凍る心 菩提樹寮は星奏学院から坂道を少し登ったところにあり、大地の家は学院から少し坂を下 りたところにある。だから、朝はよく、坂道がぶつかる四つ角で俺たちは顔を合わせる。 今朝も、俺がぼんやりと坂を下りていると、背の高い人影が坂の下から俺に向かって手を 上げた。…大地だ。 「おはよう」 声をかけると、 「おはよう」 少しまぶしそうな顔で大地は応じた。 いつもならそのままごく自然に肩を並べて歩き出す…はずが、何故か大地は足を止め、俺 の後ろを透かし見た。 「…ひなちゃんは?」 …? 「小日向なら、俺が麦茶を入れにいったとき、台所で弁当を詰めていた。たぶん、寮を出 るのにもう少し時間がかかるだろうと思うが」 「そうか」 「小日向に、何か急ぎの用でも?」 「いや、そう急ぎってわけじゃない。昨日、ひなちゃんのペンダントの鎖が切れたときに 偶然居合わせてね。困っていたから、直してあげるよって預かって帰ったんだ。結構うま く直せたし、早く渡してあげられればいいなって。…それだけさ」 淡々と話す大地の声も、表情も、いつもと全く変わりなく思えるが、どこかいつもと印象 が違う。…大地の言葉の内容よりも、その奇妙な違和感の方が俺は気にかかった。 「…ペンダント?」 意識がそれていたので適当な相づちを打ったのだが、大地は真面目にそれに応える。 「ああ。…知らなかった?…服の内側に入れていたんじゃないかな。俺も、鎖が切れてひ なちゃんが落とすまで気付かなかったよ」 ふうん、とまたあいまいな合いの手を入れる。大地はまた俺の後ろを見た。小日向の姿を 探すように。そうやって、俺から視線をそらして、さらりとつけくわえる。 「指輪をチェーンに通して、ペンダントにしていたんだ。……ほら、律のあの、王冠の形 の指輪」 …。 その一言で、ようやく俺の意識は会話の内容に引き戻された。まじまじと大地を見る。だ が、大地は俺を見ていない。来るはずもない小日向を捜している。 「…大地」 呼びかけに応えて、顔は俺の方を向いた。目も、俺を見ているように見える。だが、焦点 は俺の顔に合っていない。…俺の目を、まっすぐに見ない。 とたん、俺の中で、曖昧な違和感が強い不安に変わる。 …こんなことは、今までなかった。 「あの指輪」 静かな声はいつも通り暖かみを帯びていて優しい。 「ひなちゃんにあげたのかい?」 それなのに言葉は、氷の塊を飲み込んだときのような重い冷ややかさで、俺の心に落ちて きた。 いや、冷ややかさとは少し違う。冷たいわけではない。虚ろだった。ぽっかりと奇妙に空 々しい。その虚ろさに、胸が冷えるのだ。 「…貸したんだ」 俺は必死で大地の眼差しを探した。いつも通りそこにあるのに、手に入らない大切なもの を。 「東日本大会の時、ずいぶん緊張しているようだったから、あんなものでも気休めになれ ばと」 「ああ、なるほど」 大地の声はどこまでも穏やかで、…俺は余計に不安になる。 「もちろん、あんなものは俺が勝手にお守りと呼んでいるだけで、物理的には何の役にも 立たないだろうが」 「お守りなんて、みんなそんなものさ」 大地は少し苦笑した。 「でもちゃんと、ひなちゃんには効果があったよ。律のアクシデントで浮き足立ってもし ょうがないステージもちゃんとやり通したし、急にファーストヴァイオリンに転向したセ ミファイナルも立派につとめあげた。……信じるものがあれば、人は強い。しみじみそう 思うよ」 だけど、少し不思議だな。 大地はそう言って首をかしげた。 「チェーンに通して首にかけたりしないで、指にはめていればいいのに。律の指には少し 小さいかもしれないけど、ひなちゃんの指になら入るサイズだろうし」 一人言のようにつぶやくのを、俺はただ呆然と見守る。 変な話をするようだが、俺はいつも周りから、お前は鈍い鈍いと言われていた。だから、 自分が鈍いと思われていることは認識していたが、どこがどう鈍いのかは正直わかってな かった。…だが。 「指輪はそうやって使うものだろう?…指にはめて、指を飾るためのものだ」 この大地の言葉で、俺はようやく理解した。自分の鈍さを。その意味を。 俺が小日向に指輪を渡すことが周りからどう見えるか、この瞬間まで俺は考えもしなかっ た。あの祭りの夜、大地が俺にお守りを渡してくれたのと同じ感覚でいた。 だが、あの指輪がお守りに見えるのは俺だけで、周りからはそうは見えない。男性から女 性へ指輪を贈れば、……普通、どう見える? 「…」 いや待て。 俺は小さく首を振った。 他の誰かならそうかもしれない。だが、大地は、あれは俺にとってはお守りなのだと知っ ているはずだ。 だから。 「…あれは、お守りだ」 ぼそりと一言だけ、…せめてもの反論のつもりで俺はつぶやいた。もっと何か言えればい いのだが、言葉が出てこない。 …だが。 「そうだな」 うなずいた大地は、…嫌になるくらい優しい声で、すぐにこう付け加えた。 「でも、お前の大事な指輪だ。…せっかくだから、誰かの指を綺麗に飾った方がいいじゃ ないか」 ………っ。 「…いつまでもこんなところで立ち話も変だな。ひなちゃんもすぐには来そうにないし、 先に学校に行ってようか」 大地はさらりと俺に背を向けた。 二年半。ずっと一緒にいた。大地のことなら何でもわかっていると思っていた。大地も俺 のことをわかってくれていると思っていた。……それなのに、どうしてこんなささいなこ とで、気持ちがすれ違ってしまうのだろう。 俺は何かを間違えたのか。それとも何かが足りなかったのか。 立ちつくす俺の前で、大地の背中がどんどん遠くなる。ひりひりと喉が渇いた。声をかけ たいのに、今ならまだ間に合うはずなのに、何も言葉が出てこない。何をどう言えば大地 にちゃんと伝わるのかがわからない。 俺にとっては、あの指輪はただのお守りだ。小日向のことは妹のように思っていて、彼女 が緊張しているのを見たら、それを和らげてやりたくなった。それだけのことだと説明し たいのに、ありのまま言ってもそれが大地に伝わる気がしない。何を言っても、優しい声 でそうだねといなされてしまいそうで。 俺がついてこないことに気付いた大地が足を止めた。俺を振り返る。…その目がやっと、 俺を見た。 「…律?」 ただそれだけのことがひどくうれしくて。…立ちつくして動かなかった足が、ようやく動 き出す。 遅すぎたのか。待ちすぎたのか。もっと早く思いを告げれば、こんなことにはならなかっ たのか。…もう、やり直すことは出来ないのだろうか。 俺が追いつくのを待って、大地はまた歩き出す。話すのは、昨日の練習のこと、アンサン ブルで合わせたときの問題点のこと、宿題はもう終わったのかと俺の心配をし、彼の飼い 犬の失敗を披露する。 いつもと変わらない通学路で、いつもと違うことがある。 大地の心が閉ざされてしまっていること。俺の言葉が大地に届かないこと。 「…」 俺は唇を引き結んだ。 …まだ、何かが決定的に終わったわけじゃない。まだ間に合う。 俺はまだ、大地に何も伝えていない。大地からも何も聞いていない。俺たちの三年間が、 こんな風に終わってしまうなんて認められない。 何か告げて終わってしまったのなら、あきらめもつく。だけど、何も言っていないじゃな いか。俺も。大地も。 夏の終わりの太陽が、俺たちをアスファルトに焼きつけるかのようにじりじりと照らす。 こんなに暑いのに、心だけが氷のように冷えて、ひどく痛んだ。