子供の領分

「道臣殿」
朗らかな声に呼び止められて、道臣は足を止め、振り返った。
「羽張彦。…何か?」
「柊を見なかったか?書庫にいないんだ」
「柊なら、師君に言われてお使いに出ましたよ」
「あ?…なんだ、そうか。…探してもちっともいないと思った」
ちぇー、と軽く首を回して、ふと羽張彦は、なあ、道臣殿、と言った。
「はい?」
「兄弟はいるか?」
「私ですか?…まあ、…父と母にこだわらなければ、それなりに」
「ははは」
その言い方に思わず羽張彦は笑い出した。…つまり、同父同母兄弟はさておき、異父母兄
弟はたくさんいるということか。言った道臣も苦笑している。彼は非常に名の通った大き
な族の出身だ。そういう族にはままあることである。
「急に何です?」
「いや、柊がさ。…あいつ、絶対兄弟いないよなー、と思って。…忍人の扱いが、すげー
下手だから」
「…はは」
今度笑い出すのは道臣だった。それからしみじみと。
「…そうですねえ」
「道臣殿はさ、なんだかんだ言って、忍人を怒らせずに上手く扱うだろ。子供として、助
けてやるところは助けてやって、教えることは教えて、でも大人として扱っていいところ
はちゃんと大人扱いする。まあ、もうちょっと乱雑に扱ってもいいんじゃないかと思うこ
ともあるけど」
「そういう部分はあなたにお願いしますよ」
道臣が笑って言うと、羽張彦は苦笑いで頭をかいた。や、それはともかく、と咳払いして、
また話し出す。
「…柊はなあ。子供扱いするところと、自分と同じに扱うところの、力の入れ具合が間違
ってるんだよなあ」
「…そうですね」
道臣はもう一度言って、少し首をかしげた。
「兄弟もですが、…私は彼は、あまり年の近い子供同士で触れあうことがなかったのでは
ないかと思います」
「ん?」
「私がしているようなことは、たとえ兄弟がいなくても、年の近い幼なじみたちと遊んで
いれば自然と身につくことだと思うのですが、…どうも柊にはそういう経験が欠けている
ような……何です?」
道臣が言葉を切って羽張彦に首をかしげて見せたのは、彼が途中から何とも面妖な顔をし
て考え込み始めたからだ。
「や、道臣殿の言うとおりなんだが、…その、なんつーか、近所の悪ガキどもところころ
転げ回って遊んでる道臣殿てーのがあんまり想像つかねーなと」
道臣はまた苦笑した。
「まあ確かに普段は私は室内で過ごすほうでしたが。ただ、うちの一族は子だくさんで、
一族の祭りの日ともなると、兄弟だの従兄弟だの下手すると叔父甥の年が逆転しているよ
うな関係の者まで入り乱れて大騒ぎですからねえ」
私は室内で竹簡を読んでいたいんです、と引きこもろうとしても無理矢理連れ出されます
し、どっちにしろ事態に収拾をつける者は必要ですしね。
しみじみと語る道臣に、羽張彦はもやもやと、ひきずりまわされて衣服もみずらもくちゃ
くちゃになった格好で、それでも混乱している庭や室内をてきぱき片付けるまだ幼い彼を
想像した。
…目に浮かぶ。ものすごく鮮明に目に浮かぶ。
「………貧乏くじを引くたちだな、道臣殿」
「そうでもありませんよ。…誰かがやり始めれば、皆気付いて手伝ってくれるものです」
涼しい顔で道臣は言うが、羽張彦はまだ気の毒そうな顔を崩せないでいる。
「…まあ、…世の中私のように、周りに年の近いものが多い状況ばかりとは限りませんが、
…それにしても柊はそういう経験が少ないように思いますね」
道臣が話をくくろうとすると、不意に羽張彦が付け加えた。
「忍人もな」
「え?」
「あいつも結構、同い年とかちょっと上の奴とかと過ごした経験が少なそうだぜ。…だか
らあんなに肩肘張るんだろ」
「…そうかもしれませんね。…でも彼は、甘えるところは甘えてますよ」
「そうかあ?」
道臣が見るところ、忍人が一番甘えているのは羽張彦なのだが、本人その自覚がないらし
い。…それとも、もっと甘えん坊が身の回りにいて、忍人の甘え程度などまだまだだと思
っているのだろうか。
「…で、その忍人はどこにいるんだろう?」
「ああ、お使いに行ってもらってます」
その瞬間、羽張彦がひどく心配そうな顔をしたので、道臣は、柊のお使いとは別件ですよ、
と笑い出した。

…そう、行き先は別件だったのだが。
帰り道、二人はばったりと出くわした。
忍人は、道臣に頼まれた、師君のための酒の瓶を抱えて。
柊は、師君に言われて、狭井君から預かってきた竹簡を手にして。
二股に分かれていた道が、師君の屋敷に向かって一つにつながる、その辻で、はたりと顔
を見合わせていた。
「…柊」
「君も、お使いですか、忍人」
そう言って、柊はふと、忍人の持つ荷を見た。酒が三升ほども入りそうなその瓶は、どう
やらなみなみと中身を満たしているようだ。持っている忍人もかすかに額に汗をにじませ
ている。普通に持つだけなら彼も別に苦にはしない重さだろうが、それを持ったままずっ
と歩いてきた分、そろそろ重さが身に応えてくる頃合いのようだ。
「持ちましょう」
そう声を掛けたのは、忍人の手から瓶を奪った後だった。突然ひょいと瓶を奪われた忍人
は少し体勢を崩してぽかんとした顔になった。ほう、と肩から力が抜けて、……しかしそ
の脱力はほんの一瞬だった。
「柊、瓶を返せ」
怒鳴りこそしないが、怒りに満ちた声で忍人は柊に迫った。
「……?」
今度ぽかんとするのは柊の方だった。重いだろうと思って持ってやったのだ。感謝されこ
そすれ、怒りを向けられる理由がわからなかった。
だが、忍人はなおも言いつのる。
「俺が持つ。だから瓶を返せ」
「…重いんでしょう。持ちますよ」
「駄目だ」
忍人はきっぱりと首を横に振った。
「それは俺が言いつかった仕事だ。…最後まで俺が責任を持つ」
柊は眉を寄せた。
この子はいつもそうだ。大人扱いしろとか、責任とか、およそ子供らしくないことばかり
言う。今だって、どう見てもここから師君の屋敷までの道のりを、竹簡しか持たない自分
と同じ足取りで瓶を持っては歩けそうにないのに、自分が持つと言いつのる。責任がある
からと、ただそれだけで。
「ここまでこれを持って歩いてきたんでしょう。まだこれから同じくらいの距離があるの
にその疲れ具合では、このまま持ち続けるのは大変ですよ。私の方が背も力もあるのだか
ら、私が持った方が効率的だ」
「柊が持った方が効率的だというのは認める」
忍人は眉を寄せたまま、むっつりと言った。…おや、と柊はまた眉を上げる。なにもかも
言い返すわけではないのか。
「だが、持てるか持てないかを、俺に問うことなしに何故柊が決めつける」
「………!」
「柊はいつもそうだ。聞くより先に決めつける。結果は全部わかっているという顔をする。
…確かに結果はそうなるかもしれない。だけどどうしてその前に、当事者に確認しない?」
柊は少し痛いところを突かれて押し黙った。
……忍人は、まだ自分が未来が見える星の一族だということは知らないはずだ。その彼に
も、自分は何でも見通しているように見えるのか。…自分はいつも周りにとってそういう
態度でいるように見えるのだろうか。
忍人に持てないだろうと決めつけたことは確かだ。…だが、未来を見てそう思ったわけで
はない。自分が見る未来とは、そんなものではない。自分が望みもしないのに、見たくも
ないものが見える、…それが未来だ。
うつむいて押し黙ってしまった柊を見てどう思ったか、忍人は口元を手で押さえて何か考
え込んでいる。…ややあって、彼は
「こうしよう、柊」
と言った。
「…?」
自分の勝手な物思いにふけっていた柊ははっとなって忍人を見た。忍人はぎこちない顔で
手を差し出している。瓶を取り返そうという手つきではない。
「柊の持っている竹簡を、俺に持たせてくれ」
「……え?」
「それで、柊が俺の瓶を持ってくれればいい。責任のとりかえっこだ。…どうだろうか」
「………ああ」
…なるほど。責任の大切さは変わらないが、竹簡は瓶より遙かに軽い。
忍人の矜持は保たれる。自分は、忍人の荷を負ってやることが出来る。……ああ、そうか。
そうやっていたわってやればいいのか。
柊が狭井君から預かってきた竹簡を忍人に預けると、彼は大切そうにそれを抱え込んだ。
そしてぽつりと小さな声で、ありがとう、と言う。
「…柊が、親切から、俺の荷を肩代わりしてくれたことは俺にもわかる。…だけど、突然
荷をとられて、まるで俺には出来ないと決めつけられたみたいで、悔しくなったんだ。…
むきになって、すまない」
ぼそぼそと謝る様子は、いつも大人扱いしろと柊にくってかかる彼らしくなく、心許なげ
だった。おそらく、柊が沈みこみ、考え込んでしまったことを気にしているのだろう。
「…いえ。…私も、まず君に問うべきでした」
忍人はかすかに笑みを浮かべて、たっ、と弾むような足取りでもう一度歩き出した。規則
正しいその歩みは、道を進むことに何の迷いもないようだ。
……いや、実際彼には迷いなどないのだろう。進む先にある絶望も苦しみも、彼には見え
ないのだから。
恨みとも羨望ともつかない思いを抱えてのろのろと歩く柊を、不意に忍人が振り返った。
そして唐突につかつか戻ってきて、柊の後に回り込み、喉に詰まったものを吐かせるとき
のようにどんどんどん、とその背中を三度たたいた。
「…なんです、急に」
あっけにとられて柊が振り返ると、忍人は至極真面目な顔をしている。
「…別に。…なんだか、あまりよくないことを考えてるような顔をしていたから」
柊がそういう顔をしているときは、背中を何度かたたいてやるといいですよ、って風早が
言ってた。
「すっきりしたか?」
「………そういうものではないんですが」
額を押さえながら柊は応じたが、…不意にふっと肩の力が抜けたのは事実だ。
自分の悩みなど喉につかえた餅のようなものだ、と風早は言っているようなものではない
か。そう考えたら、深刻ぶっている自分が道化者のように思えてきた。
こうして悩んでいることを周りに気取られていること自体、自分がまだ子供だという証明
か。自分の傍らを歩くこの少年が大人ぶることに眉をひそめる自分自身、まだ大人ぶって
いるだけで本当の大人にはなれていないのではないか。
「…なんだ」
見下ろされる視線が気になったのだろう。忍人は少しむっとした顔で柊を見上げる。
「いいえ。…私も君も、まだまだ子供だなあと思ってね」
「子供扱いするな!」
「…という発言が、子供の証拠ですよ、忍人。…それに君だけが子供だとは言ってないで
しょう。……私もまだまだ子供です」
忍人が少し目を丸くした。
「……何か悪いものでも食べたか、柊」
「…そういうことを言うのはこの口ですか」
ふにゃ、と忍人の頬をひねると、それはまだひどく柔らかかった。ああ、子供の肌だ、と
思う。
「はにゃせー」
「はいはい」
「もうさわるな、俺は先に行く!」
「はいはい、お先にどうぞ」
たかたっ、と駆け出すその背をゆるゆると柊は追う。
子供も悪くない、とふと思った。