この肩に残る温もりを 一通り自分のパートが仕上がったから聞いてほしい、と、大地が律を誘ったのは、もちろ ん忌憚のない批評をもらうためでもあったが、もう一つ、昨日あたりからずっと、律が何 か言いたげにちらちらと大地を見ているから、でもあった。 律が何か言いたいことがある、でもどう切り出せばいいのかわからないらしい。…そうい うことならば、自分からきっかけを作ろう、…そう大地は思ったのだ。 練習室で一曲を弾ききる。 傍らで聞いていた律は、ミスをいくつかと休符のタイミングを冷静に指摘した後で、ふっ と押し黙った。大地は弓とヴィオラを置き、律の表情を確かめようと、その目をのぞき込 んだ。 「何か俺に言いたいことがあるんじゃないか?律」 「…」 律は大地を避けるように目を伏せた。逡巡するそぶりだ。 「…口ごもるなんて、律らしくないな」 少しからかってみせると、律が目を上げた。その視線の思いがけない強さに、大地は少し ひるむ。 「口ごもっているわけじゃない」 声もいつもより心持ち低く、強い。 「怒っているんだ」 「…怒る…?」 ぽかんとした大地の顔を見て、律は眉間にしわを刻んだ。 「小日向から話を聞いた」 その一言で、大地の表情も動いた。あれか、と…少し苦い顔になる。今度は律が、その大 地の顔から一瞬たりとも目を離すまいと、睨み付けるように見つめてくる。 「ヴィオラに、他に適任がいるなら代わってもかまわない。…そう言ったそうだな」 大地は肩をすくめる。 「ああ、言ったよ」 「…冗談にしては笑えない」 「冗談で言ったわけじゃない、本心さ」 「…大地!」 律は責めるような声で名前を呼んだが、返す大地は冷静だった。 「律。俺たちの目標は何だ」 「…。もちろん、全国優勝だ」 「…そうだな。…その目標を達成するために、俺たちはこれまで、あらゆる手を尽くして きた。これからも最善手を探していく。…コンクールの規定では、期間中のメンバー変更 は制限されていない。ならば、その手ももちろん視野に入れるべきだ」 「だが、そのメンバー変更が大地である必要はない」 「なぜそう言いきれる」 律がぐっと詰まった。 とっさに返ってこない答えを、大地は焦って促すことはしなかった。静かに待つ。 「…お前の、優勝に対するモチベーションが、あのアンサンブルには必要だ」 ややあって返ってきたお行儀のいい言葉に、大地はふっと笑った。 「…音楽じゃないんだな」 「…っ、それはっ」 「確かに」 律の言葉を遮るように、大地は低くつぶやいた。腕を組み、あごに指を当てる。考え事を するときの、彼の癖だ。 「コンクール前の部の状態では、他にアンサンブルに参加できるヴィオラはいなかった。 みんな目標が控えめすぎた。でも今、東日本大会を突破して、部の雰囲気もみんなの気持 ちも盛り上がっている。だから、今の律の説明では、俺でなければならない理由としては 非常に弱い」 「大地っ!」 珍しくも少しうわずる律の声に、返ったのはこちらもかなり珍しい、ひどく冷たい大地の 声。 「俺は、音楽に関する律の判断を信用している。だから、ひなちゃんをファーストヴァイ オリンにという提案も了承した。…だが、今のその反応を見ると、俺というヴィオラに関 して、律が冷静な判断が出来ているのかどうか少し不安になったよ」 律は唇をかんだ。悔しそうな顔をしているが、言い返さない。ただじっと、抗議するよう に大地を見つめている。 大地は目をすがめた。いつも当たりの柔らかい印象を与える大地の顔が、そういう目をす ると、不意に冷たく突き放したものに見える。 「律が、適切に判断できないなら、俺は俺の判断で動くよ。俺より適当なヴィオラが部内 に見つかれば、メンバーを俺の判断で入れ替える」 空気が冷えた。律は押し黙っている。だが、大地の言葉に納得していないのは、握りしめ た震えるこぶしに見て取れた。 大地はしばらく腕組みで、見下ろす、というよりはむしろ見下げるような視線で律を見て いたが、やがて、ふっと、……その唇を三日月型につり上げた。 「……もっとも、響也やハルの手綱を上手くあやつれる人間が、俺以外にいるとも思えな いけどね」 「…っ」 律がふっと息を吐いた。何か、身体から栓が抜けたような、そんな音だった。薄笑いだっ た大地の笑顔が、はっきりと微笑む。やわらかい、あたたかい、…いつもの大地の顔にな る。 「アンサンブルってそういうことだろう?…必要なのは演奏技術だけじゃない。お前抜き のアンサンブルをしっかり締められるのはたぶん、うちの部には今のところ俺しかいない。 ……俺はそう思ってるよ」 大地は律の頭に手を置いて、子供にそうするようにくしゃっとまぜた。 「…らしくないな、律。そんな顔するなよ。…大丈夫、簡単な気持ちで代わるなんて言っ てるわけじゃない。そうせざるを得ない状況になれば、その覚悟はある、…そう言いたい だけなんだ」 律、お前を頂点に立たせる。……そのためになら、俺は何だってする。はいつくばって泥 水をなめたってかまわない。低く見られようが、嘲笑されようが、気にならない。 「音楽科だとか普通科だとか、そんなことは問題じゃない。俺はただ誰にも負けないくら い練習を積み重ねる。…アンサンブルを少しでもいいものにしあげて頂点を目指す。そう やってここまできたんだ。外野が何と言おうと、これからもそうするだけだよ」 だから、律。 「信じてくれないか。…俺の判断を。お前が俺の判断を信じるように、お前も俺の判断を 信じてくれないか」 大地はそっと律の両耳を自分の両手でふさいだ。 「余計な言葉は聞かずに、お前の前にいる俺を、信じてくれないか」 律は息を吐いて、…そっと、大地の左肩に自分の額を預けた。 「……ああ、…信じる」 揺らいで、ごめん。 かすれる声の謝罪を、大地は、馬鹿だな、律、と小さく笑い飛ばした。 「ほんとは律が揺らいでなんかないってこと、……俺はちゃんと知ってるよ」 普通科が音楽科と一緒にオケ部なんて、と、入部当時誰もが先を危ぶんだが、律だけは淡 々として何も言わなかった。コンクール出場を目指すと大地が宣言して先輩に笑われたと きも、一緒にがんばろうと背中を押した。 律はただの一度も、大地の本気を疑わなかった。 だからこそ、「代わってもいい」の言葉にあれだけ怒ったのだと、大地はちゃんと知って いる。 「律が謝ることはなにもない」 謝るのは俺の方だ。うかつに神南の挑発に乗った。 「以後、重々気をつけるよ」 「…そうしてくれ」 律はゆっくり頭を起こし、大地から離れた。 その仕草が少し名残惜しそうに見えて、大地は自分の都合のいい思いこみに苦笑する。 雑念を払うように首を振り、もう一度ヴィオラを手に取った。 「…さっきの指摘をふまえてもう一度通して弾くよ。……聞いてくれるかな、律」 「ああ。……完成するまでいくらでも付き合う」 もうその瞳はいつもの冷静な律だ。その瞳にほほえみかけて、大地はヴィオラを肩に載せ、 あごを置く。 ……この肩に残る律の温もりが、ヴィオラの音の艶になればいい。 …ふと、そう思った。