恋人

よく友達に、千尋ってコイバナにキョーミないよね、と言われる。
…そんなことはない。
私だって人並みに恋には興味がある。…好きな人だってちゃんといる。
ただ、そのことを誰にも言えないだけだ。…友達にも、家族にも。

駅前の通りをぼんやり歩いていると、聞き慣れた声に呼び止められた。
「…千尋」
振り返ると、お兄ちゃんが立っていた。片手にエコバッグを持っている。少し重そうだ。
「今帰りか?那岐は?」
「私が、友達に、ドーナツ食べていこうって誘われたの。…だから先に帰った」
「そうか」
笑って、ごく自然にお兄ちゃんは私の隣に並んだ。一緒に帰ろうか、とか、そういうこと
は言わない。ただ当たり前のように、隣を歩く。
こういうさりげなさは、知らない人から見ればどう見えるのかな、と、…ふと思う。
「…元気がないか?」
私はまたぼんやりしてしまっていたらしい。少し気遣わしげに声を掛けられて、慌てて首
を横に振った。
「ううん、ごめん。…ドーナツ食べ過ぎたかな。なんだかお腹いっぱいで、ぼうっとしち
ゃって」
「どれだけ食べたんだ」
笑われて、えへへ、と私はごまかした。本当は、ドーナツ一つにカフェオレを一杯飲んだ
だけだ。そんなにお腹がいっぱいなわけじゃない。
話をそらそうと、私はお兄ちゃんが持っているバッグをのぞき込んだ。
牛乳、お豆腐、豚肉の薄切り、春菊。重そうなのは白菜が一玉入っているかららしい。こ
の買い方はうちの癖だ。白菜は丸のまま買って、葉っぱをむいて使っていく方が日持ちが
して経済的ですからね、と風早が言うので、皆白菜が必要なときは一玉で買う。4分の1
や半分でしか売っていないことも多いので、野菜売り場にいるお店の人に頼んで、奥から
一玉を持ってきてもらう。
…私はともかく、那岐やお兄ちゃんがどんな顔してそれを頼むのかしら、と想像するとお
もしろいけど、意外と平然と頼んでいるのかもしれない。注文を受けるパートのおばさん
たちも、ああ、お母さんにお使い頼まれたのねきっと、とか思ってたりして。
私がじろじろ検分していることに気付いたのか、お兄ちゃんが、何だ?と聞いてきた。
「今日、お兄ちゃんが食事当番だっけ」
「ああ。…風早が今日は早く帰れそうだと言っていたから鍋にする。残り物はいれないし、
味付けもしない。俺がするのは切ることだけだ」
言い訳じみたその口ぶりがおかしくて、私はくすくす笑ってしまう。お兄ちゃんは困った
顔をしたけれど、でも怒ってはいない。
「…笑うな」
少し頬を赤くして、ふいとそっぽを向いた。その表情がかわいくて、また笑いそうになる
のを私がこらえたとき、
「葦原!」
唐突に、男の子の声がした。
私もお兄ちゃんも名字は葦原だ。声がした方を二人で振り返ると、私には見慣れない男の
人が立っていた。
「羽田」
お兄ちゃんの知り合いらしい。名を呼んで、私に目で少し謝ってから、お兄ちゃんは彼の
方へ近づいていった。声を聞いて男の子かと思ったのだけれど、どうやら勘違いだったら
しい。少なくとも私より年長の男性だ。お兄ちゃんの高校か大学での友人なのだろう。何
を話しているのかは、私のいる場所からは聞こえないけれど、珍しくお兄ちゃんが気の置
けない仕草で話している。
と、ふと、彼が私を指さしてお兄ちゃんに何か言った。からかうように笑っている。お兄
ちゃんは困った顔で首を振って一言。
…何と言ったのか、…これだけは想像がついた。
たぶんあの人は、私のことを彼女ではないかと聞いたのだ。そしてお兄ちゃんは、いいや、
妹だ、と答えた。
…胸が少しだけ、痛い。
お兄ちゃんが戻ってきた。友達はまだ少し私たちを振り返るようにしながら、逆方向に歩
いていく。その背を少し見送ってから、私たちも歩き始めた。
「…友達?」
聞くと、
「高校のクラスメート」
あっさりと答えてくれた。それから少し照れくさそうに、
「千尋を見て、かわいい彼女だな、と言っていた」
私は笑った。…上手く笑えた、と思う。たぶん。
「お礼言えばよかった」
お兄ちゃんも笑って、くしゃりと私の頭を撫でる。その顔を見上げながら、私はそっと聞
いた。
「私のこと、妹だ、って言ったんでしょ?」
「ああ」
さらりとうなずく。
「納得してた?」
「納得?何を?」
「その、…お兄ちゃんが彼女のことをごまかそうとして嘘をついてるんじゃないかとか、
…疑われなかった?」
お兄ちゃんは足を止めて、少し驚いた顔で私を見た。…なぜ私がそんなことを言うのかわ
からないと言いたげだ。
「…いや、…別に疑ってはいなかったようだが」
なぜ、と付け加えられて、私はううん、と笑いながら首を横に振った。
「私たち、全然似てないから。…髪の色も目の色も、顔立ちだってちっとも似てない。…
それでも、妹だって言って納得してもらえるのかなって、…ちょっと」
お兄ちゃんは考え込む顔になった。立ち止まりはしないものの、足取りが遅くなる。やが
て少し困った顔が私を見た。
「…言われてみれば、…俺はあいつに嘘をついたことになるんだな」
すうっと、その場の空気が冷えたような気がして、私はふと身を震わせた。
「たぶん、俺に嘘をついているという意識がないから、あいつも疑わないんだろう」
私の投げた言葉に対する驚きが、お兄ちゃんの中から消えていくのがわかる。湖面に投げ
た石の波紋が消えていくように、一瞬揺らいだお兄ちゃんの感情が静まっていく。……い
や、薄れていく。
「……忘れてたよ。…千尋が本当は、自分の妹じゃないってこと」
お兄ちゃんの背がすっと伸びた気がした。
ふっと、ほんのわずかだけれども、私とお兄ちゃんの距離が遠くなった。…風が一筋通る
か通らないかの小さな小さな狭間。
そのまま、私の側を離れてお兄ちゃんがどこかへ行ってしまいそうで、…ううん、ちがう、
どこに行くわけでもなく、ただこの夕方の空気に溶けて消えてしまいそうで、私ははっと
お兄ちゃんの服の裾を掴んだ。
「…どうした?」
お兄ちゃんの視線が私に戻ってくる。離れた距離がまた少し縮まる。笑ってそこにいてく
れるのに、…でも私の中からは、今の恐怖が消えない。
「お兄ちゃんは、私のお兄ちゃんよ。…たとえ本物じゃなくっても、私のお兄ちゃんよ」
呪文のように私は繰り返す。
…忘れていた。
この言葉で、私はこの人をこの場所に縛り付けているのだ。私がこの人をお兄ちゃんじゃ
ないと認めた瞬間に、この人はきっとどこかへ行ってしまう。消えてしまう。…私の前か
ら、いなくなる。
…まるで、元々ここにはいない人間だったかのように。
それが怖くて、それが嫌で、私はこの人をお兄ちゃんと呼んでいるのではなかったか。あ
の日から、ずっと。
「わかってるよ。…そんなに必死にならなくていい」
ぽんぽん、と肩をたたいてくれる。それから自分の服の裾を指さして。
「だから、放してくれないか」
私が少し赤くなって裾を放すと、代わりのように、お兄ちゃんが手をつないでくれた。
「大丈夫。…千尋が望む限り、俺は君の兄だ」
私を安心させてくれるための言葉が、痛い。

私には好きな人がいる。
けれど、そのことは誰にも言えない。友達にも、家族にも、…本人にも。
本当のお兄ちゃんじゃない。恋をして誰にはばかることもない。…はずだ。
けれど、私の思いを口にして、その人を兄でなく恋人に望んだ時点で、…きっとその人は、
この世からいなくなってしまう。
そんなことありえない、あなたはただ、今の心地いい関係を壊したくなくて臆病になって
いるだけなのよ。
そう言う人もいるだろう。でも違うのだ。そういう臆病さが自分にないとは言い切れない
けれど、それだけではない何か、自分たちの意志とは関係ない何かが、いつも私たちの間
にわだかまっている。
漠然とした、けれど奇妙に確信のある、恐怖。
だから、この思いは誰にも言えない。伝えたくてどんなに胸が痛んでも、喉元から言葉が
飛び出しそうになっても、ぐっと押さえつけて私は笑う。困った妹のふりをして、笑う。

「いい歳して、お兄ちゃんと手をつないで歩いてるなんて、どれだけ甘えん坊だって思わ
れるね」
「…事実だろう」
「あ、ひどーい」
私がぷりぷり怒って唇をとがらせてみせると、彼は少しほっとした顔で笑った。…ああ大
丈夫、元通りだ、と言いたそうな顔で笑った。
大丈夫よ。
私も笑ってみせる。
大丈夫。あなたを失うくらいなら、妹でいい。あなたのそばにいられるなら、それでいい。

私の思いは、いつ許されるのだろう。
…いつか、伝えられる日は来るのだろうか。