この世で一番怖いもの 女の子というのは恐ろしいほどめざとい生き物だ。 コンクール優勝を部で報告し、秋からのスケジュールと部長以下執行部交代の選出日程に ついて説明してミーティングを解散するやいなや、大地はすっ飛んできた三年生の女子達 に取り囲まれた。そして彼女たちは開口一番、こうだ。 「ねえ榊くん、指輪どうしたの?」 ……どうも、ミーティングの間中ちらちらちらちら視線が大地に飛ぶと思ったら、それが 気になっていたのか。 …だがしかし、本当に恐ろしいのは。 「実を言うとあの指輪、全国優勝の願掛けだったんだ。…人に言うと、願掛けの意味がな いかと思って、誰にも言ってなかったけどね」 めざとい女性陣よりもむしろ、凶悪なほどすらすらといかにもな嘘がつける大地の方なの ではないだろうか。 …と、律はしみじみ思う。 「晴れて優勝したからと思って外したら、くっきり指輪の跡がついてたよ、ほら。…また 何か、別の指輪でも捜そうかなあ。受験の合格祈願をしないと」 おどけてみせて、いっそうに煙に巻く。…見事な手腕だと、真実一路の律としては、人目 さえなければ拍手したいくらいだった。 「律?…何か言いたそうだけど、どうかした?」 おまけに、しゃあしゃあとこちらに話を振る。律は首を横に振って、いやなんでも、と言 うしかなかった。 「……本当に」 そろって部室に居残りして、引き継ぎ資料を作成しながら、律はしみじみとため息をつい た。二人きりになったのでようやく本音で話せる。 「よくもああすらすらと、口からでまかせが言えるな」 「嘘をつくコツはちょっぴり本当を混ぜることだよ」 律の恋人はさらっと怖いことを言う。 「あながちでまかせでもないんだ。あの指輪をはめていたのは、夢を信じる自分でいるた めだったしね。全国優勝の夢は叶ったし、音楽の妖精にも出会えた。だから外した」 「…妖精?……いつ見た?」 ふ、と大地は笑う。 「目の前にいる」 「どこに」 「ここ」 とん、と大地の指先が触れたのは律の鼻先で、律は思わず眉間にしわを寄せた。 「大地、冗談は……」 「冗談じゃない、本気だよ。俺の音楽の妖精はお前だ、律」 真顔で切々と言われて、基本的に言葉は額面通りに受け取りたい律としてはもう、それが 本気なのか冗談なのか判断しかねた。 「………大地」 ため息混じりに名前を呼ぶと、 「困ってる?」 大地は笑いながら言った。 「…少し」 律は正直に答える。 「そう。…じゃあ、あと一つだけ、律を困らせるかもしれないことを言って、それで黙る ことにするよ」 「……何?」 身構えないで、と大地は苦笑している。 「あの指輪、はめてくれないのかな」 胸がどきんと一つはねた。大地から目をそらす。 大地の指輪は、告白のどさくさで律が強引に彼から奪ったようなものだ。奪っておいて、 自分は机の引き出しにしまいこんでいる。 はめようと思わなかったわけではない。サイズが大きく違うわけでもない。誓いの薬指に はめるのは無理だが、律の利き手の左手の中指にはぴたりとはまる。 だが、先の次第で、身近な人間達は皆、あれが大地の指輪だったと知っている。その彼ら の前であの指輪を自分がはめていたら何を言われるかと思うと、どうしても勇気が出なか った。 大地もたぶん、律の心の動きなどお見通しなのだ。…だからこそ、困らせるかもしれない ことを言うと前置きした。そして今も、責めるでもなく優しい目をして、律の言葉をただ 待っている。 その優しさに、律は逆らえない。 「……はめてない、わけじゃない」 おずおずと告白した。 嘘ではない。夜、机に向かって勉強するとき。朝、目が覚めて着替えるとき。…時折引き 出しから出しては指にはめてみる。……大地の熱を、指輪に捜す。ひたり、唇に当ててみ ることさえある。 「……そう」 「一人きりのとき、なら」 「……うん」 だよね、と静かな声。俺も、と小さく付け加えるので、律は笑った。 「笑うのはひどいな、律」 「だが、俺の指輪は大地の指には入らないだろう?」 「でもはめてみる。…夜中にこっそりね。……確かに、小指の先がせいぜいなんだけど」 律は今どうしてるかなって、指輪に触れてみる。 その声と目の静けさに、大地の思いの深さを見る。……律は胸がきやきやするようで、そ っと目を伏せた。 「…俺の受験が終わったらさ」 不意に大地が話題を変えた。声もからりと明るくして。 「どこか二人で出かけないか?どこでもいい。景色の綺麗なところ。ヴァイオリンやヴィ オラを引いてもうるさがられないところ」 そのときなら、律は指輪をはめてくれるかな。 「一人きりじゃなくても、二人きりなら、あの指輪をはめて俺に見せてくれる?」 まっすぐな目を、まっすぐ見つめ返して。律はうなずく。 「……もちろん」 「よし決まり、約束。…受験が終わったら旅行だ」 「待て、決まりなのはそっちか?」 「駄目?」 まじまじと見つめられると、……やっぱり逆らえない。 「………駄目とは言ってない………」 大地は笑った。ふわふわ笑った。……幸せそうに。 自分にとって一番恐ろしい生き物は、やっぱり大地らしい。 一番恐ろしくて、……一番大切。