後夜祭 弦楽四重奏編成のウィーンの森の物語の調べがホールから流れ始めた。…どうやら、後夜 祭のダンスパーティーが始まったようだ。 屋上で風に吹かれながら大地はヴィオラの音を耳で追っていた。ファーストヴァイオリン のメロディはくっきりと際だっているが、漏れ聞こえる程度の音量では、なかなか内声部 のヴィオラの音はつかまえにくい。 ひたすらに音に集中していたので、異音を捕らえたのも早かった。 誰かが、屋上への階段を上がってくる。規則正しい足音に不思議と迷いはない。むしろ急 いているかのように早い。 一瞬警戒した大地の瞳が、つと見開かれた。 確たる証を見つけたわけではない。だが、ほぼ間違いない。…そう思った。 だから大地は待った。半身を屋上のドアに向けて、身体をフェンスに預けて、ワルツの音 を追いながら。 屋上の重い扉がゆっくりと開く。押し返す風の力に抗しながら隙間から姿を現したのは思 った通り律だった。 「やっぱりここにいたのか、大地」 静かに名を呼んで、ゆっくりと近づいてくる。大地は挨拶代わりに片手を挙げた。 「医歯薬模試が近いから、後夜祭には出ずに帰る、んじゃなかったのか?」 「律こそ、後輩の演奏が気になるから、会場に残ると言ってなかったか?…何故ここに?」 「…」 「…」 見つめ合い、無言で促し合って、…折れたのは大地だった。 「…最後の文化祭だ。…少し余韻に浸ろうと思ってね。…律は」 「何となく、大地がここにいる気がした」 ふっ、と大地が笑う。笑われて眉をひそめる律の顔をぐいとのぞきこんで。 「…それで?」 「…?」 「かくれんぼなら、みーつけた、でおしまいだ。なら、ここでおしまいかい?…それとも、 俺を見つけて何かしようと思った?…律?」 ねずみをいたぶる猫のような顔をしているんだろうな、俺は、と、大地は苦く思う。なぜ こんな言い方をしてしまうんだろう。素直に自分から言えばいいのに。 ……これが最後だから、…どうか、俺と…。 濁る大地の思いと裏腹に、まっすぐに大地を見る律の瞳は澄んでいた。 「後夜祭には出ずに帰るから。…そういう理由で、ダンスの誘いを全て断ったと聞いてい た」 「…っ」 思いがけない指摘に、大地は思わず喉を詰まらせる。 「誰から、そんな」 「誰からでもない。皆、噂していた。厭でも耳に入る」 「……」 大地はため息をついて肩をすくめ、お返しのように指摘した。 「律こそ、…ワルツは踊れないと断ったそうじゃないか」 「ああ」 率直に肯定して、揺るがず自分を見つめる瞳の強さに、大地は気圧されそうになって必死 に踏みとどまる。 「お前以外の相手とは、ワルツは踊れない」 「…っ、それは」 あの時確かにそんな話をした。だが、それは冗談にしたはずだった。大地はちゃんと男性 パートのステップを教えたのだ。律の要望があったので、女性のステップも教えたが、そ れはあくまでお遊びのつもりだった。 だが律は、 「大地とだけ踊れればいい。だから、忘れてしまった」 ので、もう男性のステップは踊れないという。 「…律」 大地の苦しそうな声を律はどう聞いたのか。 「…俺は、それでよかった」 ぽつりと言い、それから、いっそさばさばした声になった。 「元々、ワルツを踊ろうとは思っていなかった。俺にとってワルツは演奏するもので、踊 るためのものじゃなかった。だが、大地にならワルツを習いたいと思ったのは本心だし、 大地が女性パートしか教えられないから他の奴と踊るとき困るだろうと言ったときは、い っそうれしかった。……大地としか踊れないという言い訳ができる」 お前には冗談だったんだろうけど。 微笑みながら言われて、胸が痛かった。 律はずっと真面目で本気だった。ごまかして逃げ腰だったのはいつも大地だ。 律がダンスのパートナーを申し込まれて断ったと聞いたとき、こっそり喜んだ。一緒に踊 りたいと思っていた。 けれど、結局自分は何もしなかった。ただ謎かけをして、律からの言葉を待っただけ。 大地は深呼吸した。 ホールからはまだワルツが聞こえてくる。今演奏されているのはレハールの金と銀。 「律」 さしのべられた手に、律は少し困った顔をした。 「…強いるつもりはない」 まっすぐ澄んでいた瞳が、ふと惑った。 「お前が冗談にしたいなら、この手は取らない」 「いや。本気だよ」 片手を胸にあてて。片手をさしのべて。芝居がかっていると承知で、誘う。 「どうか一曲、俺と踊ってください」 それから。 「その後で、二人で後輩達の演奏に思いっきりけちをつけよう。…こんな曲で上手に踊れ るか!…って、さ」 悪戯っぽい大地の言葉に律は軽く目を見開き、…ふわりと表情をゆるめた。さしのべられ た手に応えるように手を与える。 「…もし、俺たちが上手に踊れたら?」 与えられた手を受け止めて、大地は律の身体を引き寄せた。耳元にささやく声は笑ってい る。 「そのときは自分たちをほめる。…二年も前に教えたステップを忘れず踊れる律の抜群の 記憶力と」 律の瞳も笑った。近づきすぎては相手が踊りにくいかと思いながらも、その胸に、甘える ように額を預けて。 「不慣れな俺を踊らせる、大地のリードの上手さを?」 「そういうこと」 曲が終わる。踊り終えて、笑い合って、…交わす言葉は密やかに、星空だけが聞いている。