傀儡

「あんたはやっぱりそこにいるね」

人が入ってきたことには気付いていたが、敢えてそちらを見ないようにしていた。入室者
はしばらく立ち止まったまま、竹簡を手に取るでもなく、ただじっと彼を見ていたが、や
がて静かに前述の言葉を口にした。
柊がゆるゆるとした動作で振り返ると、相手は何かを見透かそうとするかのように片目を
すがめた。
「その書棚の傍。少し陰になるけど、全体が見えるところ」
瞳はそうして少ししかめたまま、…けれど、那岐の唇は笑みの形にゆるく上を向いた。
…泣き笑いのような顔だ。
「…僕が初めて見たあんたも、そんな風に陰にいたよね。…あれは電柱だったけど」
「……!」
その一言が持つ意味を、柊は瞬時に理解した。
「…思い出しましたか」
声には念押しの色があったと思う。那岐は今度は苦みなく笑って、うん、と言った。
「まだ全部じゃないかもしれないけど、大事なことは思い出した」
二人はしばらく無言で見つめ合い、…先に那岐が、肩をすくめる仕草で目をそらした。
「……あんたが風早のこと怒ってる理由、…ちょっとわかった」
「それはどうも」
柊は首をすくめる。…そのまま、ゆるりと首を横に振った。
「…まあでも、私も本当は、風早を怒る資格はないんですよ。…私と彼とは同じ穴のムジ
ナですから」
目をそらしていた那岐が、改めて柊を見る。世を斜に見ているようにも思える彼だが、実
際はひどく素直でまっすぐだ。今更ながらその事実を再確認する。
「どういう意味?」
「あの世界であなたたち四人が暮らして、…その中で忍人が幸せそうに笑っている姿を見
るのは、本当に楽しかった。そのことで後々忍人に何が起こるのか、知っていたにも関わ
らず、…ね」
だから、風早を責めたりは出来ないんですよ。
柊がつぶやくと、那岐は鼻を鳴らして何か言おうとした。…そんなことないよと言ってく
れそうで、…それを期待する自分が厭で、柊は那岐を遮るように口を開く。
「だから、よかったです。君たちだけでも記憶を取り戻して。……忍人の記憶は、戻らな
いでしょうから」
遮られたことに明らかに不満そうにしていた那岐は、柊の言葉を聞いてぱかんと口を開け
た。…その口でしみじみと大きなため息をつき、こめかみの辺りの髪を右手で乱暴にかき
乱す。
「だからさあ」
ぶっきらぼうに、彼は唇をとがらせる。
「何であんたも風早も、そうむやみやたらとあきらめようとするわけ?」
「……それは…」
「言っとくけど、取り返すからね」
僕と千尋はその気だからね。
「那岐」
言いかけた柊の鼻先に、那岐は人差し指を突き出した。
「既定伝承が、って言うつもりなんだろう。でも、風早は忍人を連れて行った。あんたは
本当なら一回しか会わないはずの僕に三回も会ってる。なら、既定伝承が奪った記憶を取
り返すことだって、出来ないとは言い切れないはずだ」
「……」
押し黙った柊の前から人差し指を引きながら、那岐はぽつりとつぶやいた。
「…千尋は、確信してる」
忍人の中にはちゃんと、…忍人をお兄ちゃんと呼ぶ女の子がいる。忍人の記憶は残ってる。
ただ出てこられないだけなんだって。
「僕たちは、その記憶を解放する」
方法はわからない。でも必ずいつか取り戻す。
だからあんたも、と那岐は続けた。
「その体にからみついてるアカシヤの糸、切っちゃえば」
「………!」
あんたは糸を上手く操ってるつもりかもしれない。次に来る糸がどの糸なのかちゃんと知
ってて、準備してるつもりかも。でも。
「僕には、あんたが糸に操られているように見えるよ」
……人形遣いでなく、糸に絡め取られた人形に。傀儡に。
那岐の若葉のような色をした瞳は、書庫の薄暗い青い光の中で翡翠色に鈍く光る。柊はじ
っとその瞳を見つめてから、静かに見えている方の目を閉じた。
目を閉じると、己の周りに無数のアカシヤが糸となってたゆたうのが見える気がした。
今までは、空中に浮遊しているようで、うっとうしくはあってもあえて気にせずにいられ
たその気配が、今は鎖を引きずっているように重い。
切れるだろうか、この糸が。
乗り越えて、アカシヤのない世界へ踏み出すことが出来るだろうか、この自分に。
「……変なこと言ってごめん。…じゃあ」
黙りこくった柊に、ぼそりと言葉を投げて背を向けた那岐が、あ、とつぶやいてもう一度
向き直る。
「言い忘れるところだった。これを言いに来たのに」
柊はゆるゆると目を開く。……驚くほどの近さで、那岐が自分の目をのぞき込んでいた。
「ありがとう、柊」
……?
ぽかんと見開かれた目に、照れくさそうに拗ねたように口をとがらせた那岐が映る。
「僕らに、手がかりをたくさんくれて。…助けてくれて、ありがとう。…それから」
僕が言うことじゃない、とは思うけど。でもどうしても言っておきたくて。
「…忍人のこと、大切に思ってくれてありがとう。……あんたがいてくれて、本当に良か
った」
………!
それは確かに那岐の声だったのだが、…なぜか柊には忍人の声が重なって聞こえた。
無器用で、けれど真摯でまっすぐな弟弟子。ともにいると、ついついからかったりぶつか
ったりしたけれど、それでも大切に思っていた。いつも、どんなときも。
じゃあ、という小さな声を残して、那岐は書庫を出て行った。柊はその背を見送るともな
しに見つめてから、ゆるりと虚空に顔を向けた。

アカシヤと共に繰り返される己を、今度こそ振り捨てることが出来るだろうか。
羽張彦と一ノ姫を救えなかった自分に、それを望むことが許されるだろうか。

…柊の答えは、まだ出ない。