光明


ほとほとと戸を叩く音にはっとして、道臣は手燭を向けた。入口の暗がりに、闇よりも黒
く佇む人影は、憂えるその顔だけが闇から浮かび上がるように白い。
「…忍人」
「まだ仕事を?」
言いながら、彼はゆっくり中に入ってきた。
「身体にさわる。もう休んでください」
口調は丁寧だが、有無を言わさぬという語調に道臣はふっと笑った。
「…道臣殿?」
やや声をとがらせた忍人に、すいません、と道臣は慌てて謝った。
「先刻きた布都彦と君が、全く同じことを言ったので、おかしくて」
「道臣殿」
しかし忍人は笑わなかった。
「二度同じことで諫められるのはいかがなものかと」
「ええ、はい、そうですね」
道臣は首をすくめた。
「今片付けますから、あなたは先に休んでください」
「そう言って俺を追い払った後で、また仕事をするのでしょう」
はは、と今度は少し乾いた笑いが道臣の喉からこぼれた。
「…あなたがこの部屋を出て自分の寝台で休むのを見るまで、俺は自室に帰りません。…
何かできることがあれば手伝います」
「残念ながら、今回の件は武人の君には手に余ると思いますよ」
「…そう言って、布都彦も追い払いましたか」
「追い払うとは人聞きの悪い。…でも、まあ、…当たりです」
ふ、ふ、と互いに含み笑いをかわしあって、…ではご迷惑でしょうがここで待ちます、と
忍人は戸にもたれた。すぐに片付けますと、道臣は一心に手を動かす。忍人はしばらくそ
の様子を眺めていたが、ふと、道臣に話しかけてきた。
「…無聊を慰めるのに、二三質問しても?」
「私にですか?…かまいませんよ、何でしょう」
「布都彦のことで」
そう切り出して、忍人は腕を組んだ。
「俺はずっと、彼が志願してあなたの部隊に加わったのだと思っていました。けれど、こ
の間その話になったとき、布都彦はちがいますと俺にきっぱり否定したんです。羽張彦の
事件の後、一族は散り散りばらばらになり、そこへ中つ国の崩壊が伴って、一族同士です
ら誰がどこにいるのかわからない状態だったと。布都彦は、常世の国に抵抗したいと常々
考えていたが、いかな武力があろうとも、未熟者一人では何も出来ない。そこへ道臣殿が
現れたのだと言っていました」
忍人は腕を組み替えた。道臣は聞きながら、ぎりぎりと竹簡を巻いている。
「事実俺も、布都彦のことは気にかけていましたが、連戦の片手間だったとはいえ、俺に
はどうしても見つけ出せなかった。…あなたはどうやって、布都彦を捜し出したんです、
道臣殿」
「…うちの一族は大所帯ですからね」
忍人の問いを聞き終えて、なんだそんなことかという顔で道臣は笑った。
「一族の中には、地方官として各地へ出向いた者も多い。また、各地から橿原にやってき
たいろんな豪族の出身の若者達と娶された一族の娘も多いのです。…私は、そのつながり
を利用したのですよ」
「…つながり?」
「そうです。吉備で橿原宮の陥落を迎えた者、羽張彦の事件の際、大伴の一族の娘を娶っ
ているからという理由で大きなとがめは受けなかった者。彼らに頼んで、どんな小さな情
報でもいいからと、布都彦のことを聞いて回りました」
「だが、一族同士ですらだれがどこにいるかわからなかったと」
忍人は、念を押すように布都彦の言葉を繰り返した。
「ええ、確かに、あてにならない曖昧な情報も多かった。…でも、執拗に執拗に情報を集
めて、自分の足でそれを確かめて、…私は布都彦にたどり着いたのです」
「……楽なこととは思えませんが」
道臣とて、一軍を預かる将だ。忍人のように前線を駆け回るわけではないが、砦を守り、
補給を絶やさぬようにする仕事は楽ではない。大きな国の守り砦ならいざ知らず、道臣が
守るのは滅びた国の砦なのだ。
「本当にそのような正攻法で見つけられたのですか」
「ええ」
言って、道臣はどこか暗く笑った。
「意地ですね。…あとは、少々薄汚い気持ちと」
「……?」
薄汚い気持ち、というのが何を意味するのかわからない。忍人は眉をひそめる。道臣はそ
んな忍人を見て目を伏せた。
「私は何も守れなかった。…国も、部下も、弟弟子達も」
「……」
それは中つ国の将の誰しもが心に重く秘める思いだ。だが、自分が抱える苦しみよりも道
臣の苦しみの方が遙かに重く、業深いであろうことは、忍人にも想像はつく。
「……私は、羽張彦と柊が何かを謀っていることに気付いていたのに、止めることを思い
つかなかった。戦の渦中では部下を助けられず、三環鈴の力を借りて自分は命長らえた。
…繰り返す自分の弱さに、私はほとほと嫌気がさしていました。いっそ国も己の名前も捨
てて逃げ出せればと思いましたが、逃げたところで余計に悔いをかこつだけでしょう。…
…だから私は、布都彦を探すことで己を救おうと思ったのです」
目を閉じたまま、訥々と彼は語り続ける。
「布都彦を見つけ出し、彼を庇護する。…何があっても彼だけは守り抜く。…そうするこ
とで、私は何かしら、自分の責務を果たしたような気持ちになりたかったのだと思います。
……布都彦を捜し出したのは、そういう醜い気持ちからです」
そこでふと、彼は少しおかしそうに笑って。
「もっとも、私はあまりに時間をかけすぎました。見つけ出したときには既に布都彦は立
派な青年になっていて、結局私が庇護することなど何もなく、むしろ彼の武芸によって守
られたのは私の方だったわけですが」
布都彦のことを語るとき、明らかに道臣の顔には安らぎが浮かぶ。…だから、彼の心を推
し量るのは難しいことではなかったが、忍人は敢えて問うてみた。
「……それで、道臣殿の心は救われましたか?」
道臣はゆっくりと忍人を見上げた。一つ片付け終わったと見える竹簡を、きりりと巻いて。
「……ええ」
ほころぶ瞳にのぞく輝きは、布都彦という太陽が道臣にもたらした光なのだろう。
「……」
忍人は覚えず、自分の頬にもゆるやかな笑みが浮かぶのを感じた。
「……君が思っていた以上に、利己的な話だったでしょう。……がっかりさせたのではあ
りませんか。すみませんでしたね」
忍人の笑みを見てすまなそうに道臣は首をすくめる。首を横に振って、忍人は道臣の言葉
を否定した。
「いいえ。…俺の方こそ、立ち入った話を聞きました。申し訳ない。……ですが、あえて
一つだけ」
「……?」
「道臣殿は自分を己のことばかりと卑下なさいますが、本当に己のことを考えるだけの行
いであれば、人の心は動かない。布都彦があそこまであなたを慕い敬うのは、あなたがそ
れだけのことを布都彦にしたからです」
「……忍人」
「あなたが布都彦から光を授かったように、布都彦もあなたから光を与えられた。…俺は、
そう思います」
もしも軍の将が道臣でなければ、国を裏切った男の弟である布都彦が、ああまで素直に軍
になじめていただろうか。…道臣がいればこそ、あの明るい素直な布都彦が、今ここにい
るのだ。
「……おしひ…」
何か言おうとした道臣を遮ったのは、部屋に飛び込んできた足音だった。
「道臣殿!やっぱり!!」
話題にのぼせていた当の本人が嵐のように部屋に飛び込んできたので、道臣と忍人は思わ
ず目を見合わせて笑ってしまった。
「……何がおかしいんです」
「いえ、何でも」
「すまない、あまりに君がすごい勢いで飛び込んできたので」
忍人に指摘されて、布都彦は少し赤くなった。
「…すいません。ですが、道臣殿は私がお声をかけたとき、『もうすぐ終わりますから』
と仰ったのです。……それなのに、あれからどんなに月が動いても、ちっとも部屋にお戻
りにならなくて」
言うが早いか、布都彦は目についた竹簡をがりがりと乱暴に巻き始めた。
「布都彦」
「もういけません。お休みください。続きは明日に」
順序も分類も無視して竹簡を巻き続ける布都彦に、おろおろと道臣は戸惑っている。…お
かしくて、忍人はくっくっと喉を鳴らして笑った。
「…忍人」
困惑する道臣を無視して、忍人は布都彦に声をかける。
「俺も手伝おう、布都彦」
「ありがとうございます」
「忍人、あなたまで」
「…大丈夫、明日の朝、竹簡を開いて分類するのも手伝いますよ。…武官の俺でも、それ
くらいは手伝えます」
「私もお手伝いいたします。ですから今日はもう終わりです。いいですね」
はあ、と肩を落として嘆息して。…わかりましたと道臣はぽつりつぶやく。
「…君たちには、かないません」
忍人は笑った。布都彦も笑う。その笑顔は闇に一筋さしこむ光明のように鮮やかだった。