胡蝶

「陛下、中つ国から文です」
アシュヴィンは顔を上げ、のんびりした顔で机の前に立つリブを見た。やや首をひねって
から窓外に目を向ける。
常世の国は春を迎えようとしていた。ついこの間まで枯草の色をしていた草原は早緑色に
覆われて、木々の枝にもつぼみがふくらみ、若芽が雅を添える。この調子なら、戦を終え
たばかりの昨年は開かなかった花も、また美しく咲き誇るだろう。今はまだ、静かに眠っ
ているが。
「…そうか。彼方も俺も、即位してもう一年だな」
「ああなるほど、…その件かもしれません」
「…かも?」
アシュヴィンは片眉を上げる。
「内容を確認していないのか?」
リブはアシュヴィンの腹心で側近である。たいていの書簡には先に目を通していいと許可
を与えてあり、中つ国の女王陛下からの文書のほとんどもその例外ではない。現に、新年
の挨拶で届いた書簡はリブが紐をほどいてからアシュヴィンの手元に持ってきた。目を通
した、というしるしだ。
「はあ、文はまだ御使者の手にありますので」
頭をかきかきリブはそう説明したが、どこかおもしろがっているような目をしている。ア
シュヴィンは鼻を鳴らした。
「何だ、大層だな。親展文書か」
「文書が親展というか、運んできた御仁が特別というか」
「……?」
リブは、主の周囲に疑問符が飛ぶのをいっそ楽しんでいる顔だったが、アシュヴィンがそ
の態度に焦れて、空腹の虎のような目をして睨み付けると、さすがに居住まいを正し、こ
う告げた。
「文を持ってこられたのは中つ国の葛城将軍です」
「…っ」
アシュヴィンはうっかり果物の種を飲み込んでしまったときのような顔をして、それから
どすん、と椅子の背もたれにもたれかかる。
「…それはまた」
と言って一旦言葉を切り、続く言葉を探す。ややあって、首をすくめたアシュヴィンの口
から出てきたのはあまりひねりのないこんな一言だった。
「…豪勢な使者だな」

謁見の間よりも多少私的な面会の際に使われる控えの間に、彼はいた。
窓枠に手を添えてきりりと背を伸ばし、静かに窓の傍に立って外を見ている。アシュヴィ
ンが派手な音を立てて扉を開き大股に近づいていくと、穏やかな笑みを浮かべて振り返っ
た。
「…久しぶりだな」
言いながら差し出してきたものが、千尋からの文らしい。丁寧に結ばれた紐をほどいて読
み進めると、内容はやはり、即位一年を祝う言葉と、後は他愛のない時候の挨拶だ。おそ
らくそんなところだろうと予想はしていたものの、これを運んできた使者の格を考えると
拍子抜けする。
「…相変わらず、お前の主君のやることは読めないな」
気の利いた言葉も浮かばず、思ったまま、身も蓋もないことをアシュヴィンが言うと、忍
人は少し不思議そうに問い返してきた。
「というと?」
聞き返されると困る。アシュヴィンは首をすくめ、べらん、と竹簡を広げて忍人の前に突
き出し、びらびらと振った。
「ごく普通の時候の挨拶にしては、ずいぶん使者が豪華じゃないか?…この文章に何か深
い暗号が隠されていて、俺がそれを読み解けていないのでなければ」
拗ねた子供のようなものの言い方だと、言ったアシュヴィン自身が思う。忍人もそう感じ
たのか、少し、子供をなだめる年長者のような目をした。その眼差しのまま、どこかすま
なそうに、
「陛下の咎ではないんだ」
忍人は弁明した。
「元々、文ありきの使いじゃない。文に内容が薄いのはそのせいだ」
「ああ、なるほど…」
説明を受けて納得しかけて、
「…は?」
アシュヴィンは思わず問い返す。
「…というと?」
「…使者ありき、の文ということだ」
忍人はさらりと、先の言葉をひっくり返してみせた。
「常世の国を俺がなるべく自然に訪問できるようにと、陛下が計ってくださった結果がこ
の文だ」
俺は中つ国の将軍だ。前線にいたから、俺の顔を知る兵は常世には多いだろう。国の交わ
りが改めて結び直されたとはいえ、かつて敵の首級であったものに、ふらふらと物見遊山
に出歩かれるのは、貴国の臣民にとって気分のいいものではあるまいし、疑いの声も出る
かもしれない。
「やましいことを疑われるような芽は摘んでおこうと、文の使者という形で入国させても
らった」
アシュヴィンは少し意表を突かれた。
「…何故」
なぜそうまでしてこの国を訪れようとしてくれたのか。
そもそも、国王の友だと、堂々と名乗ってやってくればいいではないか、とも思ったが、
敢えてそれをしなかったのは、臣民へのアシュヴィンの立場を思えばこそだろう、くらい
はアシュヴィンにも推測できたので、言わなかった。本当は、水くさいことを言う、と心
中穏やかではいられないのだが、何とかそれはこらえる。
アシュヴィンの何故という一言に、彼はゆるゆるとうなずいた。元より、説明が必要だと
は思っていたのだろう。長い話になるがかまわないか、と前置きの言葉をもらしたので、
アシュヴィンは慌てて彼に椅子を勧めた。
忍人は、戦の終盤、ずっと体調を崩していた。持ち直したのか、今の顔色は穏やかで、長
旅の後にもかかわらず苦しそうには見えないが、いつまでも立ち話は彼の体に良くないは
ずだ。
…そして彼の話は、まさにその体の不調のことから始まったのだ。
「君も知っての通り」
忍人はそう話し始めた。
「俺は戦いの終結後から長く床についた。今はもう快復したが、その療養中、俺は何故か
ずっと似たような夢を見ていた」
忍人はそこで少し言葉を切って、何故か室内をぐるりと見回した。
指を組んだ両の手をあごに軽く当てて話を聞いていたアシュヴィンが、片方の手を少しあ
げてこめかみをこすると、それに促されたように、彼はまた話し始めた。
「夢の中で俺はいつも、石造りの城の中で誰かを捜している。それは見たこともない建物
だ。中つ国には石造りの建物は少なく、たいていは木で作られている。強いてあげるなら、
高千穂で見た土雷の邸に似ているが、それよりも複雑で遙かに大きい。俺はその建物の中
で闇雲に誰かを捜していて、いつも見つける前に目が覚める、そんな夢を繰り返し見てい
た」


忍人の体調が快復し、宮の仕事に復帰してからは、忙しい日々が続いて必然的に眠りは深
く重くなった。あの不思議な夢については、相変わらず見ているけれども自分が朝起きた
ときに覚えていないのか、それとも夢すら見ないほどいつも深く眠っているのか、いずれ
にせよ忍人の意識の表面からは姿を消した。
那岐がこう聞いてきたのはその頃だった。
「忍人、何か気になることでもある?」

橿原宮では千尋の側近だけを集めて朝議を行うことがある。あの戦いの日々を共に過ごし
た人間ばかりなので、朝議の後は大概、気の置けない軽い雑談に移行することが多かった
が、その日の那岐はやや眉をひそめ、気遣わしげな目で忍人を見ていた。
「…何故」
忍人にとってはその那岐の問いはずいぶん唐突に思えた。ので、思わず問いに問いで返す。
那岐は肩をすくめた。
「たまに、心ここにあらずって顔してるからさ。…自分では気付いてなかったのか」
忍人は一瞬、那岐が何を言っているのかわからなかった。けれども不意にゆらゆらと、脳
裏にあの石造りの建物が立ち上がり、はっとする。…忘れていたはずだったのに、無意識
のうちに自分はあの夢を心のどこかにしまいこんで、ずっと気にかけていたようだ。
「…ああ、という顔をしましたね」
静かに指摘したのは柊だ。忍人は那岐から柊に目を向けた。どこか助けを求めるような目
になってしまったのかもしれない。眼帯で隠されていない方の柊の目が、おやおや、と見
開かれてからからかうようにすがむ。忍人は少しうろたえ、口惜しくて目を伏せた。二人
の無言のやりとりを見ていた那岐が、もういいだろうとまた口を開く。
「思い当たることがある?」
忍人は再び那岐を見た。
「気になる、というわけでもないんだが」
ふ、と息を吐いて、忍人はやや目を閉じ、脳裏に残る風景を追うように話し始める。
壮麗な石造りの建物、誰かを必死に捜している自分、いつも相手を見つけることが出来な
いまま目が覚める夢の終わり。
朝議の場はしんと静まりかえった。
その静けさを破り、ぼそりとつぶやいたのはまた柊だ。
「石造りの壮麗な、ね」
手袋をした指が一本、唇に当てられている。
「常世の国の根宮、ではありませんか」
聞いていた何人かがあっと声を上げる中、遠夜は静かにうなずいた。柊が口に出す前から
そうではないかと気付いていたらしい。
忍人は声も上げなかった。疑うでも納得するでもなく、ただ目の前の柊を凝視する。
「石造りの広くて複雑な建物といえば、まず思い浮かぶ建物はそれですが。君も禍日神と
の戦いの折、一度は足を踏み入れたでしょう。…もっともあの時は、頭上に黒い太陽とい
う敵がいたから城内に入ることはなかったし、辺りをゆっくり確認する余裕もなかったで
しょうが」
忍人は腕を組んだ。確かに、建物の印象は似ているかもしれない。しかし、どうもぴんと
こない。
「…」
「すっきりしませんか」
重ねて問う柊は、なぜかいつもの飄々とした態度が影を潜めていて、余り見ることのない
真剣な顔をしている。そのことに気圧されて、忍人はつい、本心を吐露した。
「根宮で捜すといえば、俺にとっては敵に他ならないだろう。…そうではないんだ。俺は
その誰かに会いたいと思っている。会えなくて目が覚めたとき、少し寂しく思うほど」
「根宮にいるからといって、敵とは限らないでしょう」
今度口を開いたのは、今までずっと黙っていた千尋だ。何故か、彼女もひどく真剣な顔を
している。
「アシュヴィンだってリブだっているじゃない」
「いや、それは…」
確かにそうだが。
あのさっぱりした気性の皇子は嫌いではないし、もっと時間があればもっと親しくなれた
のでは、という気はする。しかし、彼とは慌ただしく短い期間共に戦っただけで、深く内
面まで踏み込んで語り合うことなどなかった。その彼に、夢の中とはいえ、会いたくてた
まらないと切望するのは、どこか不思議な気がするのだが。
その思いを率直に言うと、千尋が少し眉を曇らせた。
「でも、どこかであったことなのかもしれないわ」
低くつぶやく。
「もしかしたら、どこかでそんな風に捜したことがあったんだわ。今の忍人さんに記憶が
なくても」
「陛下」
珍しく、柊が低く強い声で千尋を呼んだ。
千尋ははっとした顔で口元を押さえる。
「千尋って、前世とかそういうの好きだった?」
那岐が少し呆れ顔になる。それを見た風早が取りなすように、
「女の子はそういう話が好きなものですよ」
と微笑んだ。
千尋は小さくえへへと笑って頬をかく仕草をし、柊もいつもの飄々とした顔に戻ったが、
二人の間にはまだぎこちなさのようなものが漂っている。…思いが通じ合ってからはいつ
も、穏やかに柔らかい空気を醸している二人には少し珍しいことだった。
場の気まずさを気遣ってか、再び風早が口を開く。
「一度、忍人は根宮に行ってみればいいんじゃないかな」
「…は?」
「俺も、石造りの大きな建物といえば根宮のような気がする。それにもし忍人が夢に見た
のが根宮でなくても、少し仕事を離れて旅をすることで、何か気分が変わって夢を見なく
なるかもしれない。…ストレスがたまっているのかもしれないしね」
「酢と栗鼠…ですか?」
目を丸くした布都彦に、言うと思った、と那岐が鼻を鳴らし、神経的な過労というような
意味ですよと風早がすまなそうに解説する。その風早を見ていた忍人が視線を感じて首を
めぐらせると、千尋が強い瞳で忍人を見ていて、目が合うと一つうなずいた。
「行ってきて、忍人さん」
「…陛下」
「常世の根宮へ行って、アシュヴィンに会ってきて」
「…しかし」
忍人は口ごもった。
国の交わりが結び直されたとはいえ、忍人は中つ国の軍の前面に立って戦ってきた将軍だ。
常世の生き残りの兵には、彼を見知る者も多いだろう。何の用もなくへいへいと物見遊山
に出かけていくのはアシュヴィンのためにも芳しからぬことではないだろうか。
「じゃあ手紙を書くわ」
忍人の言葉を聞いた千尋はけろりとそう言った。
「物見遊山でなければいいのでしょう?」


アシュヴィンは忍人の話を聞きながら、不思議な情景が脳裏をよぎっていくことに戸惑っ
ていた。
いくつもの場面、そのどれもが自分と忍人が親しく語らう状景なのだ。場所は天鳥船の空
中庭園や、闇に沈む彼の寝室。陽光がまぶしく差し込む根宮では、彼の姿は見えないもの
の、彼と話していると自分は意識している。
(…なんだこれは?)
アシュヴィンはそう自問した。
実際は、彼と語らうのは楼台での軍議の席や、行軍途中の作戦確認くらいだったはずなの
だが。
長い話を終えて忍人は口をつぐんだ。しかし、アシュヴィンはまだ肝心なことを彼から聞
いていない。
「…それで?」
問いかけに忍人ははっと我に返った様子で、慌ててアシュヴィンに向き直る。
「…どうだった、根宮を見て。お前が夢で見たのはここか?」
「……」
即答はなかった。彼はゆっくりと室内を見回す。壁、戸口、床、…最後に一番長く、窓外
の風景に目を向けて。
「おそらくここだ。季節も今頃だったのではないかと思う。外はやっぱりこんな風に明る
くて、だが花が咲くには少し早い。…不思議だな、夢ではただ誰かを捜しているとしか意
識しなかったものが、こうしてここにいるといろんなことがどんどん思い出されて」
彼は額を押さえた。
「…君と約束したはずはないのに」
喉に何かが詰まったように、アシュヴィンは息をのんだ。
忍人のその一言に、彼の中にもよみがえるものがあった。暗い部屋の中で静かに寝台に横
たわる彼と、その傍らに佇む自分。闇の中、とろけるように広がる花の香り。……たった
一つ、交わした約束。
いや、そんなことはなかった。約束など交わすことはなかった、はずなのに。

……でも、どこかでそれはあったことなのよ。

懐かしい少女の声が、聞こえた気がした。

「…約束、とは、もしや」
かすかに震えるこの声は、本当に自分の声か。
「…俺の国に、花を見にくるというものではなかったか」
額を押さえうつむいていた忍人が、弾かれたように顔を上げた。まさかそんな、という顔
でもあり、やはりそうか、という顔でもある。
「俺は、…やはり君と約束したことがあったのだろうか。それを失念していただけなのか」
「いや」
アシュヴィンは首を横に振った。
「約束した記憶は、俺にもない。だが、…おかしな話だが、そんなことがあったような気
がするんだ」
目と目があって、…もう、二人とも、理解するしかなかった。
どこかできっと、それはあったのだ。そしてなかったことになってしまった。おそらくだ
が、千尋と柊はどこかで起こったことが何らかの理由で失われてしまったことを知ってい
るのだろう。だから千尋は、忍人を根宮に来させることにこだわった。
二人の言葉が途切れると、窓の外から鳥のさえずりが聞こえてきた。まだ幼いのか歌声は
少しぎこちなく、けれども春の訪れを歓ぶように高らかに空に響き渡る。
「君と、話したいことがたくさんある気がする」
改めて訥々と話し始めた忍人の言葉も、幼い鳥のようにぎこちなかった。彼はずっと戦い
の中にあったから、こんなふうに誰かに気持ちを吐露することなどなかったのだろう。…
…それはアシュヴィンも同じだった。
「ああ。…俺もだ」
大勢の臣下を前にしても臆することなく演説をひとくさりぶつこの口が、こんなにたどた
どしいのは何故かと思う。
「…あいにく、まだこの時期、お前に見せたい花は咲いていない。…だから、また必ずこ
こに来い。…ただし」
「…ただし?」
アシュヴィンは真剣な目で忍人の瞳をのぞき込んだ。
「今度来たときに、中つ国の女王からの使者だと名乗ったら、根宮には入れてやらん」
忍人は一つ大きくまばたいた。必ずここに来いと言った舌の根も乾かぬうちに、入れてや
らんと言われる理由がわからない、という顔だ。
アシュヴィンはその鼻先に指を突きつけ、
「今度は堂々と、俺の友だと言って入ってこい」
忍人はもう一度大きく瞬き、…やがてふわりと相好を崩した。喉がくっ、と鳴り、そのま
まくつくつと笑い始める。つられてアシュヴィンも笑い始めた。

窓の外を気の早い蝶が舞う。黒い羽が、日の光を受けたところだけ青く光って美しい。彼
の蝶は二人が笑い合う部屋の窓枠に一瞬止まって羽を動かしたが、アシュヴィンも忍人も
それに気付かない。そのまま蝶は再び飛び立ち、空の彼方へ消えていった。