それは猫を殺すもの 会場の外は人波でごった返していた。コンクールのためではなく、今日この近くで大がか りな花火大会が行われるのだという。いきいきと突入していく千秋、いやいや付き合わさ れる芹沢をさらりとした笑顔で見送って、蓬生は人の流れに逆行するように、寮への帰途 をたどり始めた。 歩きにくいことこの上ない。こんな天の邪鬼は自分一人かとため息ついて足を止め、少し 人をやり過ごそうと道の端に寄ったときだった。 「土岐」 名前を呼ばれて振り返る。 「……榊くんやんか」 蓬生の数歩後ろにいた大地は、静かな苦笑を浮かべて片手を挙げ、人をかきわけるように して追いついてきた。 「珍しい。…一人なん?」 「ああ。今年の花火は何だかいつもよりも人出がすごいからね。律は、せっかくだからひ なちゃんや響也と少し花火を見ていくって、残ったけど。……土岐こそ、東金は?」 「千秋も花火…というか、花火大会を見て帰る、いうから置いて帰ってきた。千秋はお祭 り騒ぎ好きやけど、俺は、花火より人ばっかり見てるようなんは遠慮したいわ。人に酔う ねん」 「…なんとなく、らしいね」 「どっちが?…俺が?千秋が?」 「どっちも」 すまして答えて、目をすがめるようにして笑う。 「まっすぐ寮に帰るなら、抜け道を案内するよ。…そう思って追いついてきたんだ。この ままメインストリートを逆行してたんじゃ、花火大会の会場にいるより人に酔うだろう?」 「…ありがたいわ」 蓬生は本気でつぶやいた。 「実際、もう半分くらい人に負けててん」 「だとしたら、声をかけて良かった」 こっちだ、と、先に立って道をそれる大地の背を、蓬生はおとなしく追った。 「本当は少しためらったんだ。…顔を合わせたら、またいつもみたいにからかわれるんじ ゃないかと思って。…正直、今日は対応する体力が残ってない」 「心配いらんよ。俺かてくたくたや。精神的に」 「精神的?」 「そ。…千秋、勘がええから」 大地がふっと足を止め、蓬生を振り返った。…蓬生は、静かに笑う。 「ファイナル出場おめでとう、榊くん。……少しは、音、ようなったやん?……まだまだ やけど」 「……土岐。……その」 「待った」 口を開きかけた大地を、土岐は片手で制した。 「君の質問に答える前に、俺の質問に答えてもらおか。…あの時みたいに、本音でいこ。 空言はなしや」 昼間の熱を残したぬるい風が、ビルの合間をゆるゆると流れて、大地の前髪と蓬生が肩の 後ろに流した髪をなでていく。 「…なあ、榊くん。…ほんまに如月くんは、小日向ちゃんや弟くんと花火見るからいうて、 君を一人で先に帰したんか?」 「……」 大地は、肩にかけたヴィオラケースを背負い直してから、そっと腕を組んだ。蓬生はその 目を静かにのぞき込む。 「……違うんちゃうん」 「……」 「ほんまは君が、適当な理由つけて、如月くんらを後に残してきたんやろ?」 大地の蓬生を見る目もひどく静かだった。 「…後者だとしたら?」 視線が交錯する。どちらも逃げない。…先ににやりと笑ったのは蓬生だった。 「…歩こ。…歩きながら、君の質問を聞くわ。その方が、君とは楽に話せる気がする」 言って、まず自分からと蓬生はすたすた歩き出す。…すぐに大地がそれに追いついて、蓬 生に肩を並べた。確かに、蓬生が先に立って歩いては、道案内にならない。だいたいの方 向は間違えない自信はあるが、すぐにメインストリートにぶつかって混雑に巻き込まれて しまうだろう。 「歩いていると、話しにくくないか?」 傍らを同じ速度で歩きながら、蓬生の横顔を確かめるように顔を向けて、大地が言う。 「ええから、前見て歩いとって。声は聞こえる。会話も出来る。…無理して顔見ることな いやろ。どうせ、立ち止まってお互いの顔じろじろ見とったら、俺らすぐ相手の腹の中読 んでしまうんや」 「自覚があるんだな」 「榊くんと違て、俺は本来、素直で正直やねん」 けろりと蓬生が言い放つと、横顔でもはっきりわかるくらい、大地が呆れた顔になった。 「どの口でそれを言うかな」 「この口」 ふふん、と蓬生が笑って唇に人差し指を当ててみせると、ちらりとその仕草を見た大地が ふっと顔を背けた。 何を思いだしたか、うっすら想像がついて、唇だけで蓬生は笑う。……からかってやろう かと思ったが、やめた。 「…それで。何を聞きたいん。…口が重いところを見ると、聞きたいことは山ほどあるけ ど、何から聞いていいかわからん、てとこ?」 「…結局、顔を見なくても人の心を勝手に読むんじゃないか」 大地は苦笑した。 「言いにくそうやから推し量ってあげただけのつもりやってんけどね。…図星なん」 「まあね。……実際、何から聞いたものかな」 足取りが少し遅くなる。大地は少し視線を遠く、思い出すような眼差しになった。 「幕間に、廊下で少し休憩してたら肩を叩かれたんだ。……振り返ったら東金で、何か言 われるのかと思ったら、にやりと意味ありげに笑っただけで、結局何も言わずに行ってし まった」 …千秋、と蓬生は少し苦笑する。 …わざわざ、何をしとんや。 「…言うたやろ。千秋は勘がええねん。…俺からは別に何も言うてへんけど、君に助言し たんが俺やって気付いたみたいや」 大地は眉をひそめた。 「…東金は、…君には何か?」 「たいしたことは、別に何も。…そもそも、小日向ちゃんに『華がない』て指摘して、う っかりあないに開花させてしもたんは千秋やんか。…小日向ちゃんの変化が蛹から蝶への 羽化やとしたら、君の変化はせいぜいがいもむしの脱皮一回分くらいのもんや。俺の方が よっぽど罪がないわ」 「…すばらしい表現力だね」 大地が呆れ半分感心半分という声で言った。 「お褒めにあずかって、どうも」 蓬生は首をすくめる。 「ま、せやから、後ろめたいんは俺よりむしろ千秋の方や。榊くんの背中叩いたときも、 別に何も言わんかったんやろ。君がそない難しい顔をすることは何もあらへん。……他に 質問は」 あえてそっけなく話を振る。…大地は数秒迷い、足取りを少し遅くした。 「…あの日、…何故俺に話しかけた?」 来ると思っていた。答えも用意してある。…それでも、蓬生は答える前に、一拍の間を要 した。 「…好奇心や」 「……」 「君が、他に適任がいるなら代わってもいいと言うたことが解せんかった。ステージを降 りてもいいと言ってるに等しい。ここまできといてそれはないやろ。売り言葉に買い言葉 かとも思たけど、それでは納得出来んこともあって」 氷の炎のことは口にしない。おそらく、本人は意識していないのだろうから。 「だから話しかけた。…それだけや」 隣を歩く大地は目を伏せたままだ。 「…助言も、…好奇心からだと?」 「せやね、好奇心や」 さらりと答えると、嘘だろう、とでも言いたげに、大地がはっきりこちらを向くのがわか った。敢えてその大地を見ず、まっすぐ前を見たまま蓬生は歩く。歩きながら笑みを浮か べ、唇を開いて。 「なあ、榊くん。こんなことわざ知っとう?……『好奇心、猫を殺す』」 大地はふと虚を突かれたようにたたらをふみかけた。…踏みとどまって、自分の動揺に苛 立つように肩をすくめ、また歩くペースを取り戻す。 「ああ」 「あの日君の音を聞いて、俺は変えてみたいと思た。好奇心からや。俺の言葉を君が素直 に聞き入れるか、そもそも言葉一つで音が変わるのか、……変わったらおもしろいけど、 どないやろ。…そう思った」 そこでようやく、蓬生は大地を振り向く。 「君は、まだ完全ではないにせよ、俺の想像してた以上には化けた。小日向ちゃんも、千 秋の予想を遙かに超えて変わった。結果、俺たちはファイナル出場を逃して、……好奇心 は猫を殺した」 ふふん、と笑う。大地は何も言わない。互いの歩みは少しずつ遅くなっていた。 「せやけど、心配せんとって。俺は、君が思うほどには自分のしたことを悔いてへん。千 秋にはソロが残っとうし、何より、君の音が変わったことで、俺の中にはまた新しい好奇 心がわいてきた」 「……土岐?」 しばらく黙り込んでいた大地が、そこでようやく声を上げた。 「…なあ、榊くん」 にこりと、蓬生は笑う。 「たった一言でその変化やったら、俺が手取り足取り教えたら、君の音はどない変わるん やろ」 大地は、何をどう言えばいいのかわからないという顔で幾度かつばを飲んで、……結局、 「男同士でマイフェアレディもないだろう」 と、当惑も露わにぽつりと言った。 「そうでもないんちゃう?」 対する蓬生はうきうきと声を弾ませる。 「俺、今めっちゃヒギンズ教授の気持ちわかるわ」 ふふ、とまた微笑んで…否、ほくそえんでから、蓬生は足を止めた。大地は気付かずに数 歩先に道を歩んで、土岐がついてこないことに戸惑い、振り返る。 道はずいぶんはかどっていた。港に近い繁華街ゾーンをすっかり抜け、山手のお屋敷街へ さしかかる坂道を登ろうとしている。ここから先はどの道をたどっても人通りはほとんど ないだろうし、寮への道もだいたいはわかる。……ここで大地が逃げ出したとしても蓬生 は困らない、そんな場所で、蓬生は足を止めた。 「…自分の手で誰かを変化させるって、どんだけ気持ちいいんやろ」 大地は声もなく、ただ息を鋭く吸った。 「なあ、榊くん。…練習、見たげよか」 「……」 「千秋のソロもあるし、このままファイナルの結果を見んと俺だけ神戸に帰るんも釈然と せん。…せやから、ファイナルが終わるまでは横浜におるって、千秋とも話しててん。け ど、千秋と違って俺はこれといってすることはない。やから、暇つぶしに、君の練習見て あげよ、いうわけや」 …俺のヴァイオリンは、千秋と同じ先生の仕込みや。 「体系立てて、厳しく仕込まれた。…千秋が指導されるのも横で見とったから、他人への 教授法も頭に入ってる。それがヴァイオリンでのうてヴィオラでも問題ないやろ」 …どうする? 誘いかけるように、優しく笑ってやる。大地は、表情を殺したような冷えた眼差しで、口 元だけで笑い返してきた。 「…君のことだ。…ただで、とは言わないんだろう?」 「まあ、な。…君は教師を手に入れる。俺はおもちゃを確保する。……悪ない取引やと思 うけど?」 大地の表情は動かなかった。予想していた答えだったか。固いまま揺れもしないその顔を 見て、ああ、これは受け入れる気ぃないな、と蓬生が思ったときだった。 「…考えさせてくれ」 ぼそりと大地が言った。 受容ではない。……だが、拒絶でもなかった。 −……おーや、おや。 「…気ぃもたすなあ。……まあええわ、そういうことにしとこ。…気が向いたら声かけて くれたらええわ」 ほな、立ちどまってんと帰ろうか。 促すと、うなずいて大地はまた先に立った。今度は蓬生の歩みに歩調を揃える気配はない。 ある程度の会話の道筋が見えて得心がいったということもあるだろうし、ここまでくれば 蓬生も寮までの道を間違えることはないだろうという気持ちも働いているのだろう。 互いのペースで歩き続けると、少しずつ距離は離れていく。周りは大きなお屋敷の高い塀 が続くようになってきた。うっかりすると、曲がり角も玄関もしばらく見当たらない。こ んな立地でこの建坪ってどないやねん、と蓬生がどうでもいいことを考えたときだった。 「土岐」 前を行く大地が、ふと足を止めて振り返った。離れている距離に、少し驚いた顔をするの がおかしい。 少し困った様子で、口の横に手を当て、 「先刻の話だけど」 声を張って言ってから、手招く。 確かに、ここまで離れると話しにくいな、と、うかうか近づいたのが間違いだった。 肩に手が触れるほどの距離にまで近づいたとき、大地の腕がさっと閃いて、いつかのお返 しのようにネクタイを掴まれ、逃げないように空いた手で手首まで押さえられて、唇を奪 われる。 「…っ!」 しかも、土岐は触れるだけのキスだったが、大地はまるで蓬生の裏心を確かめるかのよう に歯列を割り、舌を絡めてきた。 「…う」 蓬生が呻いても許してくれない。 …慣れたキスだった。ゆっくりと、味わい尽くすように優しくて、それでいてしたたかで。 上の口蓋をなめられて、下腹部にずきんと重い熱が渦巻く。元より抵抗する気はなかった が、口づけが長くなるにつれ、かすかな戸惑いすらも霧消した。 「…ふ」 一瞬唇を離した隙にもらされた大地の息づかいにすらじわじわと熱をあおられて、膝がく だけそうになる。 けれども、陶酔に落とされるだけというのは性に合わない。敢えて余裕を装って、蓬生が 反撃に出ると、大地も案外に平然とそれを受け入れた。 んん、と喉を鳴らしたのはどちらだったか。 行為は、本心を隠し合う互いの言葉よりもよほど雄弁でわかりやすかった。ねだる、応え る、欲する、受け入れる。…その繰り返し。 長い長い口づけになった。体が離れたとき、二人ともしばらく息を整えなければ、話し始 められなかったほど。 「……これが、君の答えなん?」 口端をつたうものを手の甲でぬぐいながら蓬生は問うた。 「…ああ。俺は勝ちたい。勝つために使えるものは何でも使わせてもらう。…でも、一方 的におもちゃにされるのはごめんだ。君が俺で遊ぶというなら、時々は俺の方からも仕掛 ける。…その方が、スリリングな遊びになるだろう?」 ほんのりうれしい苦笑を隠すために、蓬生は手で額から顔半分を隠した。 「教えてもらう立場やってこと、忘れてへん?」 「ただ教えてもらうだけじゃなく、君が俺で好奇心を満たすという意味もあるんだろう。 …なら、対等が相場だ」 「…」 蓬生は、はっきりと笑った。 「しゃあない。…ええわ、そういうことにしとこ。…君の言うとおり、おとなしいお人形 さんより、思いがけへん動きをしてくれる機械仕掛けの方が、おもちゃとしては長いこと 楽しめそうやしな」 でも、と大地の鼻先に人差し指を突きつけてみる。憎らしくも平然としているその顔がな んだか愛おしく思えてきて、…俺、ちょっと重症ちゃうん、などとこっそり蓬生は思う。 「その代わり、俺の期待は裏切らんといてや?」 無表情に、大地は問い返す。 「それは、音楽のことかな。それともおもちゃとして?」 「決まっとう。……両方や」 「裏切らないよ」 あっさりと言い切って、…ふ、と大地は笑った。 「…口だけでないことを祈るわ」 「先生がいいからね。…音楽に関しては」 おや、と眉を上げて。蓬生はややつんとして言い返す。 「おもちゃとしては?」 「素材がいいからね」 ……。 「よう言うわ」 ふはっ、と吹き出した蓬生を見て、大地もようやく、はは、と声を出して笑い始めた。 かすかに花火の音が聞こえる。今までもずっと鳴り続けていたはずなのに、ちっとも聞こ えてこなかった。そのための耳を開いてこなかった。興味を持って耳を澄ませば、すぐに 聞こえる音なのに。 好奇心。それは、猫を殺すもの。…そして、人をつなぐもの。