子守歌 律が、念のため手の治り具合を見てもらいに病院に行きたいと言ったとき、俺は少し驚き はしたものの、律にしては殊勝なことだと喜んで、その裏に何が潜んでいるかを思いめぐ らせることはなかった。 …今思い返すと、そのときの自分ののんきさに少し吐き気を覚える。あの律が、自発的に 病院に行くと言い出すまで、俺は何も気付かなかったのだ。 一番傍にいたのに。 彼の手のことも、彼の人となりも、俺はある程度知っていたのに。せめてもう少し早く、 …少しでも早く、律の異変に気付けていたら。 …「もし」や「たられば」の話をするのは大嫌いだが、打ち消しても打ち消してもその仮 定は俺の中によみがえるのだ。 もしも俺が、…と。 「…大地。…ちょっと来なさい」 診察室に律が入っていってどれくらいたっただろう。 気になって待合室にいた俺を、診察室から顔を出した父親が呼んだ。 …嫌な予感がした。 中に入ると、看護師が律の手首から手の甲にかけて包帯を巻いていた。律は俺が入ってい っても目も向けない。押し黙り、少しうつむいて、じっと石像のように動かない。 小さな咳払いをしたのは父だった。 「お前の部屋に如月くんを連れて行って、少し休んでもらいなさい。如月くんが良ければ、 泊まっていってもらった方がいいかもしれない。…いや、今日だけは無理矢理にでもそう したほうがいい。彼はご家族と離れてこちらに来ているんだろう。こんなときに一人はあ まりよくない」 「…って、…え?…父さん?」 少し慌てて声を上擦らせた俺に、父はかすかに眉を曇らせて、テーピング用のテープと包 帯、それに青いふたの軟膏入れを手渡した。 「炎症止めのクリームだ。一応注射したばかりだから不要だと思うが、必要なようなら使 いなさい。使ったらテーピングをやり直して、包帯を巻いておくこと。…彼が落ち着いた ら、やり方を教えてあげるといい」 「……炎症、止め」 ………っ。 俺は顔色が変わったのだろう。父は目を伏せた。 「そうだ、腱鞘炎だ。ねんざを庇って無理な練習をしたんだろう。ばね指が出ているし、 手首の方にも症状がある。かなり重度だ」 「……ちょ、…え?……父さん、それ、個人情報……」 混乱した俺は、本来言いたかったこととまるで違うことを思わず口走ってしまった。律の 手に包帯を巻き終えた看護師が、いつも冷静な顔にちらりとさびしい苦笑のようなものを 浮かべ、父も、深く刻んだ眉間のしわの下で口元だけかすかにほころばせる。 「…わかっている。お前を呼ぶ前に如月くんには確認した。君の症状にはしばらくの間何 らかのサポートが必要だ。本来それを託すべきは君のご家族だが、遠く離れていては難し い。だから、大地に症状を話して君のサポートをさせるが、かまわないか、とね」 そこで一旦父親は言葉を切って、ちらりと律を見た。 律は、こちらを見ない。動かない。 …音を立てず、仕草だけでため息をついてみせて、大地の父は息子に向き直った。 「先刻話した時は、一応うなずいてくれたよ。話がどの程度耳に入っていたかはわからな いが、お前の名を出した時だけ身体が少し動いたから、何も聞こえていないわけじゃあな いだろう。…今はとにかく、身体や手はもちろんだが、気持ちを安静に、落ち着かせてあ げたほうがいい」 そのまま無言で目だけで促され、俺は律の症状が出ていないほうの腕に手をかけた。 …律は、やはり動かない。 俺はつばを飲み、出来るだけいつもの声で言った。 「行こう、律」 腕と背を支えるようにして促すと、律はようやく立ち上がった。俺に導かれるまま、看護 師にも支えられてのろのろと動き出す。細い扉の隙間から先に律と看護師を送り出して、 俺は父を振り返った。 「…父さん。…律の腕は、……ヴァイオリンは」 父は何も言わず、目を伏せた。 それは父の医者としてのなけなしの守秘義務なのか、あるいは父自身にも最終判断はしか ねるということなのか、…俺にはわからなかった。 律を、俺の部屋にある唯一の椅子…勉強机の回転椅子に座らせて、俺はお茶を淹れに行っ た。 湯から沸かしたので少し時間がかかったのに、戻った時も律は同じ格好でじっとしていた。 その無事な方の手にカップを持たせ、自分のカップは机に置いて、俺は律の前の床にあぐ らをかいた。 その態勢になると、律の膝に置かれた、包帯に覆われた片手が目の前に来る。俺はその痛 々しい手をじっと見つめた。 じわじわと、自責の念が腹の奥底から這い上ってきて、胸から喉元までも満たした。まる で泥水のようなそれは、ねちっこく、苦い。ただの錯覚のはずなのに、本当に何かが喉に つかえたようで、つばもうまく飲み込めない。 …俺が気付くべきだった。 俺が止めるべきだった。 律の周りの人間は皆、律の音楽に期待している。律の手の状態を詳しく知っているわけで もない。 律の友人として、音楽に固執しない普通科の人間として、彼の怪我の状態を知る者として、 俺が、…俺こそが、律にストップをかけるべきだった。 「……律」 声がかすれた。 「…律。…ごめん」 やっとの思いで声を絞り出す。 …と。 はっと律が動いた。 信じられないものを見たという顔で、俺をまじまじと見る。 「…何故、大地が謝る」 黙り続けていた律の声はかすれていたが、滑舌ははっきりしていた。…俺はそのことに、 少しだけほっとする。 「俺が止めるべきだった」 律は眉間にしわを寄せた。 「…大地のせいじゃない」 ぼそりと言ってからかすかに顔を背け、 「…頼む。…それ以上、言わないでくれ」 絞り出すように付け加えた。 「…っ」 鈍器で殴られたような感覚のあとで、顔がかっと熱くなった。 …恥ずかしかった。 …俺は、バカだ。 律は、今自分を整理するのがやっとなんだ。そんな彼の前で自分を責めてみせて、お前の せいじゃないと慰めてもらって、…俺は、一体何を…。 「…」 律を安らがせるどころか、俺は、律を追い詰めている。 いたたまれなくて、俺は立ち上がった。大股に部屋を横切って、扉に手をかけると、咳き 込むように律が名を呼んだ。 「…大地」 俺は振り返った。 「どこへ行くんだ?」 不安と戸惑いで色を失った律の顔。友人のこんなに頼りない顔を見るのは初めてだった。 「少しの間席を外した方が、お前が落ち着くかと思ったんだが…」 言いかけて、律の肩がびくつくのを見るとたまらなくなった。 「…でも、俺がいた方が、…いや、…俺がここにいていいなら、」 「いてくれ」 俺が言い終えるよりも早く、律は肯定した。…呻くような声だった。 俺はゆっくりと律の傍らへ戻った。先刻と同じ場所に座り込む。律は椅子の背にもたれ、 右手で顔を覆って目を閉じている。律も俺も黙りこくっているので、部屋には何の音もな い。CDはたくさん持っているが、音を聞く気持ちにはなれなかった。ただぼんやりと、 指の間からこぼれる、律の浅く早い呼吸を聞く。目の前には包帯に包まれてだらりと垂れ た律の腕がある。 ふと、その腕がぴくりと震え、ふっと呼吸音が消えた。 はっと顔を上げると、律は唇をかんで天井を睨み付けていた。 「…弾けなくなったわけじゃない。ただ、ここまで悪化していると手術なしに完治させる のは難しい、と言われた」 俺に聞かせているようでいて、どこか一人言めいた律の言葉。 「手術すれば痛みは取れるが、指の感覚や微妙なタッチがどう変わるかは専門家ではない から判断しかねる。かといって、痛みを抱えたままでは難曲を弾きこなすことは出来ない。 …つまり、どちらを選んでも元通りには弾けないだろう、と」 律は唇を噛みしめた。 こぶしを握って顔をしかめたのは、宣告された内容への絶望からか、あるいは握りしめた 手の指が痛むのか。 …俺はたまらず、律の手に触れた。 「…力を抜け、律」 「…っ」 律も我に返ったようだ。震える手が開かれる。その包帯を、俺はやにわにほどき始めた。 「大地?」 律のぽかんとした声が頭上で聞こえたが、俺はかまわず包帯をほどき続ける。 「炎症止めのクリームを使ってみよう。手が少し楽になる」 「……」 律は唐突な俺の行動に毒気を抜かれたのか、されるがままになっている。包帯をほどき終 えた俺は、青いふたをあけてゆっくりと律の手に軟膏をすり込み始めた。 父が注射したと言っていたのは恐らくステロイド剤だろう。それがきちんとまだ効いてい るなら、痛み止めや炎症止めという意味での軟膏はあまり意味がない。だが、手当とは、 手を当てることだ。痛みを感じたとき、人は誰しもとっさにその部分をさする。それはそ の行為で痛みが和らぐ心地がするからだ。非科学的かもしれないが、手で触れることで癒 される痛みは確かにある。 門前の小僧習わぬなんとか、で、こうした行為にちゃんと意味があることは一応昔から知 っていた。だが、本当にこの行為が人を癒すのだと実感できたのは、このときが初めてだ ったように思う。 軟膏をすり込み始めたとき、律の手は文字通り強張っていた。手の症状もさることながら、 何をされるのかという不安が彼をそうさせていたのだろう。 けれど手が触れあううち、ゆっくりとその緊張はほどけてきて、触れあっている手首から 先だけではなく、律の肩や身体全体、…心さえも、ゆるゆると力が抜け、ほどけていくの を、俺は自分の指先で感じ取ることが出来た。 「…痛みは?…律」 「…大丈夫」 「……そうか」 うなずいて俺がもう少し軟膏をすりこんでいると、律が不意に俺の名を呼んだ。 「大地」 「何」 「どうしよう」 「…何が?」 「気がゆるんだら、…泣きそうになってきた」 「…っ」 律の手ばかり見ていた俺が慌てて顔を上げると、律はさっと顔をそらした。頬が朱に染ま って目尻まで赤い。 その目の縁からこぼれそうでこぼれない光るもの。 「…泣けばいい」 俺は言った。だが律は、 「嫌だ」 唇をかむ。 また少し手に力が入った。 その手を軽くなだめるように叩いて、俺は繰り返す。 「…泣いていい。どうせここには俺しかいない」 それから手を伸ばし、そむけられている律の頬に手を添えて、自分の肩に彼の額を預かっ た。 「…泣いて。…楽になるから」 それがとどめだった。 「…っ」 嗚咽とも何ともつかないものを一声だけもらして、律は素直に俺の肩に額を預けた。 やがて肩がかすかにじわりと暖かくなる。 律の吐息が鎖骨にかかる。 …こんな時だというのに、一瞬浅ましい欲が俺の身の内を焦がした。邪念を払うために、 ぎゅっと強く唇をかんで、俺は律の手に軟膏をすり込む行為を再開しようとしたが、律の 手は俺の手を見つけるとすがりつくように指を絡めてきた。 …一瞬息を呑んだが、俺は黙ってされるがままになる。 心細さからくる無意識の行為だと、自分を繰り返し説得しながら。 結局その晩、律は俺の部屋に泊まっていった。 夜半、目が冴えて眠れなくて、俺が布団の上に身を起こすと、並べて敷いた隣の布団で、 律は疲れ切った顔で眠っている。浅い呼吸はどこか、彼の静かな嗚咽に似ていて痛々しい。 「…」 俺が洩らしたため息は、音にならずに闇に消えた。 律のために何が出来るか、正直今はわからない。でもせめて、今夜くらいはそばにいて、 彼の安らかな眠りを守れる俺でありたい。 律の左手が無意識に何かを探している。そっと手を差し出すと、子供が母親の手にすがる ように、きゅっとこぶしで握りこまれた。安堵したのか、律の肩から力が抜け、呼吸も少 し穏やかになる。 かすかに涙のあとが残るその顔を、大きく欠けた月が白く照らしていた。