
前方で誰かが絶叫した。
見れば、見慣れた顔が並んでいる。ホールはまだもう少し先だが、ここからは一本道で行
き違いになりようがない。なので、ここで待っていることにしたらしい。
全力で叫んで、ふーふー肩で息をしている響也に、傍らのハルが肩をすくめている。
「大地先輩と二人で来るという時点で、予想できた状況でしょう。何を今更」
「…やれやれ、名残惜しいけど」
大地は、手をわざと響也に見せつけるように持ち上げて、かなでに笑いかけた。
「はぐれちゃまずい、っていう言い訳が出来なくなっちゃったね」
かなでは笑みを含みつつもたしなめる眼差しで大地を見てから、
「そうですね。…律くんもなんだか困った顔ですし」
思いがけないことを言う。思わず大地は前方をうかがった。今にも飛びかかってきそうな
響也、呆れ顔のハルの傍らで、律はただ冷静な顔をして立っているように見えるが。
「こんなに遠くてよくわかるなあ」
「眼鏡のフレームをずっとさわってるでしょう。押し上げてるわけじゃなくて。ああいう
ときの律くんは、だいたい困ってるんです。…伊達でずっと幼なじみはやってません」
どうして困ってるんでしょうね、と、悪戯っぽくかなでがつぶやいて、自分から大地の手
を離すのと、こらえかねた様子の響也が飛んできてがば、とかなでを引っ張るのはほぼ同
時だった。
「痛い、響也」
「うるせえ!」
「もう迷子にならないから」
「わかるか!そもそもなんではぐれたんだ!」
兄妹げんかか痴話げんかのような会話を交わしながら歩いていく響也とかなで、のんびり
ついて行く大地が合流すると、
「では行こう」
何事もなかった顔で律は歩き出す。
「どっちもしょうがないですね」
響也と大地を等分に見やってわざとらしくため息をつくハルを、肩をすくめただけでいな
して、大地は足を少し早め、先に立つ律に並び立った。
「小日向を見つけてくれてありがとう、大地」
先に口を開いたのは律だった。…いつもよりも少し早口だ。
「律に礼を言われることじゃない…と言いたいけど、素直に受け取っておこうかな。…男
三人いて、女の子一人を迷子にするものじゃないよ」
「…反省している」
言葉少なに応じて、律はそれきり黙りこくった。ホールがもう目の前だったからか、それ
とも別の理由なのかは、大地にはそのとき計りかねた。

終演後、楽屋に天音のメンバーを訪ねるというハルとかなで、それにつきあう響也に、挨
拶とチケットの礼を託し、律と大地は一足先にホールを出た。
元々、そう饒舌ではない律だったが、今日は特に無口だ。一言もしゃべらず、ただ黙々と
先を急ぐ。
いつもなら律にあれやこれやと話しかける大地も、なんとなく気圧されてしまって何も言
えず、ただ律の歩みに歩を揃えた。
無言で歩き続ける律。
その足取りはまるで、何かを振り切ろうとしているかのようだ。
そう気付いたとたん、大地の足は、影に釘でも打たれたかのように止まった。
「…っ」
大地が立ち止まっていることに気付かず、律は歩いていく。その背中がみるみるうちにホ
ールから駅へと向かう人の波に紛れていく。喉が妙にねばついて、うまく声が出せない。
無理矢理つばを飲み下し、大地は口を開いた。
「…律」
やっと出た声は、自分でもびっくりするほど、かすれて小さい。雑踏に紛れて、律には届
かないかと思った。
だが律は足を止めた。当然のような顔をして傍らに顔を向け、大地の姿がないことに気付
いてうろたえ、きょろきょろと辺りを見回す。
そのそぶりを見て、情けなくもほっとしている自分に大地は失笑する。
…律が振り切ろうとしていたのは、どうやら自分ではないらしい。
「…今、追いつくよ」
さっきよりは少し大きな声が出た。律も大地の姿を見つけたようだ。ほっと肩で息をつく。
「…すまない、離れていることに気付かなかった」
ようやく聞けた律の声は、一見いつもと変わりないようでいて、どこか暗く沈んでいた。
「いや、俺の方こそ。…どうにも、人が多くて歩きづらいな」
よく出来た嘘を平然とついて、大地は律をじっと見つめた。
立ち止まる二人を人の流れが追い越していく。迷惑そうにちらりと視線を投げる人もいた
が、ほとんどの人は、二人を風景の一つのようにさらりと無視して通り過ぎる。
微笑みあい、語り合いながら通り過ぎる男女の二人連れは恋人同士だろうか。彼らには、
律と大地は愚か、光り輝いて美しい港の夜景すら目に入らないだろう。見えているのは互
いだけといわんばかりの風情を苦笑で大地が見送ると、律もその二人を目で追って、…ぽ
つりと言った。
「…絵になっていた」
「……?今の二人が?」
大地は首をひねる。……まあ、…初々しいカップルの見本のような二人連れではあったが。
「ちがう」
律は笑って、小さく首を横に振り、少し目を伏せて付け加えた。
「…今日、手をつないできた、お前と小日向が」
……。
一瞬返す言葉がなかった大地に、行こうか、と、目を見ないまま話しかけて、律はさらり
と歩き出した。大地が慌ててその傍らに並ぶと、気配を感じたのか、また律はぽつりとつ
ぶやく。
「お前達が俺たちに気付くよりもたぶん、俺たちがお前達に気付く方が早かった。人の流
れの中で、二人だけ浮き上がるように見えたんだ」
とても自然で、楽しそうで。
「誰が見ても、かわいらしいカップルだと微笑ましく思うだろうなと、……思った瞬間、
胸が灼けて」
どす黒い嫉妬が、胸を満たした。
「あの時、響也が大騒ぎしてくれてよかった。…でなければきっと、俺が何か口走ってい
ただろう」
思いがけない告白に、大地はただただ息を呑んで聞き入るばかりだった。ずっと大地を見
なかった律が、ふと、視線を大地に流して、すぐにそらした。そむけられた眉間に一つ、
痛みのようなしわがある。
その瞬間、大地の喉に何かがぐうっと盛り上がった。
「……律」
何かを押さえつけるように、大地は恋人の名を呼ぶ。
「……」
律は大地を見ない。…足が少し早くなった。
「…律」
もう一度、今度はもう少し大きな声で名前を呼んで。
「デートしようか、律」
そう言って、大地は律に手を差し出した。
「……は?」
思いがけない一言だったのだろう。律はぽかんと虚を突かれた顔で、大地を振り返る。い
っそ怖じ気づいているようにも見えるその眼差しに笑いかけ、
「ほら、手を出して」
うながす。
律の顔は少し緊張で強張っている。差し出された手を取る気配もない。どこかうろたえ、
拒むような気配だ。
だが大地は無理矢理に律の手を取った。そのまま、指を絡め、手首を絡めるようにして手
をつなぎ、身体と身体で、つないだ手を守るようにかばって歩き出す。
「…大地」
人目を気にしてか、律の顔には夜目にも鮮やかに朱が散っている。ふれあった手首で感じ
る脈も早い。大地は薄く笑った。
「…どきどきしてる?」
「…」
律は無言だ。だが、うつむいてこぼれた髪の間からのぞく赤くなった耳と、震えをこらえ
るように噛みしめた唇がそれを肯定している。
「ひなちゃんはね、律。…俺と手をつないでも、全然どきどきしないんだよ」
首が少し動いた。視線がそっと大地を確かめる。
「ほんとに。…俺のことは良き先輩だと思って、安心しきってるんだ。だから、見る人が
見たら俺たちはたぶん、仲のいい兄妹にしか見えないと思う」
……でも、律は違うだろう?
形のいい耳に低くささやき、大地はいきなりぐいと律の手を引いて、道をそれた。
帰りを急ぐ人は皆、明るく輝く駅への道を目指すので、角を一つ曲がっただけでとたんに
人気がなくなる。無機質なビルが建ち並ぶ道をもう一本入れば、どこか怯えた顔の律の肩
を抱いても、誰も見とがめない。
顔を近づけると、律はぎゅっと目をつぶり、身を固くした。
大地は低く笑う。
「…何されるんだろうって、どきどき、した?」
弾かれたように律は顔を上げた。見透かされて悔しがるような、そんなことはないと抗議
するような。
その瞳をのぞき込んで、真面目な声で大地は言った。
「…俺は、どきどきする。…律に、何かしたくてたまらない」
誰も見てない。でも誰か通るかもしれない。背中に聞こえる雑踏のざわめきと見開かれた
律の瞳が、大地の中の加虐心をあおる。
「してもいい?」
びくりと震える唇をあえて無視して、大地は律を抱きすくめ、その左耳の耳たぶを軽くか
む。
左胸と左胸が触れあい、鼓動と鼓動が響き合う。律の鼓動も自分の鼓動もひどく早い。
…否。
「…どっちがどっちの心臓の音なのか、…わからなくなる…」
律がつぶやいた。
かすかにずれて響いてくる、忙しない生命の営みのしるし。整わないリズム。
大地は吐息で笑う。律の首筋に指を当てて。
「…俺は、わかる」
鼓動を数え、リズムを取る。
「こっちが、…律の音」
大地の声に応じるように、ためらいがちに律の手が大地の首に回された。指が同じように
大地の首筋をたどり、そっとリズムを刻み始める。
「…そうか。…これが、大地の音か」
その声にありありと安堵の色がある。大地は愛おしさに震えた。
「…妬いてくれてありがとう、律」
「……なんだそれは」
思わず口走った一言に、苦笑と憮然が相半ばする声で律は言い返し、そっと、大地の胸を
押し戻した。
「…律」
不満げな大地に、静かに笑って。
「ありがとうと言うなら、礼がほしい」
「…どんな?」
不得要領な顔を悪戯っぽい目で見て、律は大地の手を取り、もう一度指を絡める。
「デートの続きをしよう。……それから」
ささやかれた言葉に大地は片目をすがめて苦笑した。

はぐらかさないで、…ちゃんとキスして。